少し前に「ε-δの何が重要なのか分からない」と言ってる人がいて、自然数の理解がペアノの公理に根ざしてるわけでないとか、ユークリッド幾何を理解するのにユークリッドの公理が必須でないというこは明らかなのに、ある程度新しい数学になると、そういう風に考えられなくなるらしいのを不思議に思った。


物理屋が数学者より(ある意味で)厳密さに寛容なのは、物理現象は人間と独立に存在していると考えているからだと思う。数学については、まぁ例えば複素数体の自己同型がどれくらいあるかは公理に依存して変わるけど、複素共役がなくなるのは変だと思うし、円周率が有理数になるようなことも考えにくい。数学には、人間が恣意的に作った公理に依存している部分も確かにあるけど、本質的に構成的な部分はrigidだという感があるし、何か公理の取り方に依存しない不変なcoreの存在を感じさせる。そのへんが、数学者が、数学は人間と独立して実在していると感じる根拠になっているのじゃないかと思う。まあ、逆に言うと、特定の数学的基礎に依存しているような結果は、あんまり重要でないということになる

cf.素朴実在論に肯定的な文章
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8469/jituzai.html

物理法則が数学でよく記述できて、物理屋がさほど厳密でないやり方によって、面白い数学的現象を発見できるのも、今世紀になって、人間がでっちあげた公理系が、偶然よく適合していたからと考えるより、可能な数学のcoreは唯一つしかないからと思う方が自然な気がする。以前、物理の学生が多様体の定義を知らずLie群を勉強してるみたいなネタを見たけど、数学の厳密な基礎というのは現代の数学者のやり方であって、非数学者は、そんな感じでよいのじゃないかと思う(S.LieがLie群を発見した時、まだ多様体の定義は存在しなかったわけだし)