コンピュータ以前の数値計算(1) 三角関数表小史

現代の三角関数計算

三角関数の値を計算する方法として、現代人が素朴に思いつくのは
(1)いくつかの角度に於ける値を事前に計算しておき、一般の場合は、それを補間した値を使う

(2)Taylor展開の有限項近似

の二つの方法だと思う。Taylor展開を使う場合、角度をラジアン単位に変換する必要があるので、円周率を、ある程度の精度で知っていないといけない。


コンピュータ用に、もう少し凝ったアルゴリズムが使われることもある/あったらしいけど、今のコンピュータでは、(2)の方法が使われることが多い。例えば、Android(で採用されているBionic libc)では、アーキテクチャ独立な実装は、単純なTaylor展開を利用するものになっている。

https://android.googlesource.com/platform/bionic/+/refs/heads/master/libm/upstream-freebsd/lib/msun/src/k_sin.c

【追記】コメントで指摘をいただいた。単純なTaylor展開で13次まで計算した場合、任意のx \in [-\pi/4,\pi/4]に対して、Taylorの定理から
\left| \sin(x) - \displaystyle \sum_{k=0}^{6} (-1)^k \dfrac{ x^{2k+1} }{(2k+1)!} \right|= \dfrac{\cos(\xi)}{15!} |x|^{15}
を満たす-\dfrac{\pi}{4} < \xi < \dfrac{\pi}{4}が存在するので、誤差は、ワーストケースで\dfrac{(\pi/4)^{15}}{15!} \approx 2.041 \times 10^{-14} < 2^{-45}より小さいけど、上ソースコードで使われてる係数だと、(コード中のコメントによれば)誤差は、もう少し小さい。最大誤差が倍精度浮動小数点数の計算機イプシロンより小さくなるように、多項式の次数が決められているのかもしれないけど、そうすると、13次までのTaylor展開では、少し精度が足りない


人間が手で計算していた時代には、(1)の方法で計算されていた。事前に計算された値は、三角関数表として利用可能になっている必要がある。べき級数に頼ることなく、計算しやすい三角関数の値は、等分点(360度の有理数倍)に於けるもので、それは、代数方程式の解となるから、(2)の方法に頼ることなく、数値的に計算できる。この場合、正弦値の計算は、本質的には、円に内接する正多角形の一辺の長さを計算するのと同等でもある。

19世紀に、チャールズ・バベッジが計画した階差機関は、人手で作られた数表(三角関数表や対数関数表)の誤りをなくしたいという動機があったとされている。階差機関は、多項式を自動で計算(し印字)できる機械として設計されていて、三角関数なども、(2)に基づいて計算することを想定していたのだろう。

天文学と三角法

現存する写本はないものの、紀元前2世紀のニカイア(当時は、ビテュニア王国という国に属していたはず)出身のヒッパルコスが、三角関数表の一種として、「弦の長さの表」を作っていたらしいことは、他の本などの記述から確実とされ、最古の三角関数表だったと考えられている。

ヒッパルコスの動機は天文学にあり、それ以後も、三角関数表は、多くの場合、天文学とセットで出てくる。測量術や航海術でも使われるようになったのは、大航海時代より以降のことらしい。新しい土地へ行くことが増えたり、遠洋航海が増えたためだろう。地理学や地図作成技術自体は、非常に古くからあり、経緯度を定義したのはヒッパルコスだとされ、地図の起源は、もっと古い。

三角関数表のあるところに天文学があるというのは正しいけど、天文学があっても、三角関数表がないことはある。

中国では、(おそらく紀元前から)円周率の正多角形近似による計算が行われていたにも関わらず、一般の角度に於ける三角関数の値を計算するという意識はなかったのか、三角関数表のようなものは殆ど見られない。中国で三角法が発展しなかったことは、正弦や余弦という用語が作られたのが、17世紀であることからも察せられる。中国でも、夏(BC1900~1600)の時代に、日食の予報ができず死刑になった人の話とかあるし、それは伝説としても、暦を作るのは重要な仕事だったので、天文学がなかったわけではない。

ともあれ、天文学に動機づけられないと、"三角関数"のような考え方が便利だとは、なかなか思わないものなのかもしれない。考えてみると、角度の概念は日常にもありふれてる気がするのに、一回転360度というのさえ、天文学の影響が見られる。中国では、長い間、一回転は、"365.25度"だったらしく、天文学の影響が、より明らか。

円周率が3.16だった時代(?)

三角関数表を作るのに必要な計算技術は、円周率の多角形近似と同じで、三角関数表と違って、円周率の多角形近似は、複数の地域で追求がされた。歴史上使われた円周率の近似値を見ていると、3や3.14…以外に、3.16に近い値が、いくつかあるのに気付く。

・リンドパピルス(BC1850~1650頃?):円の面積と半径の二乗の比が、256/81≒3.16049…
・紀元前150年頃のインド:√10≒3.1622
・西暦1世紀頃の中国:√10
・初期の和算書『塵劫記』(1627):説明なしに3.16を採用

単なる偶然かもしれないけど、24 \tan(7.5^{\circ}) = 3.1596599\cdotsなので、外接正24角形を使って近似計算した結果、出てきた数値なのかもしれない。仮にそうだとして、外接正24角形が頻出する理由が何かあったのか気になる。

内接正多角形より外接正多角形を好む理由として、"円周と直径の比=円の面積と半径の二乗の比"という事実が、容易に分かるということが考えられる。外接正多角形での近似を認めれば、"円周と直径の比"及び"円の面積と半径の二乗の比"は、同じ数列の極限
 \pi = \lim_{n\to\infty} n \tan( \dfrac{180^{\circ}}{n} )
となって、等しいことは自明となる。内接正多角形での近似を使った場合は、2つの量は、異なる数列の極限になるので、極限値が等しいことは、自明じゃない

不思議なことに、ユークリッドの『原論』には、円の面積と直径の二乗が比例することは書かれている(12巻)のに、"円周と直径の比=円の面積と半径の二乗の比"であることは書かれてないらしく、一般的には、これは、アルキメデスの成果とされている。まぁ、『原論』は計算が殆ど出てこない特殊な本だし、また、小アジア〜地中海圏以外の地域の人にまで、アルキメデスの議論が伝播して理解されたと考えるのは、無理があるように思える。


文献上では、内接正多角形を使った近似値だけでなく、外接正12角形や外接正48角形を使ったと思われる円周率の近似値も、あまり見られないっぽい。
外接正12角形による近似計算→12 \tan(15^{\circ}) = 3.215390\cdots
外接正48角形による近似計算→48 \tan(3.75^{\circ}) = 3.1460862\cdots
外接正96角形による近似計算→96 \tan(1.875^{\circ}) = 3.14271459\cdots
で、外接正96角形は、アルキメデスが、円周率の上界の評価に用いたものでもあり、得られる値は、円周率の最良近似分数の一つ22/7に近い。

外接正24角形は、やっぱ特別らしい。考えられることとして、直径1の円に於いて、
外接正24角形の一辺の長さ→\tan(7.5^{\circ}) = \sqrt{6} - \sqrt{3} + \sqrt{2} - 2
外接正12角形の一辺の長さ→\tan(15^{\circ}) = 2 - \sqrt{3}
内接正10角形の一辺の長さ→\sin(18^{\circ}) = \dfrac{\sqrt{5} - 1}{4}
内接正12角形の一辺の長さ→\sin(15^{\circ}) = \dfrac{\sqrt{6} - \sqrt{2}}{4}
などとなって、一辺の長さが、正有理数平方根の和の形になる場合に限れば、外接正24角形で近似精度が一番高くなるのが理由かもしれない。

平方根の計算については、バビロン第一王朝の頃(BC1830~BC1530)のバビロニアで、2の平方根を計算した粘土板"YBC 7289"があるらしい。YBC7289は、画像で検索するとわかるけど、正方形らしき絵と、3つの数字が書かれてるだけの単純なものらしい。3つの数字は、30と√2の近似値、30√2の近似値の3つで、一辺の長さが30の正方形の対角線の長さを表したものと考えられている。

YBC7289に書かれてる数字は、しばしば、単に60進法であると書かれてるけど、実際には、10進法と60進法が混在した表記法になっているようである。それはともかく、YBC7289に書かれている2の平方根の近似値は、60進法で、1;24 51 10= 1+24/60+51/3600+10/216000=30547/21600≒1.41421296296296...だそうで、まぁ数字しか書いてない以上、どんな方法を使ったか確実なことは分からないが、

Square Root Approximations in Old Babylonian Mathematics: YBC 7289 in Context
https://doi.org/10.1006/hmat.1998.2209

では、この数値は、最良近似分数\dfrac{577}{408} = 1 + \dfrac{24}{60} + \dfrac{51}{3600} + \dfrac{10}{216000} + \dfrac{1}{367200}から得たと推測している。

論文では、この近似値の計算に使った方法として、初期近似値a > 0を適当に選んだ時、B=a^2-2とすると、
\sqrt{2} \approx a - \dfrac{B}{2a}
によって、改善された近似値が得られるので、これを繰り返し使ったのだろうと推測している。


これは、現在、Babylonian methodと呼ばれるアルゴリズムと同じもので、現代では、Newton法の特殊形として説明されがちだけど、初等的に理解できる。実際、(a - \frac{B}{2a})^2 - 2 =\left( \frac{B}{2a} \right)^2なので、\left( \frac{B}{2a} \right)^2 < |B|ならば、a - \frac{B}{2a}aより良い近似値である。

で、a^2<2の時は、\left(a - \frac{B}{2a} \right)^2>2になるので、結局、a^2>2の時だけ考えればいい。そして、a^2>2なら、B>0で、簡単な計算で、\left( \frac{B}{2a} \right)^2 < Bは、いつでも成り立つことが分かる

以上の議論から、求める近似精度を指定した時、初期近似値から何ステップで必要な近似値に到達するかを見積もることもできる。尤も、Babylonian methodは収束の早い有能なアルゴリズムなので、実用上は、単に近似値の二乗を計算して、近似の良さを評価すれば十分だったかもしれない。そして、a=3/2から始めると、次が、17/12で、その次に577/408を得る。Babylonian methodは、もしかしたら、Euclidのアルゴリズムより古い、最古のアルゴリズムかもしれない。エジプトでは、どうだったか調べてないけど、平方根の計算が、非常に古くから行われてた可能性はあるだろう。


Babylonian methodを使って、整数の平方根の最良近似分数を得られるけど、整数の平方根の最良近似分数には、分母と分子がペル方程式の整数解を与えるという見方もある。例えば、ここで使った√2の近似値の分子・分母は、ペル方程式x^2-2y^2=1の整数解になっている。

YBC7289より後の時代のものであり、また、バビロニアからの影響があったのかも不明であるけど、古代インドのシュルバ・スートラ(BC800~BC200)には、√2の近似値として、17/12と577/408が記載されているらしい。ペル方程式の解を得たなら、99/70が登場してもよさそうだけど、Babylonian methodを使ったなら、99/70がスキップされているのも説明が付く。古代のインド人が、どういう方法を使ったか詳細は知られてないようである。

Babylonian methodは、無理数平方根も整数の平方根も同じように計算できるけど、古代の人が、整数や有理数平方根の計算を好んで、無理数平方根を避けたとしても、気持ちは理解できる。昔の人は、外接正24角形の辺長を首尾よく、正有理数平方根の和で書くのに成功した後、外接正48角形でも、同様の結果を求めて試行錯誤したが果たされず、外接正24角形による円周率評価を暫定的に採用したのかもしれない。

仮に、Babylonian methodによって平方根を計算したとして、例えば、初期値1から僅か3ステップで、√2と√3の近似値577/408と97/56を得る。この近似値から外接正24角形の周長によって、円周率を概算すると
24 (\sqrt{2}\sqrt{3} - \sqrt{3} + \sqrt{2} - 2) \approx 177/56 = 3.160714285\cdots
となる。このくらいの計算は、古代の人にとっても、辛いものではなかったろう。


後に、アルキメデス(BC287~BC212)は、著書"Measurement of a Circle"の中で、説明なしに、√3は、265/153と1351/780の間にあるという事実を使用したらしい。アルキメデスが説明しなかったのは、単に二乗して3を引けば確認できると思ったのか、当時、よく知られた事実だったのか、それ以外の理由か分からないけど、分子と分母が、方程式x^2-3y^2=-2及びx^2-3y^2=1の解になっていることから、山勘で選んだ数値では、なさそうである。そして、1351/780は、Babylonian methodで得たのかもしれない(初期値として、x=5/3などを使うと得られる)けど、265/153は、真の値より小さいので、Babylonian methodで得たものではないだろう。

(\sqrt{D}を計算する)Babylonian methodは分数変換f(x) = \dfrac{x^2+D}{2x}を繰り返し適用する形になるけど、\sqrt{D}に収束する分数変換は無数にある。例えば、Babylonian methodは、Pell方程式の加法構造に対する倍角公式に相当するものとなっているけど、三倍角の公式として、f(x) = \dfrac{x^3 + 3Dx}{3x^2+D}などを使ってもいい。これは、Newton法から得られる変換ではないが、Babylonian methodより収束は速いはず。

収束は遅いが簡単な変換として、分子と分母が共に一次のf(x) = \dfrac{3+x}{1+x}を、x=1に繰り返し適用すれば、265/153と1351/780を得られる。アルキメデスは、これに類した変換を用いた可能性を提案した人もいるが、この変換を自然に思いつく筋道は分からない。

より自然に思いつきそうな方法として、0 \lt a^2 \lt 3 \lt b^2なる正数a,bに対して、線形補間
x=a + \dfrac{3-a^2}{b^2-a^2}(b-a) = a + \dfrac{3-a^2}{a+b}
を繰り返すことで、逐次的に、下限aを更新するという手もある。b=2と選べば、分数変換\dfrac{2x+3}{x+2}を繰り返し適用する形になり、更に、初期値をx=1にすると、1→5/3→19/11→71/41→265/153→…が順番に得られる。

Babylonian methodで上限を得て、線形補間で下限を得るというのは、割と一般性があるけど、所詮は憶測でしかない。とりあえず、エジプトやバビロニア、インド、古代ギリシャで、平方根の計算が、どれくらい一般性を持って理解されていたかは、よく分からないが、ある程度は計算する手段を持っていたようである


円周率の話に戻ると、外接正24角形による近似が本当に多用されたのかは分からないけど、以上のようなシナリオはありえないこととも思えないので、宇宙人や異世界人も、初期文明では、3.16に近い近似値を採用する可能性がある

古代オリエント三角関数

ヒッパルコス(BC190?~120?)以前に、三角関数表に類するものがなかったかは分からない。2017年に、バビロン第一王朝(紀元前19〜16世紀)時代のバビロニアに、"三角関数表"があったという論文が出ていた。

Plimpton 322 is Babylonian exact sexagesimal trigonometry
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0315086017300691

プリンプトン322は、4列15行の数値表で、4列目は行番号、1,2,3列は(\left( \dfrac{p^2+q^2}{2pq} \right)^2 , p^2-q^2 , p^2+q^2 )の形の数値で、1列目の大きさ順でソートされている。一列目は欠損があるので、\left( \dfrac{(p^2-q^2)}{2pq} \right)^2という解釈もできるらしいけど、どっちを選んでも、大きな影響はない。(p,q)は正整数の組で、一行目から順に、(12,5),(64,27),(75,32),(125,54),(9,4),(20,9),(54,25),(32,15),(25,12),(81,40),(60,30),(48,25),(15,8),(50,27),(9,5)とすると、表が再構成される。表は、60進表記で、各桁が、60の何乗に対応するのか不明らしい。例えば、11行目の2,3列目は、(45,75)かもしれないけど、それぞれを60倍した(2700,4500)と解釈されている。

ということは以前から分かっていたけど、これらの組を選んだ基準とか、この表の目的については、共通見解がない。

論文では、de Solla Priceの1964年の提案通り、38行目まで続きがあったとして解釈をしている。(2pq , p^2-q^2,p^2+q^2)は、ピタゴラス数なので、表は、直角三角形のリストで、鋭角の大きさに従って、ソートされているとも解釈できる。角度の分布は、残っている15行目までだと、45度弱〜32度程度だけど、38行目まで補うと、最小角は2.34度弱となる。表には、12709と18541のような大きな数が含まれているので、バビロニア人が、原始ピタゴラス数(12709,13500,18541)を作り出す方法を知ってたことは、間違いないと思われる

論文には、表の使い方とかについても書いてあるけど、仮に、主張が完全に正しくても、通常の意味での三角関数表とは違って、三辺の長さが整数比という縛りがあるので、等分点に於ける弦長や正弦値を計算しているようなものではない。なので、"三角関数表"と呼ぶのは、語弊が大きい。

ピタゴラス数やペル方程式は、初等整数論に於ける主要なテーマだけど、元々の動機は、"応用数学"にあると言えるのかもしれない。数論には最近まで何の応用もなかったと言われることもある気がするけど、単に人類が、その起源を忘れてるだけだろう。



バビロニアは、バビロン第一王朝以後も、長い間、少なくとも天文学では、先進地域であり続けた。当時、天文学占星術は結びついていて、ヘレニズム時代になると、バビロニア占星術が伝わった結果、ホロスコープ占星術として、アレキサンドリアで発展したのは、その表れと言える。バビロニアの天文記録は、現存する一番新しいものでは、西暦74〜75年のもので、楔形文字記録の最後のものでもある。

紀元前2世紀に作られた"アンティキティラの機械"で採用されている、System Bなるルールがあるらしいけど、これは、バビロニア由来のものと思われている。紀元前4世紀の人であるKidinnuが考えたという説があり、ギリシャに紹介したのはヒッパルコスであるかもしれない。ヒッパルコスの知識の内、どれがバビロニア由来のものかは明らかではない

ヒッパルコスの表は、7.5度刻みだったとされている。これは、内接正48角形の一辺の長さを計算できれば十分。ヒッパルコスの表の値は、現代の記号では、2 \sin(\theta/2)を計算したものなので、3.75度刻みで正弦値を計算したのと同等。

3.75度は、30度の1/8なので、30度の正弦値から始めて、15度、7.5度、3.75度の正弦値を計算していけばいい。これくらいの刻み幅でも線形補間した時の精度は、それほど悪いものではない。3.75度と7.5度の正弦値から5度に於ける値を線形補間で計算した場合、0.08711081689…となり、5度の正弦値は、0.087155742…で、誤差は0.1%より小さい


少し後の時代になって、AD2世紀に、アレキサンドリアプトレマイオス(83年頃〜168年頃)が書いたとされる天文学書『アルマゲスト』に掲載されている「弦長の表」は、現代まで写本が伝わっていて、0.5度刻みになっているらしい。

Ptolemy's table of chords
https://en.wikipedia.org/wiki/Ptolemy%27s_table_of_chords

アルマゲストの表を作るには、0.25度における正弦値が必要だけど、30度や90度に於ける正弦値から始めて、二等分していくだけでは、この値を知ることはできない。

計算方法は、色んなところで説明されているけど、基本的な方針は、既知の値から始めて線形補間が十分な精度となるまで二等分を繰り返し、最後に線形補間によって、0.5度に於ける弦長(0.25度の正弦値の2倍)を決定したらしい。出発点には、12度に於ける弦長を使ったらしい。正五角形の一辺の長さは、72度に於ける弦長であり、これと、60度に於ける弦長と合わせて、加法公式から、12度に於ける弦長が決まる。後は、二等分を繰り返して得られる、12/16度と12/32度に於ける弦長を線形補間して、0.5度の弦長を決定できる。プトレマイオスは、この表を使って線形補間するように書いているらしい。

ヘレニズム文明圏の書写材料はパピルスで、紀元前2世紀頃、アナトリアのペルガモン王国で、羊皮紙が量産されるようになったと伝えられる。

プトレマイオスは、占星術書『テトラビブロス』も書き、これが後の西洋占星術の基礎になったらしい

古代オリエント→インド

メソポタミア地域とインド地域の交流は、非常に古くからあって、シュメール人インダス文明の時代には既に交易を行っていたと考えられている。学術的な交流がどれくらいあったのか分からないけど、ヒッパルコス以降のある時期に、インドに、三角法が伝播したと推測されている。古代バビロニア起原とされている黄道12宮や曜日なども、オリエント地域に広まっていたものが、AD3世紀頃、インドに伝わったとされており、同時期に、伝来したものかもしれないけど、証拠はない。

紀元前後、仏教とギリシャ文化は、パルティア、バクトリアガンダーラ地方や中央アジア方面で共存してたし、紀元1世紀にはインド洋で季節風貿易が行われてたので、どこで、どういう形で伝わっても不思議はないけど、正確な時期や伝来経路は、よく分かってない。

おそらく、インドには、『アルマゲスト』より前の知識しか伝わらなかったと見られている(知られる限り、『アルマゲスト』のサンスクリット語翻訳は、18世紀に、Jagannatha Samratによって、アラビア語版をベースとして、なされたらしい)。


4世紀後半〜5世紀初期に書かれたと推測されている天文学書『スーリヤ・シッダーンタ』には、三角法と天文学への応用が書かれていたようである。この本は、ヘレニズム数学で見られなかったsinとcosと等価な概念を使っているらしい。1860年に英訳されたヴァージョンが、以下で読めるよう(長いので、読んでないけど)

Translation of the Sûrya-Siddhânta
https://books.google.co.jp/books?id=jpE7AAAAcAAJ

紀元500年頃、インドの数学者・天文学者アーリヤバタは、『アーリヤバティーヤ』という本を書いて、これの内容は、現在まで残ってるらしい。アーリヤバタは、パータリプトラにあったナーランダー僧院の学長を務め、ナーランダー僧院には、大きな天体観測所があったとWikipediaには書いてある。ナーランダー僧院は、当時最大の仏教の学院で、少し後の時代には、玄奘三蔵も、636〜641年まで、ここに滞在した。

『アーリヤバティーヤ』では、3.75度刻みの正弦値を記した表が載ってるらしい

Āryabhaṭa's sine table
https://en.wikipedia.org/wiki/%C4%80ryabha%E1%B9%ADa%27s_sine_table

3.75度刻みなので、多分、ヒッパルコスと同じような方法で計算したと推測される。プトレマイオスは、円周率を377/120=3.1416666...としたらしいけど、アーリヤバタは、62832/20000=3.1416を採用したと書いてある。外接正384角形の周長から評価した場合、3.141662747…となり、内接正384角形の周長を使うと、3.1415576079…となり、アーリヤバタは、後者の数値の近似として、3.1416を採用したらしい。円周率はともかくとして、基本的には、この時代のインドに於ける三角法は、『アルマゲスト』より、大きく優れてる面は、ないっぽい。


紀元7世紀には、紀元前から存在する都市ウッジャインの天文台天文台長だったらしいブラフマグプタ(598〜668)はPell方程式を調べていて、恒等式
(x_1^2-Dy_1^2)(x_2^2-Dy_2^2) = (x_1x_2+Dy_1y_2)^2 - D(x_1y_2 + x_2y_1)^2
を発見したとされている。これは、今日、Brahmaguptaの恒等式と呼ばれる。これは、加法定理でもあるけど、ブラフマグプタが三角関数と結びつけて考えたかは分からない。

ブラフマグプタは、他にもブラフマグプタの補間公式という二次の補間法で知られる。ブラフマグプタの頃には、0を用いた十進記数法が完成していたようである。


北インドでは、550年にグプタ朝が滅び、中心都市であったパータリプトラは衰退したが、滅んだわけではなく、ナーランダー僧院も1193年まで残っていたようである。

古代インドの書写材料には、貝葉という、ヤシの葉を加工したものを使っていたらしい。インドへの紙の伝来は、イスラム世界によって12世紀頃、もたらされたとされている


インド→中国

中国では、3世紀頃には、正192角形や正3072角形の周長から、円周率を評価していたらしいから、正弦の特殊値の計算として見れば、プトレマイオスのものより細かい計算ができていたことになる。概念的な面では、三角法には繋がっていないっぽい。


中国には、古くから、土圭之法とか、圭表という日時計の一種があって、冬至を知るのに利用され、周代には存在していたとも言われるけど、一日の時刻を知るのに使われたかは分からない。

『九章算術』訳注稿 (1)
http://pal.las.osaka-sandai.ac.jp/~suanshu/j/publications2.html

によると、AD263年に劉徽が注釈を作成した「九章算術」には、"周官大司徒職、夏至日中立八尺之表。其景尺有五寸、謂之地中。説云、南戴日下萬五千里。"(『周官』大司徒に「夏至の日の南中時、8尺の晷針を立て、その影が1尺5寸になる地を「地中」と謂う」と。(鄭玄の)説に「そこは、(夏至の南中時に)太陽が真上にくる地点より1万5000里離れている」)という記述があるらしい。

これも、圭表の記述に相当するものと思われ、"八尺之表"とは
表 (道具)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8_(%E9%81%93%E5%85%B7)
のことだろう。

"8尺の晷針を立て、その影が1尺5寸になる地"は、北緯34度あたりで洛陽や長安のある緯度に近い。夏至の南中時に太陽が真上にくる地点とは、今で言う北回帰線(北緯23.4度)で、南越国とかあったあたりまで南下すれば、確認できたはずだけど、実際に行って測定したかは定かでない。

上記の記述の後に説明があって、(大地が平坦と仮定して)洛陽付近の南北二点間に於ける、同じ長さの棒の影の長さを測定して、これと二地点間の距離に基づき、連立方程式を解くことで、太陽の高さ、及び北回帰線と"北緯34度線"(彼らのいう"地中")の距離を決定したっぽい。

一旦、古代中国人の方法で"太陽の高さ"が既知(上の記述では、夏至の南中時には、高さ8万里にあるという想定らしい)になれば、夏至の南中時に影の長さを測定するだけで、他の地点でも、北回帰線との距離が決定できる。この計算は、ある意味では、三角法と言えなくもないけど、三角関数表は全く必要ない。

エラトステネスと違って、結果的には、古代中国では、誤った仮定に基づいて計算していたわけで、太陽と地球の距離に関しては大きな差が出たけれど、地上での距離計測に関して言えば、古代中国人の生活圏では、十分実用的で、実際に二地点間の距離を測定して、自分たちの計算の正しさへの確信を深めた可能性さえある。

「地中」と北回帰線の距離は、1200km弱で、これが一万五千里だと言ってるから、一里80mくらいの換算になる。普通は、一里4〜500mくらいと考えられているけど、こうした計算があることは、魏志倭人伝の解釈で使われることがある短里説(一里75〜90m)の根拠とされている。



紀元718年に、インド人を祖先に持つとされる瞿曇悉達は、唐で『開元占経』を編纂し、これの104巻には、位取り記数法の説明とかが書いてあり、この中にアーリヤバタの正弦表も含まれている。『開元占経』は、天文・暦学・占術学の本とされ、冒頭は、古代に於ける宇宙論のような内容を含む。

『開元占経』は、写本が沢山残っているらしく、検索すると、いくつか見つかる。raw textと画像が、

中國哲學書電子化計劃:《開元占經》
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=348345

大唐開元占經 殘三卷
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/toho/html/C004menu.html

にある。冒頭の"算字法:樣一字、二字、三字、四字、五字、六字、七字、八字、九字點,右天竺算法,用上件九個字,乘除其字,皆一舉禮而成。..."とか書いてある部分(と、その続き)が、位取り記数法の説明っぽい(?)。画像の方で見ると、この部分には、算木数字が書かれている

算木数字
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%97%E6%9C%A8#%E7%AE%97%E6%9C%A8%E6%95%B0%E5%AD%97

正弦表は、"推月間量命段法:凡一段,管三度四十五分,每八段管一相,總有二十四段,用管三相。其段下側注者,是積段,並成三數。第一段,二百二十五。第二段,二百二十四,並四百四十九。第一相;第三段,二百二十二,六百七十一。(中略)第二十四段。七,並三千四百三十八。"のように記述されている。

これは、3.75度ごとの正弦値(の3438倍)に相当するものを表しているけど、例えば、"第二段,二百二十四,並四百四十九"。の449が正弦値3438 \sin(7.5^{\circ}) = 448.7490\cdotsに相当するもので、224は、第一段の数値225との差分を表す。


725年頃、大衍暦の作成を命じられた、唐代の僧である一行は、tangent表を作成したらしい

AN EIGHTH CENTURY CHINESE TABLE OF TANGENTS
https://www.jstor.org/stable/43290348?seq=1#page_scan_tab_contents

続日本紀』には、天平7年(735)、吉備真備が唐から持ち帰ってきたものの中に、大衍暦経一巻、大衍暦立成十二巻、測影鉄尺一枚、...と書かれている。この時に、日本にも、正接表が持ち込まれた可能性はある。測影鉄尺は詳細がよく分からないけど、冬至の影を測る鉄の棒などと解釈されてることが多い。圭表と同じものなのかもしれない。

これと前後して、日本では、陰陽道、天文道、暦道が成立して、これらの技術は、江戸時代まで国家の管理下にあり、秘匿されていた。


世界最初のTAN表の制作方法
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~jochi/j18.htm

では、一回転を364"度"として、実測によって、表を作ったのではないかと考察をしている。そうだとして、当時、『開元占経』で、インド式として、一周360度が紹介されてるのに、中国人が、頑なに360を採用しなかった理由は謎である。

364は7の倍数ということから、時々、魅力を感じる人もいるようで、一年364日の暦が存在したこともあるらしい(Qumran calendar,Enoch calendar)し、現代でも、一年364日で閏週で調整する暦を作ろうという提案もあったりするよう

数学史研究(通巻153号) 一行の正接関数表(724AD)
http://www.wasan.earth.linkclub.com/sugakusipdf/153.pdf

には、宣明暦でも、一行の表が踏襲されたと書いてある。宣明暦は、江戸時代に改暦されるまで、日本で、長期に渡って用いられていた暦。


これ以後、清代に、ヨーロッパ人がやってくるまで、三角関数表が中国で積極的に活用された例は、知られていない。圭表は、これ以後の中国でも使われていたようなので、正接表は使われていても、不思議はないけれど


インド→アラビア

ローマ帝国末期には、各都市で、非キリスト教系の施設が閉鎖・破壊され、異教徒は殺されたり追放された(アレクサンドリア図書館は、紀元400年頃、破壊され、アテネアカデメイアも、紀元529年に閉鎖された)ため、多くの学者が、亡命先としてササン朝へ移動したと考えられている。ササン朝の学術中心は、ジュンディーシャープールだったらしい。

また、ササン朝では、ビザンツ帝国やインド、唐など各国の書物を集め、パフラヴィー語に翻訳したとされる。ササン朝は651年にイスラム教徒に征服されて滅亡した。皇族は、唐に亡命したらしいけど、首都クテシフォンの人口は、維持されたようだし、ジュンディーシャープールの学院は、832年にバグダードで設立された知恵の館と競合したと言われるので、その後も、200年以上、学術の中心地であり続けたようだ。こうして、ササン朝の技術と科学が、後のイスラム科学の基礎となったと考えられている。しかし、歴史書を見ても、その詳細は分からない


8世紀には、アッバース朝のアル・ファザーリが、インドの数学書天文学書を、アラビア語翻訳して、『シンドヒンド』と呼ばれる本に、まとめた。中国と異なり、アラビアの方では、インドの数学や天文学を継承して発展させた。825年には、アル・フワーリズミーが『インドの数の計算法』(Kitāb al-Jām'a wa'l-Tafrīq bi'l-Hisāb al-Hindī)を書いて、この中には、インド式の十進記数法や三角法が含まれるらしい。

当時のインドでは、まだ球面三角法はなかったけど、ヘレニズム数学の成果を継承したイスラム世界では、実用的な球面三角法が発展した(アレキサンドリアメネラウスが、球面幾何学創始者とされている)。8〜12世紀のイスラム世界で起こったことの詳細は、様々な本で書かれているので省略。



第4代モンゴル帝国皇帝モンケの時代に、弟のクビライは中国地域の征服を担当し、三弟のフレグは西アジアの征服を担当して、それぞれ、後に、元とイルハン朝創始者となった。フレグは、1258年に、バクダードを征服して、この時、大量の本が失われたと伝えられている。イスラム世界の中心地は、カイロに移る一方で、モンゴル帝国も、イスラムの科学者を連行し、その知識を継承・発展させようと試みている。

フレグは、1259年には、中央アジアのマラーゲ(現在のイラン東部)に、マラーゲ天文台を建設させ、イスラムの学者を連れてきて、研究させたようである。マラーゲ天文台で働いた人々は、マラーゲ学派と呼ばれる

元では、1271年、北京に回回天文台(イスラム天文台)が作られ、初代天文台長には、ジャマールッディーンという人が任命された。ジャマールッディーンも、それ以前はフレグに仕えていた人とされる。この頃の中国には、イスラムの数学・科学が、かなり持ち込まれた。元代に、イスラム圏の学術書が中国語翻訳されたという話は、聞かないけど、郭守敬は授時暦を作るに当たって、イスラム天文学の観測機器を利用したと言われる(具体的に、何を使ったのかは知らないけど)。

クビライは、ヨーロッパの科学に精通した人も集めようとしていたらしい。流石に、ヨーロッパは遠いので、ヨーロッパ人は、あんまり行かなかったようだけど。なので、マルコ・ポーロは有名人になった。少し後に、(ヨーロッパではないけど、中国までの距離は同じ)モロッコから、はるばる泉州、北京までやってきたイブン・バトゥータ(1304~1368)のような人もいる

少し後になって、中央アジアには、モンゴル帝国の継承政権の一つであるティムール朝が興り、首都サマルカンドには、1420年代に、ウルグ・ベク天文台が建設された。ウルグ・ベクはティムール朝第四代君主であるけど、当人も、天文学や暦学の研究を行ったらしい。

アル=カーシー(1380〜1429)は、ウルグ・ベクに招かれて、サマルカンドを中心に活動したとされる。彼の本には、1度の正弦値を求めるのに、3度の正弦値から、三次方程式を使って計算する方法が書かれているらしい。また、本当かどうか知らないけど、フランスでは、余弦定理を「アル・カーシーの定理」と呼ぶと、Wikipediaに書いてある。

アル=カーシーは多角形近似の計算を推し進め、1424年の『円周論』で、円周率を高い精度で計算したらしい。アル=カーシーは60進数表記を使っているが、10進表記だと、3.1415926535897932…くらいまで合ってる計算になるよう。アル=カーシーは、別に趣味で、この計算をしたわけではなく、高精度の円周率が天文学で必要だと考えたのだそうだ


インド数学と三角関数のべき級数展開

インドでは、12世紀に解析学の始まりが見られる。バースカラ2世の『シッダーンタ・シローマニ』(1150)に、三角関数微分を含む解析学の萌芽が見られるとされる。ヘレニズム数学にはなかったsinとcosを導入しておいたことが、役立った。バースカラ2世は、インドで球面三角法を導入した人でもある

バースカラ2世は、ウッジャインの天文台天文台長だったらしい。

アル・カーシーと同時代のインドでは、マーダヴァ(1340 or 1350~1425)という人が現れ、ケーララ学派と呼ばれる数学と天文学の学派の創始者と伝えられている。ケーララ州は、インド南西部の一地方で、それ以前のインド数学の中心は、もっと北部にあったけど、多分、イスラム勢力が南下してきたため、Hindu数学の中心地は、南インドの方に移動したのだろう

ケーララ州には、コーリコード(カリカット)を中心とする王国や、コーチン王国などがあり、彼らは、この地方のみで使われるマラヤーラム語を話していたらしい。この時代の南インドには、Hindu系の大国ヴィジャヤナガル王国(1336〜1649)があり、関係がよく分からない。属国の類かもしれないけど、コーチン王国には、1409年に、明の鄭和が訪れ、明の保護国となっている。また、1500年に、ポルトガルの第2回インド遠征隊は、コーチン王国で歓迎され、1503年から1663年まで、ポルトガルの同盟国となった

ある人口の推定では、首都ヴィジャヤナガルは、1400〜1550年頃、全てのヨーロッパ都市とカイロを超える人口を擁する大都市であった。ヴィジャヤナガルの最盛期と、ケーララ学派が活躍した時期は、一致してるので、無関係ではないだろうと思う


マーダヴァは、三角関数テイラー展開や、円周率のライプニッツの公式を導いていたとされていて、また、Taylor級数のtrunctionを使って、三角関数表を作成したと信じられている。

Madhava's sine table
https://en.wikipedia.org/wiki/Madhava%27s_sine_table

1530年頃までに、ケーララ学派が得た成果の多くは、『ユクティバーサ』という本に(証明付きで)まとめられ、世界初の微積分学の教科書と評される。実際には、微分については、大きな発展はなかったようで、速度が位置の時間微分であるという程度の認識はあったようだけど、微積分学の基本定理には到達しなかったっぽい。この本は、サンスクリットではなく、マラヤーラム語で書かれているらしい。どっちにしろ、読めないことには変わりないので、解説を見る。

Development of Calculus in India
https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-93-86279-49-1_8
[PDF] http://www.ms.uky.edu/~sohum/ma330/sp12/india_calculus.pdf

解説も長いし、幾何学的議論は追うのが怠いけど、現代の視点から見ると、ケーララ学派は、積分を長方形近似で評価して極限を取ることで、多くの解析的結果を得たようだ。

基本的なところでは、x^nの積分を、
\displaystyle \int_{0}^{t} x^n dx = \lim_{k \to \infty} \dfrac{t}{k} \displaystyle \sum_{i=1}^k \left(\dfrac{i t}{k}\right)^n
によって計算したらしい。後に、ヨーロッパでも、同様の計算は、行われたようである(FermatやFaulhaberなど)

π/4の級数展開は、1/(1+x^2)の級数展開を項別積分するのと等価な式を示すことによって得た(上記解説中の式(124)など)

sin(x)の級数展開については、上記解説中の式(169)(170)がキーになる式だけど、これらの式は、以下の2つの積分
 1 - \cos(x) = \displaystyle \int_{0}^{x} \sin(\theta) d\theta

 \sin(x) = x - \displaystyle \int_{0}^{x} du \displaystyle \int_{0}^{u} \sin(t)dt

に対応するものと考えることができる。後者の積分は、両辺にsin関数が入っているので、積分を繰り返すことにより、冪級数展開の高次の項が決定される。

やってることは、Picardの逐次近似に近いけど、微積分学の基本定理を持ってなかったケーララ学派に、何らかの一般論があったわけではないと思われる。ケーララ学派では、上記2つの式を、(現代的に解釈すれば)、積分の長方形近似で、直接計算して得たようである。例えば、前者の積分を長方形近似で計算する場合、ちょっと頑張れば
 \displaystyle \sum_{k=1}^{n} \sin(\dfrac{k x}{n}) = \dfrac{\sin(\dfrac{x}{2})^2 \cos(\dfrac{x}{2n})}{\sin(\dfrac{x}{2n})} + \sin(\dfrac{x}{2})\cos(\dfrac{x}{2})
を示すことができ、両辺にx/nを掛けてn \to \inftyの極限を取れば、求める積分を遂行できる。cos関数について、同様の計算をやれば後者の"sin関数に対する積分方程式"を証明することができる



こうして得られた冪級数を使って三角関数表を作るためには、円周率を、良い精度で計算しておく必要がある。マーダヴァは
\dfrac{\pi}{4} = 1 - \dfrac{1}{3} + \dfrac{1}{5} - \dfrac{1}{7} + \cdots
を証明したと考えられているけど、そのまま計算すると収束は遅い。上の解説によれば、『ユクティバーサ』には、初等的変形で得られる、もう少し効率のいい級数が書いてあるらしい。

具体的には
 \dfrac{\pi}{4} = (1 - \dfrac{1}{a_1}) + (\dfrac{1}{a_1} + \dfrac{1}{a_3} - \dfrac{1}{3}) - (\dfrac{1}{a_3} + \dfrac{1}{a_5} - \dfrac{1}{5}) + (\dfrac{1}{a_5} + \dfrac{1}{a_7} - \dfrac{1}{7}) - \cdots
なので、
 E(n) = \dfrac{1}{a_{n-2}} + \dfrac{1}{a_n} - \dfrac{1}{n}
とおけば
\dfrac{\pi}{4} = (1 - \dfrac{1}{a_1}) + E(3) - E(5) + E(7) - \cdots
という級数に変形できる。

 (1 - \dfrac{1}{a_1}) + E(3) - E(5) + E(7) - \cdots \pm E(p) = (1 - \dfrac{1}{3} + \cdots \pm \dfrac{1}{p}) \mp \dfrac{1}{a_p}
だから、この変形は、\displaystyle \lim_{n \to \infty} \dfrac{1}{a_n} = 0であれば正しく、a_nの選び方によっては、級数を有限項で打ち切った時の誤差を小さくすることができる。

適用例として
a_n = (2n+2) + \dfrac{4}{2n+2}
a_n = (2n+2)
a_n = 2n
を使って
\dfrac{\pi}{16} = \dfrac{1}{5} - \dfrac{1}{3^5 + 4 \cdot 3} + \dfrac{1}{5^5 + 4 \cdot 5} - \dfrac{1}{7^5 + 4 \cdot 7} + \cdots
\dfrac{\pi}{4} = \dfrac{3}{4} + \dfrac{1}{3^3-3} - \dfrac{1}{5^3-5} + \dfrac{1}{7^3-7} - \cdots
\dfrac{\pi}{4} = \dfrac{1}{2} + \dfrac{1}{2^2-1} - \dfrac{1}{4^2-1} + \dfrac{1}{6^2-1} + \cdots
などが得られる。『ユクティバーサ』には、よりよい補正項として
a_n = (2n+2)+\dfrac{4}{2n+2+16/(2n+2)}
と同値な式が書かれているらしい。


【注釈】解説PDFでも注意されている(57ページ脚注)ように、円周率の"Leibniz級数"を有限項で打ち切った時の誤差項は、連分数展開によって厳密に書け、上のa_nは、誤差項の連分数展開を途中で打ち切って得られる。ところで、E_nをEuler数とする時、形式的べき級数間の等式として、以下が成立し、
\displaystyle \sum_{n=0}^{\infty} E_{2n} z^{2n} = \dfrac{1}{1 - \dfrac{z^2}{1 - \dfrac{(2z)^2}{1-\dfrac{(3z)^2}{1-\cdots}}}}
z = \dfrac{2\sqrt{-1}}{2n+2}とおけば、この形式的べき級数と、上記誤差項との関係は明らか。つまり、Leibniz級数の誤差項は、良い漸近展開を持つ。この漸近展開は、例えば、以下の論文に載っている。
Continued Fractions of Tails of Hypergeometric Series
https://doi.org/10.1080/00029890.2005.11920220

Many Correct Digits of π, Revisited
https://doi.org/10.1080/00029890.1997.11990646

誤差項は、
 \displaystyle \int_{0}^{1} \dfrac{t^{a}}{1+t^2} dt = \dfrac{1}{2} \left( \dfrac{1}{a+1} + \dfrac{1!}{(a+1)(a+3)} + \dfrac{2!}{(a+1)(a+3)(a+5)} + \cdots \right)
のような形でも評価でき、実際上は、どれを使っても、大差なさそうに思う。この級数の証明は
I(a,b) = \displaystyle \int_{0}^{1} \dfrac{t^{a}}{(1+t^2)^{b}} dt
に対して、部分積分によって
I(a,b) = \dfrac{a+1}{2^b} + \dfrac{2b}{a+1}I(a+2,b+1)
を示せばいい。級数の収束も証明は難しくない。特に、a=0の時
\dfrac{\pi}{2} = \displaystyle \sum_{n=0}^{\infty} \dfrac{n!}{(2n+1)!!}
を得る(この級数は、少なくともEulerによって知られていたようである)。この級数の最初の10項を評価すると、1.5702…を得るので、円周率が、3.14より大きいことが分かる。一方、a=2として、最初の6項を足したものをライプニッツ級数の初項のみの評価値である1から引くと、0.78570…で、円周率に対する評価としては、22/7より少しいい。外接正96角形による近似計算に勝つには、7項まで評価しないといけないけど、計算量は大分少なくて済む。


ケーララ学派では、誤差項の式については、経験的に得られただけのものだった可能性が高く、また、マーダヴァが計算した円周率は、同時代のアル=カーシーの計算に精度では劣っているものの、多角形近似によらない点で、方法としては新しい。



天文学の方の成果について見ると、ケーララ学派のニーラカンタ(1444~1544)は『タントラサングラハ』(1501)を(サンスクリットで)書き、Wikipediaには、"Nilakantha's system was more accurate at predicting the heliocentric motions of the interior than the later Tychonic and Copernican models, and remained the most accurate until the 17th century when Johannes Kepler reformed the computation for the interior planets in much the same way Nilakantha did."と書かれている。彼のモデルは、地動説に基づくだけでなく、惑星の軌道が楕円であることを含んでいたとされてるけど、どういうモデルだったのか、詳細は知らない

【読んでない参考文献】
Modification of the earlier Indian planetary theory by the Kerala astronomers (c. 1500 AD) and the implied heliocentric picture of planetary motion
https://www.jstor.org/stable/24098820?seq=1#page_scan_tab_contents

Model of planetary motion in the works of Kerala astronomers
http://adsabs.harvard.edu/full/1998BASI...26...11R

予測精度の観点からすると、地動説か天動説かより、円軌道か楕円軌道かの方が重要ではある。ケーララ学派について書かれた資料を読んでいても、観測の話が出てこないけど、彼らが、観測を重んじなかったのかはわからない。ヒンドゥ系の天文学にも、14世紀後半に、イスラム世界から、アストロラーベが伝わったと言われるけど、そういう観測天文学系の話を読んでいても、ケーララ学派の話は全く出てこないので、ケーララ学派が、どういう立場にあったのか掴めない


ケーララ学派の数学がヨーロッパに伝わったという可能性は

TRANSMISSION OF THE CALCULUS FROM KERALA TO EUROPE
http://ckraju.net/Joseph/PA-3-Manchester-2007-paper.pdf

で、色々と考察がされているけど、決定的な証拠はない。

アラビア→ヨーロッパ

ヨーロッパでは、カスティーリャ王国が、1085年に、トレドを征服し、トレド翻訳学派と呼ばれる集団が形成され、アラビア語文献のラテン語翻訳(後には、カスティーリャ語翻訳)が行われるようになった。1000年頃のイスラム世界の中心地は、コルドバ、バクダード、カイロにあった。とある推計によれば、この三都市の中で、1200年頃までに人口を伸ばしたのはカイロのみで、コルドバは、1236年に、カスティーリャ王国に征服された。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194〜1250)は、プトレマイオスの「アルマゲスト」のラテン語訳を支援し、フリードリヒ2世の宮殿には、イスラムの学者も多く滞在していたと言われる。

この頃のヨーロッパの詳細は、それなりに分かっているようだけど、基礎科学に関して、他の地域で見られなかった発展を開始するのは、概ね、1600年頃からと言える。


一方、バグダードも、1258年に、モンゴル帝国に征服され、中央アジア〜東アジアでも、モンゴルの継承政権の元で、イスラム科学は暫く存続していたようだけど、サマルカンドのウルグ・ベク天文台が、1449年に破壊されて以降は、東アジア寄りの地域でのイスラム科学は消滅していった。サマルカンド出身の天文学者Ali Qushjiは、ウルグ・ベクの死後、1470年には、イスタンブールに移り、1474年に、そこで死んだそうである。およそ100年近く後のイスタンブールでは、天文台が建設されたものの数年で破壊されたとなっている。

Constantinople Observatory of Taqi ad-Din
https://en.wikipedia.org/wiki/Constantinople_Observatory_of_Taqi_ad-Din

天文台の建設提案者だったTaqi ad-Din(1526〜1585)は、Taqi al-Dinと綴られてることもある。ティコ・ブラーエ(1546〜1601)の同時代人なので、よく比較されるらしい。この頃でも、イスラム科学は、まだヨーロッパ科学の後塵を拝していたわけではない。

Taqi ad-jinの足跡を見ると、当時のイスラム世界の学術中心は、イスタンブール、カイロ、ダマスカスなどにあったと推測される。13〜15世紀頃のマラーゲ学派やウルグ・ベク天文台で得られた成果も継承されており、それは、ヨーロッパにも伝わったようである。

この頃、コペルニクスの弟子であるレティクス(1514-1574)は、10秒(1/360度)刻みの三角関数表を作ろうと試みたらしい。アルマゲストと比べても、随分細かくなっていて、観測精度や、測定精度に対する要求が向上したのかもしれない

円周率については、ドイツのLudolph van Ceulenという人が、正多角形近似に基づいて、1590年代に、3.14159265358979323846…まで正しく計算した。bionic libcのmath.h
libc/include/math.h
https://android.googlesource.com/platform/bionic/+/refs/heads/master/libc/include/math.h
などでは、M_PIが、3.14159265368979323846で定義されている。この精度の近似値が歴史上初めて得られた。van Ceulenは、計算を進めて35桁目まで評価を行ったそう

また、1600年前後のヨーロッパでは、天文学以外に、航海術や測量術のような分野での三角法の利用も一般的になってきた。


17世紀後半には、ヨーロッパで様々な関数の冪級数展開が与えられた。John Wallisの1656年の著作Arithmetica Infinitorumには、x^nの積分や、項別積分の考え方が書かれていて、実質的に√(1-x^2)のべき級数展開も知っていたようだ。

人類に知られていた最古のべき級数は、1/(1+x)のものだろうけど、項別積分すると、log(1+x)のべき級数展開を得られる。これは、1668年に、Nicholas Mercatorが"Logarithmo-technia"で書いたとされている。1/xの積分が、対数であることは、メルカトル以前に知られていた。

※)メルカトル図法の"メルカトル"とは別人。メルカトル図法の名前は、Gerardus Mercator(1512~1594)という人に由来する。

John Napierは、1614年に対数表を公表して、1617年には、イングランドのHenry Briggsが常用対数を提案した。ケプラーが1627年に作成したルドルフ天文表にも、対数表が含まれるようだけど、これは、Napierと独立にJost Bürgiが対数の発見者と言われるので、その成果かもしれない。これらの時点では、自然対数は、まだ使われていない

同じ頃、ケーララ学派と同様に、ヨーロッパでも、x^n積分が計算され、nが負や分数の時の結果も得られていたが、n=-1の場合が、未解決として残った。

1647年に、Grégoire de Saint-Vincentは、正数a,b,c,dに対して、現代の記号で書くと
\displaystyle \int_{a}^{b}\dfrac{dt}{t} = \displaystyle \int_{c}^{d} \dfrac{dt}{t} \Leftrightarrow b/a = d/c
を示したらしい。今では、積分の変数変換をするだけで、すぐ分かる。そして、1649年に、Saint-Vincentの生徒だったAlphonse Antonio de Sarasaが、
L(x)=\displaystyle \int_{1}^{x} \dfrac{dt}{t}
とすると、L(xy)=L(x)+L(y)となって、対数と同じ性質を持つことを認識したらしい。

当時は、1/xの積分によって自然対数が定義され、幾何級数に項別積分を適用することで、log(1+x)の級数展開を得たのだろう。このべき級数を得た人は、他にもいたかもしれないけど、現在では、メルカトル級数と呼ばれることがある。

一方、Newtonは、Wallisの結果に触発されて、一般二項級数から始めて、逆三角関数級数展開に到達したと信じられている。そして、形式的に逆関数を計算して、三角関数のべき級数展開を得たようだ。Newtonは、1669年に"De analysi per aequationes numero terminorum infinitas"を書き、この手稿は当時の学者の間で回覧されたらしい。

De Analysi per aequationes numero terminorum infinitas
http://www.newtonproject.ox.ac.uk/catalogue/record/NATP00204

が、その内容っぽい。ラテン語だけど、それほど長くはない。Google翻訳で訳すと、それなりの英語になるけど、読むのが面倒なので、書かれている係数だけ雰囲気で見ると、1/(1+x)や√(1+x)の級数展開らしきものが前半にあり、1/(1+x^2)と、その積分なども級数の形で書かれている。後半の方には、arcsinやsinの級数展開らしきものも、書かれている。

べき級数積分や逆を、形式的に計算すること自体は難しくないけど、Newtonが、これらの級数と、三角関数・逆三角関数の関係を、どのくらい理解していたのか、イマイチ分からない。

James Gregoryは、メルカトル級数の結果を見て、1/(1+x^2)の積分から、arctan(x)の級数展開を発見したとされ、現在ではグレゴリー級数と呼ばれているけど、この級数自体は、Newtonの手稿にも見られる。Newtonが、この級数が、arctan(x)に等しいことを理解してなくて、Gregoryが、それに気付いたということなら、グレゴリー級数という名称は妥当だと思われる。もし、Newtonがarctanとの関係に気付いていれば、円周率の"Leibnitzの公式"にも言及しそうなものだけど、Newtonの手稿には見られないから、気付いてなかったのかもしれない

この手稿の内容は、John Collinsを経由して、James Gregoryにも伝わったようだし、John Collins,Henry Oldenburgを通じて、Leibnitzにも伝わったとされる。

James Gregoryは、1668年に、通称"アルキメデスの漸化式(Archimedean Double Sequence)"と呼ばれる二重数列が収束することを証明したらしい。収束先がarctan(x)を使って書けることは分かっていただろうし、この二重数列が満たす漸化式を使って、arctan(x)のべき級数展開を見つけることも不可能ではなかったはずだけど、Gregoryは、そういう道は、辿らなかったようだ。

いずれにせよ、ヨーロッパでは、1670年前後に、三角関数や逆三角関数や対数関数のべき級数展開が知られるようになった。現代の標準的な微積分学のカリキュラムでは、微分積分の順で習うけど、インドでもヨーロッパでも、微分法が発展する以前に、まず積分と無限級数の計算が先に発展したようである


【補足】メルカトル級数が知られる以前に、自然対数の数値計算に興味を持つ人がいたかどうかは分からないけど、常用対数表が存在してたわけだから、x=1以外のどこか一点で、自然対数の値を決めれば、底の変換によって、自然対数の計算を行うことはできたはず。自然対数の値を計算する方法として、
(1)数値積分
(2)交代調和級数の利用
(3)アルキメデスの漸化式
などが考えられる。

(1)数値積分は最も安直な方法で、1599年に、イギリスのEdward Wrightが、緯線距離を計算するために、正割関数の積分を、数値的に計算したという例がある。正割関数の積分が、対数とtanの合成関数で与えられることは、1668年にJames Gregoryが公表したようなので、Wrightの計算結果を流用したことはないだろうけど、数値積分の発想自体は存在したようである。実際に実行した人がいたかは分からない

(2)交代調和級数が、\log(2)であることは、1659年に、イタリアの数学者Pietro Mengoliが発見したらしい。1659年にGeometriae speciosae elementaという本を出版しているので、これに含まれるのかもしれないけど、400ページ以上あるので、中を探す気は起きない。Roger Godementの解析学の教科書には、Mengoliは、積分の長方形近似から得られる式
\log(2) = \displaystyle \lim_{n\to\infty} \sum_{k=1}^n \dfrac{1}{n+k}
と、容易に得られる等式
\displaystyle \sum_{k=1}^n \dfrac{1}{n+k} = 1 - \dfrac{1}{2} + \dfrac{1}{3} - \cdots + \dfrac{1}{2n-1} - \dfrac{1}{2n}
から、交代調和級数の値に至ったと書いてある。この初等的な議論は、1650年代のヨーロッパでも可能だっただろうし、また、Mengoliが、メルカトル級数を発見しなかったことも納得がいく。

交代調和級数を直接計算すると、収束が遅いけど、1668年にイギリスのWilliam Brounckerは
The Squaring of the hyperbola
https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rstl.1668.0009
で、交代調和級数の初等変形で得られる級数を3つ書いている。Brounckerの細かい議論までは見てないけど、級数と収束値は
\log(2) = \dfrac{1}{1 \times 2} + \dfrac{1}{3 \times 4} + \dfrac{1}{5 \times 6} + \dfrac{1}{7 \times 8} + \cdots
1-\log(2) = \dfrac{1}{2 \times 3} + \dfrac{1}{4 \times 5} + \dfrac{1}{6 \times 7} + \cdots
\dfrac{3}{4} - \log(2) = \dfrac{1}{2 \times 3 \times 4} + \dfrac{1}{4 \times 5 \times 6} + \dfrac{1}{6 \times 7 \times 8} + \dfrac{1}{8 \times 9 \times 10} + \cdots
となる。最後の級数は、比較的少ない計算量で、それなりの評価を与える。

William Brounckerは、Brounckerの連分数展開で知られる人でもあり、Fermatが出したPell方程式の整数解を求める問題を解いた人でもあるらしい(Eulerが誤解しなければ、Pell方程式は、Brouncker方程式と命名されたはず)

余談として、Ramanujanのノート(Chapter IIの冒頭)
cf)Ramanujan's Notebooks
https://www.imsc.res.in/~rao/ramanujan/notebookindex.htm
では、同様に、積分の長方形近似の式(Notebook Iを見ると、おそらく、積分から、この式を得たのだろう痕跡がある)があって、類似の等式
2 \log_{e}(2) = 1 + \dfrac{2}{2^3-2} + \dfrac{2}{4^3-4} + \dfrac{2}{6^3-6} + \dfrac{2}{8^3-8} + \cdots
を導いている。この続きには、同じような公式が、いくつか記載されている(Brounckerの級数は載ってない)。Ramanujanも、最初は、簡単なことから始めたということが分かる。

Ramanujanのノートには、積分
\displaystyle \int \dfrac{x^m}{1+x^n} dx
の計算も見られる(NoteBook Iでは、Chapter Xにある。NoteBook IIでは、Chapter VIIIのN13や14)。これは、対数関数やarctanを含むとはいえ、有理関数の積分だから、今となっては別に面白いものではない(n,mを固定すれば、Mathematicaでも計算できる)けど、Gaussの日記でも触れられている(Entry54)ので、賢い人たちも、色々な一般化を試行錯誤したらしいことが窺える(Gaussは、単に、Eulerの著作で、この積分を見つけたのかもしれない)

(3)17世紀でも、自然対数が、"アルキメデスの漸化式"で計算できることに気付ける可能性はあったと思うけど、多分、誰もやってないっぽい。これについて、1972年に、An Algorithm for Computing Logarithms and Arctangentsという論文が書かれている(調和平均の代わりに算術平均を使ってるけど、同じこと)。17世紀だと一般項が書けなくて、(M(a,b)で、初期値(a,b)に対するアルキメデスの漸化式の収束値を表すとする時)、漸化式から導ける関係式
M(1+x,2\sqrt{x}) = \dfrac{1+\sqrt{x}}{2}M(1+\sqrt{x},2x^{1/4})
のみだと、収束先を定数倍を除いて決められず、"x=1以外に、最低でも、もう一点の値を決めれば..."という問題に戻ってしまう気もする。


ヨーロッパ→東アジア

中国では、イエズス会の宣教師らによって、1631〜34年頃に、『崇禎暦書』が編纂され、これにも、割円八線表という名前で、三角関数表が含まれていたらしい(sin,cos,tan以外に、1/sin,1/cos,cot,versine,coversineの合計8つの三角関数があったことが、八線表という名前の由来のよう)。


李氏朝鮮は、15世紀に、独自の暦書「七政算内編」、「七政算外編」を作ったとされる。前者は、授時暦を研究した成果、後者は、回回暦を研究した成果で、清を宗主国としていた時は、独自の暦と清の暦(時憲暦)を併用したらしい。

李氏朝鮮には、中国で散逸していた、元代の算術書『算学啓蒙』(朱世傑、1299年)が教科書として使われて残っていた。この本には、天元術と呼ばれる初等代数が含まれ、初期の和算家が受容・発展させたとされる。秀吉が、李氏朝鮮を侵略した時に、技術者も連行したらしいから、初期の和算家が、彼らから、数学を学んだことはありそうに思うけど、そういう話は聞かない。

医者の岡野井玄貞は、1643年の朝鮮通信使で来日した朴安期(容螺山)に暦学に関する問答を行ったと伝えられている。岡野井玄貞は、日本で最初に作られた暦(貞享暦)の作成者である渋川春海が暦学を学んだ一人でもある

李氏朝鮮でも中国の影響から、ヨーロッパの数学や科学の流入はあったようである。1602年に北京でマテオ・リッチが刊行した『坤輿万国全図』が1603年にもたらされ、その後も、機会あるごとに、漢訳西学書が持ち込まれたと考えられている。また、1631年に、鄭斗源が北京から帰国する折に、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲス(彼は、1577年に日本にやってきて、1610年に家康に追放された後、1612年からは拠点を中国に移して活動を続けた。ロドリゲスの後任として家康の外交顧問になったのがイギリス人ウィリアム・アダムス)から、漢訳西学書や西洋の文物を贈与されたことが知られる。

とはいえ、李氏朝鮮は、ヨーロッパに対して、日本よりも厳格な鎖国政策を採用したので、19世紀より前には、宣教師の入国が許可されることもなかった。ヨーロッパの書物を直接輸入して自国で翻訳することもなかったようなので、ヨーロッパの知識は、中国の漢訳西学書を通じて得られるものに限定されていたようである。

cf)"朝鮮数学史"という本には、朝鮮内でのヨーロッパ数学の状況について、ある程度記述されていそうである(未読)
http://www.utp.or.jp/book/b306128.html



江戸時代前半の日本では、鎖国と共に、ヨーロッパの書物は、中国で書かれたものも含めて、全面的に輸入が禁止されていたので、日本には、1723年に清で刊行された『曆算全書』が、1726年に輸入された時に、三角法が伝わったとされている。

それ以前でも、三角関数について、オランダ人から学ぶ機会はあったかもしれない

紅毛流として伝来した測量術について(I)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/172777

紅毛流として伝来した測量術について(II) : 三角関数表の伝来と二つの経路
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/232876

また、江戸時代初期には、イエズス会士カルロ・スピノラやウィリアム・アダムスのような人が滞在していて、数学や天文学を教えたと伝えられているから、その時にも、ヨーロッパ数学伝達の機会は存在した。


とはいえ、17世紀の日本に三角関数表が存在していたという物証はないっぽい。成立年不明の『算暦雑考』という本は、内容などから、建部賢弘(1664〜1739)の著作と推測されていて、日本最初の三角関数表を含むとされている。この本は、18世紀に書かれたものだろうけど、和算でも、17世紀には、正多角形の周長から円周率を求めようという計算は沢山なされていたので、三角関数表を作ろうと思えば、計算自体は容易だっただろう

建部賢弘の弟子である中根元圭(1662~1733年、弟子だけど年上)は、『曆算全書』が輸入された後、ヨーロッパ流の三角法の解説書として、『八線表算法解義』を書いた。成立年は1727年頃とされている。『算暦雑考』も『八線表算法解義』も成立年不明なので、どっちが先か分からない

無限級数は、18世紀前半に、何人かの和算家が使うようになった。何らかの無限級数について言及した初期の和算書は、以下のようなものがある

綴術算経』(1722,建部賢弘):arcsin(x)^2の級数展開
『宅間流円理』(1722,鎌田俊清):sin(x),arcsin(x)の級数展開
『方円算経』(1739):arcsin(x)の級数展開
『算法綴術草』(1740):1/(1-x),√(1-x)の級数展開

arcsin(x)^2のべき級数は、1737年にEulerが証明したとされている。建部賢弘は、証明や成立理由を知っていたわけでなく、数値計算の結果から予想しただけらしい。

他の無限級数については、独自のものという可能性もあるけど、1701年に北京入りしたフランス人宣教師Pierre Jartoux(1669〜1720)が中国に、いくつかのべき級数を伝えたとされ、それが日本にも伝わった可能性がある。Pierre Jartouxは、Leibnizと文通していたらしいから、高い学術能力を持った人だったようである。

天体観測については、吉宗の指示のもと、1744年に佐久間天文台が設置された

Pierre Jartouxの後、清代の中国では、明安図(1692-1763,Ming Antu)や項明達(1789-1850,Xiang Mingda)のような人たちが、無限級数の研究を継続していたらしい。項明達は、楕円の周長と長径の比を、離心率の無限級数で書けることを発見していたようだ。同様の結果は、ヨーロッパでは、1742年に、マクローリンが公表したとされている。

補足:楕円積分研究の動機

中国は、楕円の周長計算によって、微妙に、楕円積分に踏み込んでいたようだけど、一方、18世紀ヨーロッパで、楕円積分の研究が盛り上がった理由は、平面弾性曲線にあったっぽい。1742年のマクローリンの本には"The construction of the elastic curve, and of other Figures, by the rectification of the conic sections"というタイトルの章があり、楕円積分と平面弾性曲線の関連に触れているようだ

The elastica: a mathematical history
https://www2.eecs.berkeley.edu/Pubs/TechRpts/2008/EECS-2008-103.html

によれば、弧長を独立変数にして弾性曲線の微分方程式を書き、振り子の運動方程式と等価になる(つまり、平面弾性曲線が可積分系で記述される)ことに気付いた人は、Kirchhoffらしい(1859)。

このことは、Eulerが知っていたと書いている本もあり、出典は、1744年のEulerの本
Methodus inveniendi lineas curvas maximi minimive proprietate gaudentes, sive solutio problematis isoperimetrici lattissimo sensu accepti
https://archive.org/details/methodusinvenie00eule
だそうだけど、300ページ以上あるので、確認する気にはならない。

考えてみると、18世紀には、Euler topやLagrange topなども発見されたのだろうし、これらの解を記述しようと思って、楕円関数に辿り着いた人がいないのは不思議に思える。

cf)弾性曲線と可積分系の関係については、以下の解説が詳しい。
Lectures on Elastic Curves and Rods
https://doi.org/10.1063/1.2918095

おまけ:惑星運動と調和振動子

天動説であれ、地動説であれ、昔の人が最初に考えたモデルは、等速円運動
(x(t) , y(t)) = (R \cos(\omega t) , R \sin(\omega t))
だったらしい。等速円運動モデルが観測と合わないことは、割とすぐ認識されて、色々と複雑なモデルが作られることになった。等速円運動モデルは、今から見ると二次元調和振動子の特殊解になっている。

Keplerが楕円運動を提案した時、ガリレイ(やデカルト?)の反対があったらしいので、円運動への拘りは天動説よりも強かったのだろう。その後、NewtonやJakob Hermannの研究によって、惑星運動と調和振動子は、特に関係がなくなった

1906年に、Levi-Civitaは、三体問題の正則化に関する論文で、新しい時間変数と空間変数を導入した
Sur la résolution qualitative du problème restreint des trois corps
https://projecteuclid.org/euclid.acta/1485887161

Levi-Civitaの目的は三体問題だったので、特に明記されてないけど、この変数を使うと、Kepler系は調和振動子に帰着する。解析力学で、正準変換を使って問題を解く時、時間変数は据え置きにされるけど、時間変数も取り替えたほうがいいという教訓を与えてくれる例でもある

古典Kepler系の解析解
https://vertexoperator.github.io/2016/12/01/kepler2d_classical.html

こうして、惑星運動と調和振動子の間に、再び、関連が生まれた