中世の数理科学

Wikipediaによれば、mathematicsの語源は、ギリシャ語のmáthēmaで、knowledge, study, learningを意味してたそうだ。polymath(博学)という単語には、原義が残っている。そして、ラテン語や英語に於いて、1700年頃まで、mathematicsという単語は、占星術(時々、天文学)を指していたと書かれてるけど、これは正しくない。中世ヨーロッパに於いて、「数学」という単語が、どういう分野を指してたかは、それほど固定的でもない。

以下、ヨーロッパと書いてる時、西方のラテン語文化圏を念頭に置いている。また、中世は、地域ごとに、時代区分が微妙に異なるけど、以下では、西暦800〜1600年を指す時代区分のつもりで使っている。

アラビア数学とQuadrivium

12〜13世紀のカスティーリャ王国には、トレド翻訳学派という、アラビア語文献をヨーロッパの言語(ラテン語カスティーリャ語)に翻訳する仕事をしていた学者がいた。トレド翻訳学派には、ユダヤ人が多かったとも言われ、カスティーリャ王国では、1492年にアルハンブラ勅令が出されるまで、ユダヤ系学者が活動してた節がある。

トレド翻訳学派の一人にDominicus Gundissalinus(1115~1190)という人がいて、1140年に書いたDe divisione philosophiaeの中で、"数学は、算術、幾何、音楽、天文学、scientia de aspectibus(光学)、scientia de ponderibus(science of weights)、scientia de ingeniis(science of devices)の7つのartsを含んでいる"と書いている

Mathematica quoque universalis est, quia sub ea continentur septem artes, quae sunt arithmetica, geometria, musica et astrologia, scientia de aspectibus, scientia de ponderibus, scientia de ingeniis.

ラテン語のscientiaは英語のscienceと同根の語だけど、中世には、知識とか学問のようなニュアンスで、結構広い意味だったようである。格言「知識は力なり」の原文は、scientia est potentiaらしい。

astrologiaは、直訳では、英語のastrology/占星術だけど、中世ヨーロッパの大学では、リベラル・アーツという括りで、文法学・修辞学・論理学の3学と、Quadrivium(算術、幾何、天文学、音楽)という区分をよく使っていたことを踏まえると、天文学と解する方が適切に思える。Gundissalinusの分類では、Quadriviumより広い分野を含んでるけど、この分類は、多分、アラビア科学の学問論から来ている。Gundissalinusは、トレド翻訳学派の学者だったから、別に意外ではない。


アラビアの学者al Farabi(872?〜950?)がKitáb al-Ihsa' al-'ulum("Book of enumeration of the sciences")のChapter3で、"数学"('ilm al-Ta'alim)として分類している分野は、算術、幾何、天文学、音楽以外に、後のGundissalinusが、scientia de aspectibus、scientia de ponderibus、scientia de ingeniisと呼んだ分野に相当するものがあったらしい。

アラビア語Ta'alimは、instruction/teaching/educationなどの意味だそうで、ギリシャ語のmáthēmaと似た感じっぽい(現在のアラビア語で、「数学」を意味するのは別の単語)。ラテン語にしろ、アラビア語にしろ、この分野を指すのに、あまり適切な名前とは思えないんだけど、Quadriviumにしたって、内容を反映した命名ではないので、大した理由はなかったのかもしれない。al Farabiは、これらの分野を更にtheoreticalなものとpracticalなものに分けたとよく書いてあるけど、詳細は知らない。例えば、practicalな算術は、商業とかで使われる計算ということらしい。

Quadrivium自体は、少なくとも、古代ローマ帝国末期まで遡れるらしいけど、al Farabiの分類は、どっから来たものか、よく分からない。


ついでに、De divisione philosophiaeでは、"自然科学"(scientia naturalis)として、

  • scientia de medicina(薬学)
  • scientia de iudiciis(占術?)
  • scientia de nigromantia secundam physicam(science of necromancy!?)
  • scientia de imaginibus(science of image magic?)
  • scientia de agricultura(農学)
  • scientia de navigatione(航海術)
  • scientia de speculis(反射光学?)
  • scientia de alquimia(錬金術)

の8つを挙げている。

自然科学に分類されてるscientia de speculisと、数学に分類されてるscientia de aspectibusは、現代では、どちらも"光学"の一部に相当するが、多分、ユークリッドのCatopriticaとOpticaに対応したものと思われる。Catopriticaは、鏡で反射する光の理論で、Opticaは、視覚が目から出ている視線によって生じるという考えをベースにした視覚の幾何学のようなもの。aspectibusは、aspectusの複数形で、aspectusはvisionを意味するらしいから、scientia de aspectibusは、直訳では、science of visionsとなる。

但し、プトレマイオスの本"Optica"では、両方を扱ってるっぽいし、「光学の父」と呼ばれるIbn al-Haitham(965〜1040)は、視覚が物体から目に到達した光によって生じると理解してたようなので、この区別はGundissalinusの不見識という気もする。Gundissalinusの"自然科学"には、完全にオカルトな分野も混じってるけど、いくつかは、当時のアラビア科学でも時代遅れなものだった可能性もある。


この時代には、類似の分類は色々あって、Gundissalinusのも、その一つに過ぎない。別の例として、Hugh of Saint Victor(1096〜1141)がDidascalicon de studio legendiの中で述べてる分類では、数学は、以下のように、算術、音楽、幾何、天文学の4つの知識に分かれるみたいなことが書いてあって、Quadriviumと同一と思ってよさそう。

mathematica dividitur in quattuor scientias. prima est arithmetica, quae tractat de numero, id est, de quantitate discreta per se. secunda est musica, quae tractat de proportione, id est, de quantitate discreta ad aliquid. tertia est geometria, quae tractat de spatio, id est, de quantitate continua immobili. quarta est astronomia, quae tractat de motu, id est, de quantitate continua mobili.

ここでは、4つの分野が、それぞれ異なる種類のquantitate(quantity/量)を扱うとして特徴付けされている。al Farabiの分類も、基本的には、「何らかの量を扱うのが数学だ」という思想上にあると思われる。

12世紀に於いて、mathematicaは、「定量科学」くらいのニュアンスで認識されてたのだろう。現代では、数学と実験科学は遠い印象があるけど、scientia de aspectibusの研究者としてIbn al-Haithamは、光学実験をしてたようなので、アラビア科学では、"数学"だから実験しないということは、別になかったと思われる。そもそも、アラビア天文学が、観測と計算が合うことを重視した分野だし、中世ヨーロッパの天文学者も、しばしば天文観測機器を自分で作っている。

多分、中世ヨーロッパの大学に於いて、数学とはQuadriviumのことでしたというのは、そんなに間違ってないけど、大学の外では、もっと緩いイメージで捉えられてたかもしれない。とりあえず、以下で、Gundissalinusが「数学」に分類した分野を個別に概観していく。

但し、幾何学と算術は、現代の意味でも数学の一部と見なされてるので、特に触れない。また、音楽は、よく分からないので、やっぱりpass。

数理天文学

天文学は、Quadriviumの一つではあるけど、西暦1200年頃のヨーロッパは、数学の下地が何もない状態なので、数理天文学ができるようになるのは長い時間が必要だった。江戸時代の日本も、(商人の会計や財政管理はあったにしても)数学の下地がほぼない状態から、約250年かけて和算が発展し、平方根や代数方程式の数値解法、三角関数、初歩の微分積分(極値計算法と求積法)、対数と、それらの計算法を、測量や天文学、建築(規矩術)などに応用する術を習得した。

現代の数学教育でも、小学校から(殆どが1700年までに発見された結果しか含んでいない)高校数学を学習するのに約10年かけてることを考えると、知識が整理されてない時代に、知識源にアクセスするには言語の壁がある状態で、数百年単位の時間が必要だったとしても、そういうものなのかもしれないという気がする。


以下では、中世ヨーロッパにおける、数理天文学の受容状態を簡単に追跡する。

トレド翻訳学派に、クレモナのGerard(1114〜1187)という人がいる。多くのアラビア語文献を翻訳したが、1175年に、プトレマイオスアルマゲストラテン語翻訳を行い、写本しかない時代にしては、広く回覧されたと言われる。13世紀初頭には、パリ大学にも写本があったようだ。

SacroboscoのJohannes(1195〜1256)という人は、その生涯は曖昧だが、オクスフォード大学で学んだ後、1220年代初頭からパリ大学でQuadriviumを教えるようになったと伝えられる。1230年頃、De sphaera mundi("On the sphere the World"、天球論)という本を書いて、この本は、中世ヨーロッパの大学で、天文学の標準的な"教科書"となり、1472年には、フェラーラで印刷されたらしい。ガリレオの時代でも使われてたようだ。内容の詳細は知らないけど、プトレマイオスや中世アラビア天文学の初歩的な解説を与えていたらしい。三角関数のような内容は含んでなかったぽいので、この本で、十分な計算ができるようにはならなかったと思われる。

13〜14世紀のヨーロッパで、数理天文学をやってた人たちは、情報があんまりない。13世紀のカスティーリャ王国では、アルフォンソ天文表が作られており、1270年代に完成した。計算に関わったのは、トレド翻訳学派の学者Yehuda ben MosheやIsaac ben sidという人らしい。

Levi ben Gershon(1288〜1344)は、おそらくフランス出身のユダヤ系学者らしいが、生涯は殆ど何も分かってないそうだ。1342年にローマ教皇クレメンス6世の依頼で、Sefer Milhamot Ha-Shem("The Wars of the Lord")という"科学/哲学史"の本の一部をラテン語に翻訳したとか言われている。1342年に、De sinibus, chordis et arcubus("On sine, chord, and arcs")という三角法の本を書き、ヤコブの杖という天体測量機器の発明者とされることもある。

Georg von Peuerbach(1423〜1461)は、ウィーン大学(1365年創立)で学び、天文測量機器の作成や三角関数表の計算を行い、アルフォンソ天文表の修正を試み、そして1450年代に世界最初の天文学教授となった。彼は、パドヴァ大学ボローニャ大学フェラーラ大学などで教えたこともあるようだ。Peuerbachは唐突に出現したわけではなく、彼が師事したJohannes von Gmunden(1380~1442)は、ウィーン天文学派の創始者とされ、本格的に数理天文学を開始しようと努力していたようだ。

1514年に、Viri Mathematici quos inclytum Viennense gymnasium ordine celebres habuitという本が出版されていて、ウィーン天文学派の数学者の伝記が記載されているそうである。16世紀初頭には、天文学者が、mathematici(mathematician)と見られていたことが分かる。

Peuerbachの生徒に、レギオモンタヌス(1436~1476)がいて、1464年に 三角法の著書De Triangulis omnimodusを著し、1474年に天文表Ephemerisも出版した。レギオモンタヌスの著書は、丁度、ヨーロッパで商業出版が開始した時期だったこともあり、かなり広く読まれ、影響が大きかったと思われる。

レギオモンタヌスは、1475年、教皇シクストゥス4世から、ユリウス暦の改暦相談のため、ローマに呼ばれている。グレゴリオ暦の運用を開始したのが1582年だから、改暦に至るまで100年以上かかってる。ユリウス暦への批判自体は、もっと古くからあったようである。江戸時代の日本で、西洋天文学ベースの改暦を試みた際も、何度か失敗して長い時間がかかってるので、そういうものらしい。

カスティーリャ王国出身のAbraham Zacuto(1452〜1515)は、サラマンカ大学で、天文学を勉強し、1492年に、アルハンブラ勅令でスペインを追放された後、ポルトガルジョアン2世に仕えた。1496年には、ポルトガルでもユダヤ人追放令が出され、その後の足跡は、詳しくは分かってないっぽい。

Zacutoは、1478年頃、Almanach perpetuumという本をヘブライ語で完成させた。これには、太陽の黄道座標系での予測位置以外に、赤緯表も含まれていたっぽい。Zacutoが、この本を書いた理由は知らない。レギオモンタヌスが、同時期に書いて1490年に出版されたTabulae Directionum profectionumqueにも、赤緯表が含まれてるらしいが、どれが何の表なのか、よく分からない。黄道座標での位置を赤道座標に変換するのは、別に難しくない気がする(プトレマイオスの「アルマゲスト」でも出来てた話だと思う)けど、それ以上の何かがあったのか、それとも、当時は、座標を変換するのも簡単とは思われてなかったのか、不明。

ポルトガルジョアン2世が集めた天文学者/数学者たち(しばしば、Junta dos Mathematicos/数学委員会という呼称が使われるが、当時から、そのように呼ばれてたかは不明)は、Zacutoの表をベースにしつつ、1484年にRegimento do estrolabio e do quadranteという、簡単な数表を含む航海マニュアルにまとめ、Regimento das léguas、Regimento do norte、Regimento do Solと呼ばれる遠洋航海の手法が記載されているらしい(1914年版がオープンアクセスになってるけど、殆ど何もわからない)。もう少し後に、Regimento do Cruzeiro do Sulというのも追加され、これらの手法は、江戸時代の「元和航海書」(1618年)にも、天文表と共に解説されているっぽい。

詳細はともかく、15世紀末に、ジョアン2世の雇用した数学者たちが、新しい遠洋航海術を発明して、100年以上に渡って使われたことは確からしい。コロンブスは、アメリカ大陸到達時に、レギオモンタヌスの出版したEphemerisを携行していたという逸話が残っている(これは本当かどうかは分からないが、何らかの天文表は持ってたのだろう)。ヴァスコ・ダ・ガマも、何らかの天文表を使っていたと信じられているが、どの本かについては、多少の議論があるようだ(cf. Nautical Tables for Vasco da Gama, 1497–1500?)。

そんなわけで、15世紀には、ヨーロッパも、数理天文学を習得し、航海術などに応用することができるようになった。

scientia de aspectibus

ヨーロッパで光学の研究が盛んになるのは17世紀で、理論方面では、フェルマー、スネル、デカルトホイヘンスなどの光学研究は現在まで知られている。望遠鏡や顕微鏡のような光学機器も、この時期に作られた。ヨーロッパでは、13世紀末に老眼鏡が作られたと言われ、1600年頃のヨーロッパでは、近視/遠視用共に眼鏡は一般的なものになっていたらしい。ガラス職人のレンズ加工技術も高水準になってたんだろう。

ヨーロッパの光学研究先駆者に、13世紀のポーランド人Witelo(あるいはVitello)という人がいる。彼は、1260年頃、パドヴァ大学で学び、1270年代にPerspectivaという本を書いたそうで、この本は、Ibn al-HaithamのKitāb al-Manāẓir(The Book of Optics)に基づいて書かれたと考えられている。1572年に、Friedrich Risner(1533〜1580)が、Opticae thesaurusという本を書いて、そこにal-Haithamの本のラテン語訳も含まれてたようである。この本は、ヨーロッパで広く読まれ、光学研究ブームの切っ掛けとなったっぽい。Keplerは、1604年に、"Ad Vitelonem paralipomena”という本を書いた

記録上では、最古の望遠鏡は、オランダ人Hans Lipperheyが1608年に特許を申請したものとされる。Keplerの本は、それ以前のもので、内容的には、光学というより視覚論のようである。天体観測への利用を想定してたわけではないっぽい。尤も、ティコ・ブラーエは、Camera obscuraを利用してたし、大気の屈折率の高度依存性によって、星の視高度がずれること(大気差というわかりにくい名前が付いてる)にも気付いてて、補正を行ってたらしいので、視覚論への興味も、天体観測の問題から生じてた可能性はある(が、本当かどうかは分からない)。

13世紀に生きてたらしいJordanus de Nemore(1225?〜1260?、Jordanus Nemorarius)は、その生涯が殆ど何も分かってない人で、Liber de Speculisという光学の著書があるそうだが、未出版。

Jordanusは、Liber de ponderibusという"静力学"の著書で最も知られる。また、Jordanusは、De plana speraという本で、ステレオ射影に関する命題を幾何学的に証明したようだが、動機は、天文観測機器アストロラーベにあったらしい(cf.The Mathematics of the Astrolabe and Its History)。Jordanusは、算術なんかの教科書も書いてるようだが、扱ってるテーマは、Quadriviumを超えて、al FarabiやGundissalinusが"数学"とした領域に及んでいて、アラビア科学の"数学"から影響を受けたのでないかと思われるが証拠はない。

いずれにせよ、Jordanusの光学研究が、ヨーロッパに影響を与えたことはなく、中世の間、ヨーロッパに光学研究は殆どなかったように思える。おかげで、ヨーロッパの光学研究が、アラビア科学に起源を持つことは、かなりはっきりしている。

その後、光学の知識は、望遠鏡の改良のために、かなり長い間、天文学者の教養の一部のようなものとなった。

scientia de ponderibus

ponderibusは、pondusの複数形で、pondusはweightなどの意味らしい。ポンドは、重さの単位なのでわかりやすい。従って、scientia de ponderibus('ilm al-athqal)は、直訳では、science of weightsとなる。

The Arabic Transformation of Mechanics: The Birth of the Science of Weightsに、該当するアラビア語文献が32冊挙げられている。6冊は、古代のギリシャ語文献の翻訳で、1600年以降の文献を、少なくとも8冊含み、19世紀の本まである。ギリシャ語文献は、アリストテレスのMechanica、HeronのMechanica、PappusのMechanicaを含むので、scientia de ponderibusは、Μηχανικά/Mechanicaの直接の子孫と言っていいだろう。

Euclidの"on balance"と"on heaviness and lightness"という著作もあるらしい(原題は不明)。これらの本は、梃子の原理だったり滑車だったりを扱ってて、ユークリッドの他の著書と同様、公理的なスタイルで書かれてたようで、後者は、9つの公準と6つの定理が含まれていたとも書いてある。

Mechanicaは機械学と訳されることが多いので、scientia de ponderibusも"機械学"と訳すのが妥当っぽい。ただ、機械と言っても、梃子、天秤、滑車とかなので、現在イメージする機械とは、ちょっとずれてる。mechanicaは、英語では、mechanicsになるけど、classical mechanicsやfluid mechanicsのように、力学の意味で使う今と違って、昔は、機械学の意味で使われてる。現在、機械工学は、英語だとmechanical engineeringなので、mechanicsから派生したんだと推測できる。


mechanicsの使用例として、ガリレオ(1564〜1642)が書いたRaccolta di Quelle cognizioni che à perfetto Cavaliero and Soldato si richieggono, the quali hanno dependenza dalle scienze matematiche ("完璧な騎士と兵士に求められる数理科学の知識")という文書を見る。これは、1608年、パドヴァに作られたAcadémie Deliaの教育カリキュラムに関するガリレオの提案書らしい。この文書では、算術、幾何、体積計測、機械学(scienze mecaniche)、コンパスや計測機器の使い方に加えて、砲術、軍事建築/築城術(Architettura militare)などが挙げられている。

ここのscienze mecanicheは、後に続く文章を見ると、

Cognizione delle scienze mecaniche, non solo intorno alle loro ragioni e fondamenti communi, quanto intorno a molte machine ed instrumenti particolari, insieme con la resoluzione di moltissime questioni e problemi da essa cognizione mecanica dependenti.

のように、"machine ed instrumenti"(machines and instruments)というフレーズが出てきて、様々な機械や機器に精通して、トラブルに対処できなければならないという感じのことを書いているので、"機械学"と訳すべきだろう。

ついでに、ガリレオがArchitettura militareと書いてるのは、16~19世紀に存在した築城術(fortification)という分野を指していると思われる。15~19世紀には、ヨーロッパを中心として、銃火器に対抗するために生まれた星形要塞というのが流行っていて、日本では、函館五稜郭に見られる。最古の星形要塞は、イスタンブールにあるYedikule要塞(1458年建設)とされる。

築城術は星形要塞の外形形状設計術みたいな分野っぽい。少なくとも、中世の時点では、土木工学的要素は殆どないけど、築城術は、数学の応用と見なされていたらしく、1736年の本The Young Trigonometer's Compleat Guideにも、築城術への応用が書かれている。この本は、適当に検索して見つけた古い本で、別に有名とかではないと思う。ガリレオ自身も、fortificationに関する原稿を書いている(例えばTrattato di fortificazione)。

実際のところ、中世の築城術自体には、(当時の水準で言っても)数学や物理として高度なことは何もないように見える。ただ、ウィトルウィウスのDe architectura(BC30頃?)には、幾何学日時計天文学、機械に関する記述があって、建築を監督する者は幅広い数学的素養を持つべきという思想が存在したそうである。築城術を数学の一分野のように見なす発想も、そういうところから来てるのかもしれない。


また、mechanicsの17世紀英語の文例として、John Wallis(1616〜1703)が、1640年代のロンドンにあった非公式の集まりについて書いてる文章には

Our business was ( precluding matters of theology and state affairs ) to discourse and consider of Philosophical Enquiries , and such as related thereunto ; as Physick , Anatomy , Geometry , Astronomy , Navigation , Staticks , Magnetics , Chymicks , Mechanicks , and Natural Experiments ;

とある(出典:The Royal Society 1660-1940)ようで、Staticksが静力学に対して、Mechanicksは機械学だろう。

scientia de aspectibusと違って、アラビア科学のscientia de ponderibusのヨーロッパへの影響は、はっきりしてないが、少なくとも、"mechanics"とscientia de ponderibusは、どっちも、古代ギリシャ/オリエントのMechanicaに由来する同一ルーツの分野と思われる。そして、1600年頃のヨーロッパで、mechanicsを数理科学の一つに位置付ける場合があり、Gundissalinusも、scientia de ponderibusを数学の一分野としていた。


mechanicsのニュアンスが変化した要因は、EulerのMechanica sive motus scientia analytice exposita (1736)が大きいかもしれない。その前後の力学の本を見てみると、Jakob Hermannは、 Phoronomia, sive De viribus et motibus corporum solidorum et fluidorum libri duo (1716)を書き、d'Alembertは、Traité de dynamique (1743)を書いている。Lagrangeは、Mécanique analytique (1788)を書いた。phoronomyは、kinematicsと同じ意味だそうで、kinematicsは、運動を直接扱い、運動の原因(古典力学なら力や慣性)は扱わないというニュアンスがあるとされている。

多分、dynamicsとmechanicsの差は、あんまりない。流体力学は、昔はhydrodynamicsだった(Bernoulliの1738年の本が最初で、Lambの1895年の本のタイトルにも見られる)けど、最近は、fluid mechanicsが一般的な気がする。量子力学は、quantum mechanicsなのに、量子電磁力学や量子色力学が、quantum electrodynamicsやquantum chromodynamicsなのは、どういう経緯があったのか謎だけど、後者の2つは、相互作用の原因に迫ってるから(?)。古典力学だと、重力やバネの力、摩擦力なんかを、現象論的に導入するが、その正体には関知しないので、dynamicsよりmechanicsの方が適切というニュアンスが現在はあるかもしれない。だとしても、この使い分けも、18世紀や19世紀に存在したものではないと思う。

scientia de ingeniis

scientia de ingeniis('ilm al-hiyal)は、該当文献が不明で、実態が一番よく分からない。

Jordanusのアストロラーベとステレオ射影に関する本De plana speraを、scientia de ingeniisに分類してる人もいる。Jordanusは、そう考えてたのかもしれないが、アラビア語文献ではないので、al Farabiの考えとは違うかもしれない。

イスラム法学では、hiyalとは、"本来なら違法にしか達成できない目的を法律的な工夫で合法に達成する手段"を指すらしい。現代だと節税などが例になるそうだ。おそらく、原義は"工夫"とか、その程度の意味だったと思われるが、そのhiyalと同じ単語っぽい(?)。また、ラテン語ingeniisは、ingenium(辞書によると、machine,deviceの意味があったらしい。engineと同根ぽい)の複数形で、ingeniumに"人"を意味する接尾辞torと複合すると、ingeniatorになる。ingeniatorは、英語のengineerなので、scientia de ingeniisは、engineering scienceつまり工学としてもいいだろう。


単語としてはそうでも、実際の内容は違う可能性もある。NOTES ON MECHANICS AND MATHEMATICS IN TORRICELLI AS PHYSICS MATHEMATICS RELATIONSHIPS IN THE HISTORY OF SCIENCEには、"The science of devices refers to applications of mathematics to practical use and to machine construction"と書いてある。

タイトルにingeniisが含まれるラテン語写本には、

  • De ingeniis spiritualibus
  • De decem ingeniis seu indicationibus curandorum morborum (1300年頃)
  • De aquarum conductibus et ingeniis erigendis

などがあって、1つ目は、ビザンチウムフィロンによる著作Mechanike syntaxisのPneumaticaの一部の翻訳らしい。pneumaticsは空気圧工学とか訳されるらしいが、当時は流体で駆動する"機械"(水車やポンプ、水オルガンなど)全般を指してて、現代の水理学に相当する内容も含んでた可能性もある。2つ目は、何か"医療機器"(?)の話っぽいけど、中世のラテン語に確信が持てない。3つ目は、アレクサンドリアのHeronのPneumatica(アイオロスの球という蒸気機関の一種の記載があるらしい本)のラテン語訳っぽい。訳者はトレド翻訳学派のWillem van Moerbekeらしい。

タイトルにhiyalが含まれるアラビア語文献としては、

  • Kitáb al-Ḥiyal(一般に"The Book of Ingenious devices"と訳される)
  • Kitáb fi ma'rifat al-hiyal al-handasiyya(一般に"The Book of Knowledge of Ingenious Mechanical Devices"と訳される)

があり、前者は、9〜10世紀のバグダッドにいたBanū Mūsā兄弟の著書。当時知られていた多くの発明を記載しているそうである。彼らは、数学や天文学の著書も残してるらしい。後者は、12世紀のアラブ人Al-Jazariによる著書で、カムシャフトやクランクシャフトを記載した最初の文献とされる。この中には、水力機械の記述もあるらしいので、pneumaticaの影響もあったのかもしれない。

本のタイトルを見る限り、このへんの分野が、scientia de ingeniisという気もするけど不明。


オスマン帝国の数学者/天文学者Taqi al-din(1526〜1585)が書いた機械式時計の本が2冊あって、一冊は、al-Kawākib al-durriyya fī waḍ ҁ al-bankāmāt al-dawriyya(1556or1559?)で、もう一冊は成立年不詳のKitab al-Ṭuruq al-saniyya fī al-ālāt al-rūḥāniyyaである。当時のオスマン帝国は商業出版を行ってない(活版印刷イスラムの戒律に反するという主張があったとか言われている)ので写本だと思うけど、後者はオープンアクセスになってるのを見つけた。私には微塵も読めないので、本物かどうかすら分からない。

Wikipediaによれば、後者には、Banū Mūsā兄弟とAl-Jazariへの言及があり、時計のgeometrical-mechanical structureを強調したと書いてある。つまり、Taqi al-dinは、自身の機械式時計の研究開発、Banū Mūsā兄弟の本、Al-Jazariの仕事を同分野と位置付け、数学的なものと見なしていた可能性が高い。Taqi al-dinの時計は、最小単位が5秒だったそうで、天文学者でもあったTaqi al-dinは、機械式時計を天文観測に利用した。

イスラム世界では、13世紀末に、muwaqqitという礼拝の時間を管理する仕事が誕生し、天文学の知識を持つ者が選ばれたそうである。それに関連して、ʿilm al-mīqāt(science of timekeeping)という分野が発生したらしい。どういう内容なのか知らないけど、初期の研究者として、Shams al-Din al-Khalili(1320〜1380)とIbn al-Shatir(1304〜1375)という人がいる。ヨーロッパでも、時計学/horologyという分野名が、かつては存在していたけど、ʿilm al-mīqātとの関連性は不明。Taqi al-dinの時計研究には、そういう方向からの影響もあるのかもしれないが、これも不明。

仮に、水車、オートマトン、機械式時計などの研究が、scientia de ingeniisだとすると、こっちも"機械学"に見える。個人的な感覚では、scientia de ponderibusとscientia de ingeniisの違いは、"機械"の複雑さという感じがする。scientia de ponderibusで扱う"機械"(天秤、滑車、梃子など)は、原始的な機械要素が多く、理論的解析はしやすいが、機械の印象が薄い(レバーとか投石機になると、機械感がなくもないけど)。scientia de ponderibusがmechanicsだとすれば、scientia de ingeniisは、mechanical engineering/機械工学に近い分野かもしれない。artes mechanicae(織布、建築、軍事・狩猟、鍛冶・冶金などの技術で、リベラル・アーツと対比される)との区別が曖昧でもある。


Taqi al-dinの一冊目の本では、ヨーロッパの機械式時計コレクションを調査した旨が述べられているそうなので、16世紀時点でヨーロッパの機械技術は高かったと推測される。イギリス人Richard of Wallingford(1292~1336)という人が書いたTractatus Horologii Astronomici (1327)は、機械式時計に関する(多分、世界で)最初期の文献らしい。彼は、オクスフォード大学で学んだ修道僧だったそうだ。

中世ヨーロッパでは、多くの天文時計が作られたが、1579年に、Jost Bürgi(1558~1632)が秒針を持つ時計を作ったとされる。Bürgiが、どこで教育を受けたのか、全く分かってないらしい。Bürgiは、Napierと独立に対数を発見したとも言われ、後にKeplerの計算助手になった。また、2015年になって、三角関数を計算するBürgiのアルゴリズムの詳細と証明を書いた論文が出ている(Jost Bürgi's Method for Calculating Sines (arXiv:1510.03180))。

オランダのホイヘンス(1629〜1695)は、機械式時計に対して理論的なアプローチを行い成功した。ホイヘンスは、1673年に、Horologium oscillatoriumという本を出している。タイトルは、振り子時計を意味する。ホイヘンス以前は、日差15分程度くらいの誤差があったらしいので、大体、1%くらいのずれがあったようだ(cf.機械式時計の歴史 1)

ついでに、当時の時計の分解能では、重力加速度を、自由落下時間によって高精度に決定するのは難しかったので、振り子の周期と長さから間接的に重力加速度を決定することが試みられた。最初に、この測定をしたのは、フランスのメルセンヌっぽいけど、単振り子では、振れ角に依存して周期が変わることも実験的に発見していたようだ。ホイヘンスは、サイクロイド振り子を使って、周期が二秒になる振り子(seconds pendulumと呼ばれる)の長さを測定し、この本に数値が書いてあるらしい(しかし、どこに書いてあるのか発見できなかった。ラテン語力がほしい)。

現代の単位では、この長さは、約1メートルで、18世紀末フランスのメートル法制定時に、これを基準値とする案は強く推された(cf.Why g〜π2Why does the meter beat the second? (arXiv:physics/0412078)の特に§3と4)。また、ニュートンは、月の加速度と、(ホイヘンスの測定値から算出した)重力加速度の比率が、地球半径と地球・月間距離の比の二乗に近いことを確認した。

補足)逆二乗則の推測は、等速円運動のkinematicsのみでもできる(現在の知識だと、等速円運動の軌道を座標で書いて二回微分すると、遠心加速度が分かる)。地球と月の距離が、地球半径の約60倍であることは、プトレマイオスの時代には視差の観測によって知られていた。地球半径も、紀元前から多くの推定があったが、フランスのJean Picardの1669年の測量結果では、(現在の単位に換算して約)6372(km)だった。月の公転周期は約27.3日なので、仮に完全な等速円運動をしていたとすると、遠心加速度は、(60 * 6372e3) * (2pi / (27.386400))**2=0.0027129(m/s2)と見積もられ、9.8(m/s2)は、その3612倍になる。これは、60の二乗に近い。この簡単な試算から逆二乗則に到達した人は複数いたかもしれない。また、等速円運動の時は、Keplerの第三法則から逆二乗則を導くことも容易(角速度は、公転周期に反比例し、遠心加速度は、軌道半径と角速度の二乗の積だから、Keplerの第三法則が正しければ遠心加速度は軌道半径の二乗に反比例する)。ニュートンは、この結果を楕円軌道の場合に拡張していた。重力加速度と地球半径の高精度の測定は、惑星運動と自由落下が同一の原因で生じている可能性を検証できるようにした。大雑把に言って、ここまでが1700年頃の到達点だけど、等速円運動近似に基づく試算は、十分とは言えず、もっと精密なものが求められただろう。けど、精密な検証をしようとすると、月の軌道が、地球と太陽の両方から無視できない影響を受けてるせいで、難易度が一気にあがる。この困難は、ニュートンオイラーも解決できなかった。

ホイヘンスの本と同時期の1674年に、デンマークの「数学者」Ole Roemerは、エピサイクロイド歯車に関する研究を発表した(文献未確認)。これ以降、歯車(の歯形曲線)を研究した「数学者」は多く、その中には、オイラーも含まれる。


16世紀〜17世紀前半の時点で、ヨーロッパに、機械に詳しい「数学者」が結構いたことは確かだけど、彼らが複雑な機械も数学的に解析できると思ってたのかは分からない(統一見解があったかも疑わしい)。当時は、複数分野に手を出す人が沢山いたから、単に機械にも詳しい「数学者」だったかもしれない。例えば、Gerolamo Cardanoは、三次・四次方程式の研究で知られる「数学者」だけど、本職は医者で、Cardan joint(Hooke's jointなど、色んな名前がある)というリンク機構に名前を残していて、錬金術に関する著書もある。

1695年に出版されたフランス人LahireによるTraité de mecaniqueという本の4ページには、"nouvelles machines qui ont été inventées par de tres-sçavans Mathematiciens,& par de tres-habiles ouvriers"(有能な数学者と職人によって発明された新しい機械)というフレーズがあって、17世紀末には、数学者を、機械の発明にも関与する人々と見なす場合があったっぽい。これはフランス語の本で、ヨーロッパ内でも、国によって認識の差異があった可能性は否定できない。


江戸時代の日本では細川頼直(??~1796)という人が、天文学と暦学を学んだ「天文学者」であり、『機巧図彙』(1796)という機械の本を書いている。この中には、時計や、お茶くみ人形のようなオートマトンが記述されているらしい。江戸時代のからくりも、機械式時計で使われていた機構を応用して発展したととか検索すると書いてある。第四章 実学としての和算|江戸の数学には、竹内度道(1780〜1840)という和算家が水車を設計し大工を指導してたとか書いてある。機械に関わる和算家というのが、数学者が機械に強いというヨーロッパの風潮が日本にも伝播しただけなのか、日本で独自に発展したものなのかは分からないけど、どっちだとしても、面白い事象ではある。

scientia de ingeniisは不明点が多いけど、結局は、al Farabiが10世紀に"数学"だと認識してたものを、ヨーロッパは、分裂した形で受容して、バラバラに発展させた後、再統合したというだけの話かもしれない。そして、19世紀には、また分裂した。

おまけ:16世紀の力学研究者

16世紀のmechanicsは、天文学と無縁の分野だったので、大学のカリキュラムと関係ない。そのせいか、16世紀の力学研究者は、その研究によって大学の職を得ていたわけではないし、独学の人も多い(従って「数学者」かどうかの定義が曖昧になる)。中世ヨーロッパの天文学者が、大体、大学で天文学を勉強してるのと比べると、対照的。

16世紀の力学研究者として、William Whewellの1840年の本History of the inductive sciencesに載ってる人として、タルタリア(1500?~1557)、Gerolamo Cardano(1501~1576)、Giambattista Benedetti(1530〜1590)、Michael Varro(1542〜1586)、Guidobaldo del Monte(1545~1607)、Simon Stevin(1548〜1620)、ガリレオ(1564~1642)などがいる。多分、何らかの著作が残ってる人を挙げていると思う。

ガリレオを除けば、大学で"数学"を教えた人は、いないと思う。こういう"野良数学者"が、昔からいて商業出版によって可視化されるようになったのか、この時期に実際に増えたのかは分からない。似た現象として、中世ヨーロッパの有名な魔術師や錬金術師も、この時期の人が多い。WikipediaEuropean alchemistsというリストがあるけど、誕生年で分類すると、12世紀:2人、13世紀:5~7人,14世紀:2人,15世紀:9人,16世紀:27人,17世紀:21人、18世紀:6人となっている。

ガリレオは、大学を中退して、(トスカーナ大公2代目に仕えた)宮廷数学者のOstilio Ricci(この人はタルタルアの弟子)に数学を習ったとされる。1586年に書いた論文は、La Billancetta("little balance"/小天秤)で、アルキメデスの原理の実践的利用法みたいなお話。

これが、大学で数学を教える仕事に結び付くのか不思議だけど、彼は推薦状を書いてもらうために、偉い人に面会して、イエズス会士Christopher Clavius、Guidobaldo、その伝手でトスカーナ大公(3代目)などのコネを得たらしい。最終的に、トスカーナ大公の推薦でピサ大学で教えることになったが、当時、そんな求職方法が、一般的だったわけではないだろう。

Claviusは、イエズス会の中心的教育機関ローマ学院で、幾何学天文学を教えてた学者で権威とされていた。詳細は知らないけど、イエズス会数学教育を改革したとか言われている(イエズス会学事規定1599年版)。ガリレオが異端審問にかけられた時、Claviusは既に死んでたけど、生きてたら、宗教裁判を回避できたかは定かでない。Claviusには、Opera mathematicaという著書があって、読んだわけではないけど、内容は、幾何、算術と代数、天文学の話題で構成されているっぽい。アストロラーベに関する著書Astrolabiumは、漢訳『渾蓋通憲図説』が存在するという事実から、よく知られている。

Guidobaldoは、何者かよく分からないけど、Wikipediaによれば、裕福な家の出身で、1564年のBattle of Saint Gotthardに参加した後、Federico Commandino(1509~1575、ヘレニズム時代のギリシャ語文献を何冊もラテン語翻訳した)に師事して、数学を学んだらしい。1588年からは、トスカーナ大公国の"築城監督官"の役職を得ていた。ガリレオがピサ大学をクビになった時も、Guidobaldoの援助があって、パドヴァ大学の職を得たらしい。

そんなわけで、ガリレオも野良数学者みたいな人に師事して、苦労して、大学で仕事を得たっぽい。

Simon Stevinの力学上の仕事は、1586年に出版したDe beghinselen der weeghconst(The principles of weighing)とDe Beghinselen des Waterwichts(The principles of water balance)の2冊の本。Stevinも、独学だったそうだが、やはり誰に何を学んだかは分かっていない。

A first mathematics curriculum : Stevin’s Instruction for engineers (1600)によると、1600年、Simon Stevinは、ライデン大学内で、"Duytsche Mathematique"というコースを開くよう要請されたそうだ。

名前は、数学だけど、目的は、military engineerの教育。カリキュラムは、fortificationがメインのようで、それに必要な算術や幾何学、測量も含まれる。機械の使い方なんかは、記述がないっぽい(?)し、砲術も含まれてない。建築機械については、実地で学ぶ感じだったのかもしれない。デカルトやOtto von Guericke(1602~1686)も、ここで勉強したことがあるらしい。

おまけ2:中世以降の砲工兵教育

17世紀にはヨーロッパ諸国で、砲兵隊、工兵隊が専門分化し、17〜18世紀には、西ユーラシア諸国で、砲工兵学校が作られた。17世紀にも学校は存在したが、正式名称も定かでないものが多い。18世紀のものを、いくつか挙げておく。

  • 1720年のスペインで、Real Academia Militar de Matemáticas y Fortificación(直訳は、Royal military academy of mathematics and fortification)
  • 1739年にサルデーニャ王国トリノで、Regie Scuole di Artiglieria e Fortificazione(直訳では、Royal School of artillery and fortification)
  • 1741年のイギリスで、WoolwichのRoyal Military Academy(王立陸軍士官学校)
  • 1748年のフランスで、École royale du génie de Mézières(メジエール工兵学校)
  • 1773年のオスマン帝国で、Mühendishâne-i Bahrî-i Hümâyun(Imperial Naval Engineering School)
  • 1795年のオスマン帝国で、Mühendishâne-i Berrî-i Hümâyun(Imperial School of Military Engineering)

Regie Scuole di Artiglieria e Fortificazioneは、若い頃のLagrangeが教師をやってたことがあり、メジエール工兵学校では、Mongeが教えていたことがある。Mongeは、Monge-Ampere方程式に名前が残ってるけど、エコール・ポリテクニークの教育カリキュラム決定に大きく関与した人でもある。

The Teaching of Mathematics at the Royal Military Academy: Evolution in Continuityに、1792年のWoolwich Royal military academyのカリキュラムが列挙されているが、初等的な内容以外に、力学(mechanics)、流率法(fluxions,微積分)、水理学(hydrostatics and hydraulics)、pneumatics、砲術(Gunnery)などが含まれている。

ここのmechanicsは、力学とする方が適切だと思う。詳細は、以下のように書いてある。

Mechanics: Including Motions equable and variable; Forces constant, variable and percussive; Gravity, Sound and Distances; Inclined Planes; Projectiles; Pratical Gunnery; Pendulums; Centres of Gravity; Percussion, Oscillation, and Gyration; Ballistic Pendulum, &c.;

出典は、1892年のRecords of the Royal Military Academy, 1741-1892という本らしいけど、1792年の文言を、どれくらい正確に収録してるのかは知らない。機械工学の方は、1846年には、イギリスで、スチーブンソンが発起人となってInstitution of Mechanical Engineers(英国機械学会)が作られているので、19世紀には、mechanicsとmechanical engineeringが区別された。

18世紀当時は、水理学や弾道学も、「数学者」の研究対象だった。Johann Bernoulliは、1743年に"Hydraulics"という本を出している。弾道学も、例えば、Eulerが研究を行っている。Eulerは、論文を書く以外に、イギリスの砲工兵Benjamin Robinsによる弾道学の本を翻訳して、詳細な注釈を付けている。BernoulliやEulerが関与していることから推測される通り、これらの分野は、当時としては、かなり数学的なものではある。

‘Mixed’ mathematics in engineering education in Spain: Pedro Lucuce's course at the Barcelona Royal Military Academy of Mathematics in the eighteenth centuryは、スペインのRoyal military academyのカリキュラムについて書いている。おそらく18世紀半ば頃のもので、Curso Mathematico para la Instruccio ́n de los Militares(軍事教育の数学コース)は、大きく8つの主題から構成され、算術、ユークリッド幾何、実用幾何(平面三角法や対数、測量など)、築城術、砲術、cosmography(celestial sphere/天球と書いてるのは、天文学?他に、地理学や海図作成など)、静力学(staticsと書いてるが、内容は、"the motion of heavy bodies"、機械学/machinery、水理学、光学など)、土木建築になっている。各主題は、概ね同程度の分量だったっぽい。まだ微積分はないけど、オイラーのMechanicaが出て10年足らずの時期のカリキュラムなので、まだ十分に、その有用性が知れ渡ってはいなかったのだろう。

mixed mathematicsは、応用数学の古い呼び方で、1800年頃までは、よく使われたらしい。The Evolution of the Term "Mixed Mathematics" には、mixed mathematicsという用語を最初に使ったのは、フランシス・ベーコンだと書いてある。

18世紀は、理論物理学が形成され、そのための数学的道具として、微分方程式論が開発された時代でもある。 一方、d'Alembertは、幾何、算術、代数、微積分学を純粋数学に分類し、力学、天文学、光学、確率論をmixed mathematicsに分類したそうだ。これは、確率論を除けば、現代の認識に近い。確率論は、現在は、数学の一分野と思われてるけど、ヒルベルトの第6問題「物理学の公理化」で、物理学と確率論の公理化をあげてるので、1900年頃でも、微妙な立ち位置にいたのだろう。

経験から完全に切り離して、機械的な論理操作のみで数学ができるという発想が、いつから存在してたのか分からない。少なくとも、算術の公理は19世紀末になるまで存在してない。純粋数学は、日常感覚に任せてた部分を整理する方向に進み、mixed mathematicsに分類されてた分野は、自然科学と融合して、物理学になった。この仕切り直しが、本当に良かったのかは分からないけど、とりあえず、名前を変えてくれなかったせいで、昔の話をする時は、ややこしくなった。