線形代数と解析力学

有限次元ベクトル空間Vに対して、対称代数S(V \oplus V{*})と対称代数S(V \otimes V^{*})には、それぞれ自然なPoisson構造が入り、前者は解析力学で基本的なPoisson代数として現れる。後者は、行列上で定義された多項式関数の集合と同一視できるので、線形代数に於ける基本的な考察の対象とみなされる(例えば、行列式は、行列上定義された多項式関数である)。また、前者の量子化はWeyl代数、後者の量子化はgl(V)の普遍展開環となり、それぞれ解析学と(Lie環の)表現論で基本的な対象といえる(gl(n)は半単純でないので、Lie環の表現論では、やや人気がないけど)。こうして、基本的な4つの代数を得る


S(gl(n))は、gl(n)の双対空間上の多項式関数と同一視できる。S(gl(n))は、n^2個の変数x_{ij}で生成される複素係数の多項式環に、以下で定義されるPoisson括弧を定義したものと同型
\{ x_{ij} , x_{kl} \} = \delta_{jk} x_{il} - \delta_{il} x_{kj}
当然、この定義は、行列単位の交換関係
 [E_{ij} , E_{kl}] = \delta_{jk} E_{il} - \delta_{il} E_{kj}
から来ている。


簡単な計算によって
 \{x_{ij} , \sum_{k=1}^n x_{kk} \} = \sum_{k=1}^n( \delta_{jk} x_{ik} - \delta_{ki} x_{kj} ) = x_{ij} - x_{ij} = 0
が分かる。明らかに
tr(\sum_{i,j} x_{ij} E_{ij}) = \sum_{k=1}^n x_{kk}
である。同様にして、多項式
det(\sum_{i,j} x_{ij} E_{ij})
を考えることができるが、これは、
 \{x_{ij} , \sum_{a,b} x_{ab} E_{ab}\} = 0
を満たす。


Poisson代数Aに対して、
C(A) = { x ∈ A | ∀y ∈ A,{x , y} = 0 }
で定義される集合C(A)を、Poisson centerと呼ぶ。Poisson centerは、明らかにPoisson可換なPoisson代数をなす(Poisson可換とは、任意の元同士のPoisson括弧が0になること)。なので、Poisson centerの生成元を全部決定するという問題を考えることができる。

まぁ、detとtrが含まれることから想像される通り、直接計算で、
tr( (\sum x_{ab} E_{ab})^p )
は、S(gl(n))のPoisson centerに含まれることが分かる。これで生成されることを言うのは、
ad(f)(g) = {f,g}
で定義されるPoisson随伴作用と、GL(n)の随伴作用を微分したものを比較すると、Poisson centerとGL(n)不変式の全体が一致することが分かるので、上の形の元は、S(gl(n))のPoisson centerを生成することが分かる


Chevalleyの制限定理は、簡約Lie環に対して
S(\mathfrak{g})^G \simeq S(\mathfrak{h})^W
で、Harish-Chandra同型というのは、簡約Lie環に対して
Z(U(\mathfrak{g})) \simeq S(\mathfrak{h})^W
となる。従って明らかに
S(\mathfrak{g})^G \simeq Z(U(\mathfrak{g}))
が言える(この同型もHarish-Chandra同型と呼ばれていることがある。Harish-Chandraが最初にどれを主張したのかは知らない)。この同型は、Poisson centerと量子化した代数の中心とが環同型と解釈できる。


Harish-Chandra同型やChevalleyの制限定理の場合と違って、
S(\mathfrak{g})^G \simeq Z(U(\mathfrak{g}))
は、任意の有限次元Lie環に対して、正しいことが証明されていて、Duflo isomorphismという名前が付いている。



S(gl(n))のPoisson centerは不変式論的に見ても同じものを得ることができるので、S(gl(n))のPoisson構造を考える必要は必ずしもない。Liouville可積分性を思い出せば、Poisson可換な代数は重要であるので、中心に限らず、もっと大きなPoisson可換な部分Poisson代数を考えるのは自然に思える。S(gl(n))の場合、Poisson可換な極大部分Poisson代数として、Mishchenko-Fomenko subalgebraというものと、Gelfand-Tsetlin subalgebraのclassical versionとが知られている

#Tsetlinさんはロシア人っぽいけど、Cetlin,Tsetlin,Zetlin,Zeitlinなど、名前の表記ゆれが激しい。ここでは、Tsetlinを採用


Gelfand-Tsetlin subalgebraは、歴史的に、quantum version(つまり、U(gl(n))の可換部分環)が先に作られたっぽい。誰が最初に考えたのか分からないけど、arXiv:math/0503140には、Vershik & Kerov(1985)とStratila & Voiculescu(1975)が独立に考えたと書いてある(私は全く知らないけど、Voiculescuは自由確率論の開拓者で、Kerov-Vershikは漸近表現論を開拓し、自由確率論の応用先となっているそうな。多分、n→∞の時が興味の中心なのでないかと思うけど)。ロシア語論文と古い本なので、確認してみる気にはならなかった

Gelfand-Tsetlin代数の定義は簡単で、gl(n)⊃gl(n-1)⊃...⊃gl(1)なので、Z(U(gl(n)),Z(U(gl(n-1)),...で生成されるU(gl(n))の部分環というのが、定義。これが可換環になることは、すぐ分かる。so(n)⊃so(n-1)⊃...⊃so(1)でも同じことが出来るし、量子普遍展開環やYangianでも、同様の定義ができる。classical versionは、中心の代わりに、S(gl(n))のPoisson centerを取っていけばいい。

"Gelfand-Tsetlin"という名前は、Gelfand-Tsetlin基底というものに由来する(1950年代の仕事らしい)。gl(n)有限次元既約表現空間に、U(gl(n))のGelfand-Tsetlin algebraの作用が自然に定まり、同時固有関数を考えると、それがGelfand-Tsetlin基底(今の文脈で言うと、Gelfand-Tsetlin algebraがsimple spectrumを持つというのが、Gelfand-Tsetlinの示したこと?)。物理の人とかは、so(3)のスピンl表現の基底として、|l,m>と書くものを取るけど、あれも(so(3)⊃so(2)なので)Gelfand-Tsetlin基底。


#シンプレクティック代数sp(n)の場合、sp(n-1)に制限していっても、Gelfand-Tsetlin基底は得られない。これは、sp(n)の有限次元既約表現を制限した時に、multiplicity-freeに分解しないため。Wikipedia見たら、何かYangian使って、Molevがsp(n)の場合にGelfand-Tsetlin基底を拡張したと書いてある
https://en.wikipedia.org/wiki/Restricted_representation#Gelfand.E2.80.93Tsetlin_basis


#Gelfand-Tsetlin基底は、無限次元表現でも得られることはある(例えば、so(4,2)の極小表現や、so(3,1)の既約ユニタリ表現、3次元Euclid代数の既約ユニタリ表現など)。一般には、単一のHamiltonianが与えられた時、それと交換する保存量の全体は可換になるとは限らない(例えば、角運動量などは互いに可換でない)けど、Liouville可積分性では、その中の可換な部分代数のみが問題となる。このような代数で極大なものが複数ある場合もあるかと思う。第一積分の包合性以外に、独立性が問題になるけど、今は代数的に考えているので、理論的には、超越次数やKrull次元などで、第一積分の数が測られる


Gelfand-Tsetlin代数のclassical versionについて最初に考えたのは、Vinbergのよう。
On certain commutative subalgebras of a universal enveloping algebra
http://iopscience.iop.org/article/10.1070/IM1991v036n01ABEH001925
Mishchenko-Fomenko algebraも、ここで初めて定義されたっぽい。


Poisson可換なPoisson部分代数を考える動機として、Liouville可積分性をあげたので、可積分性の話。そのまま、Gelfand-Tsetlin可積分系と呼ばれる古典可積分系がある。元々は、GuilleminとSternbergが、GT代数の実Lie環版(つまり、u(n) ⊃ u(n-1) ⊃ ....で考える)に付随する可積分系を考えて、その後、2004年頃と割と最近になって、Kostant-Wallachによって、gl(n)版が考えられた(ので、後者は、Kostant-Wallach theoryとか呼ばれていることもある)
Gelfand-Zeitlin theory from the perspective of classical mechanics. I
https://arxiv.org/abs/math/0408342

Gelfand-Zeitlin theory from the perspective of classical mechanics II
https://arxiv.org/abs/math/0501387

まぁ、通常の可積分系とは、大分趣は違う。so(n)版のGelfand-Tsetlin系も作れそうだけど、知らないなと思ったら
The Gelfand-Zeitlin integrable system and its action on generic elements of gl(n) and so(n)
https://arxiv.org/abs/0811.0835
あたりでやられていた。

あと、
Linear algebra meets Lie algebra: the Kostant-Wallach theory
https://arxiv.org/abs/0809.1204
はsurveyじゃないと書いてあるけど、"線形代数のspecialist"向けに書かれているようで分かりやすい。GT代数を積分して得られる群作用は、Ritz値を保つ(疎行列の数値計算界隈の技法であるKrylov部分空間法で出てくる用語)ということで、線形代数数値計算にも応用があるかもしれない(実際に役立つ何かがあるのかは不明。可積分系に興味がないという人への導入にはなると思う)


Mishchenko-Fomenko algebraの方。この代数の定義は、上のVinbergの論文でされたようだけど、その起源は、1970年代のManakov topという古典可積分系の研究に遡る。Manakov topは、Euler topの一般化で、Euler topが、S(so(3))で定義されるので、S(so(n))への一般化を考えようというもの。Poisson多様体のLiouville可積分性は謎いので、余随伴軌道に制限すると、Poisson centerは定数関数となって、第一積分として役に立たない。Hamiltonian自身が余随伴軌道上で定数となる場合は無視することにする

#Manakov topは、SO(n)上の測地流として定式化できる(多分、定式化自体はArnoldによるものじゃないかと思うので、Manakov topという名前が適切かどうかは不明)。計量は慣性モーメントによって決まると見ることができる。相空間は、SO(n)の余接空間で、自然なSO(n)作用に関する運動量写像を関数環の方で見ると、S(so(n))->Fun(T^{*}SO(n))という型になる。関数のクラスFunはPoisson代数の構造が入れば何でもいい。この写像は、Poisson括弧を保つ環準同型になっている。Hamiltonianとかは、S(so(n))の像に入っていて、S(so(n))を"相空間"と思うこともできるし、よく知られる通り、T^{*}SO(n)のsymplectic reductionとしても、余随伴軌道が出る。


最も簡単なso(3)の場合、genericな余随伴軌道の次元は2なので、あと一つ保存量があれば、Liouville可積分になる。これはHamiltonian自身があるのでOK。一般のso(n)の場合、Hamiltonian以外の保存量が必要となる。Manakovは、スペクトルパラメータ付きのLax方程式で、Manakov topを表し、必要な保存量を得たらしい。Mishchenko-Fomenkoは、その構成を、argument shift/shift of argument methodと現在、呼ばれている方法で捉え直した。これは、S(g)の元を、Lie環の双対空間上の(多項式)関数と思った時、Poisson centerに属する関数fに対して、固定された元Zと形式パラメータtを与えて、f(X + t Z)をtの冪で展開した係数のなす関数という定義(つまり、Z方向にテイラー展開した微係数)。Zごとに異なる代数が得られるけど、Poisson可換となる

EULER EQUATIONS ON FINITE-DIMENSIONAL LIE GROUPS
http://iopscience.iop.org/article/10.1070/IM1978v012n02ABEH001859/meta


Mishchenko-Fomenko代数の量子化の問題を提起したのは、上のVinbergの論文(ここでの量子化は、filtered qunatizationの意味。Vinbergは、そのような言葉は使ってないけど。量子化した方は、shift of argument subalgebraとかいう方が、通りが良いかもしれない)。これに対して、"generic"な部分を解決したのが、以下の論文と思う。Yangianあるいはtwsited YangianのBethe subalgebraというものからやってくるらしい
Bethe Subalgebras in Twisted Yangians
https://arxiv.org/abs/q-alg/9507003

上の論文で除外されていた特殊ケースについても、ある種の極限を取ることによって、極大な可換部分代数を対応付けることができるらしい。Gelfand-Tsetlin代数も、このようにしてshift of argument subalgebraの退化したケースとして出る。一般に、簡約Lie環に対して、shift of argument subalgebraのモジュライ空間を考えることができ、gl(n)の場合は、種数0でn+2個の点付きリーマン面のモジュライ空間(Deligne-Mumfordの安定曲線のモジュライ空間)に一致する。

Degeneration of Bethe subalgebras in the Yangian of gln
https://arxiv.org/abs/1703.04147

などを参照。gl(n)以外の場合も同様に、shift of argument subalgebraのモジュライ空間を考えることができるらしいのだけど、知る限り、文献はない


gl(n)のGelfand-Tsetlin代数は、gl(n)の有限次元既約表現上でsimple spectrumを持ち、同時固有関数はGelfand-Tsetlin基底となった。Gelfand-Tsetlin代数は、shift of argument代数の退化したケースなので、shifto of argument代数が同様にgl(n)の有限次元既約表現上でsimple spectrumを持つかどうかという問題を考えられる(答えは知らない)。yesであれば、Gelfand-Tsetlin基底の変形が得られる。


#Manakov topは、Reyman&Semenov-Tian-Shanskyでも系統的に得ることはできる。この方法では、Lax形式が分かる(Poisson可換な代数を与えるのは、より単純ではあるけども、それだけでは、対応するLax pairを得ることはできない)。詳述してる文献がないけど、
A new integrable case of the motion of the 4-dimensional rigid body
https://projecteuclid.org/euclid.cmp/1104115435
など



線形代数は、ベクトル空間と線形写像の理論ではあるけど、線形性に全てを押し付けて理解できない側面がある。例えば、行列式は線形な関数ではないし、相似変換の軌道は、複雑な幾何構造を持つ。対角化などは、相似変換による軌道の代表元を取る操作と理解されるので、あんまり線形な過程ではない。線形代数の線形性を超えた情報の多くは、S(gl(n))に含まれていると考えられる。S(gl(n))と関係の深い力学系は、非周期有限戸田格子やGelfand-Tsetlin系、gl(n)-Manakov topなどがある。これらは、物理的な重要性は、今の所、あまりないように思う(戸田格子とかは、一応物理的な動機があって調べられたもののようだし、他にもなんかあるのかもしれないけど)。そういう系であっても、全然別の観点からの有用性があるかもしれない。

#まあ、一応、以下のような話を念頭に置いている
The QR algorithm and scattering for the finite nonperiodic Toda lattice
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0167278982900690


というわけで、線形代数解析力学は、それぞれ、2つの基本的なPoisson代数を調べる分野だという見方もできるようになる