ある種の細胞老化は可逆かもしれないという話

個体老化が連続的に起こるのに対して、細胞老化は不連続な状態変化で、老化した細胞は、長期に渡って残って、SASPによって周囲に悪影響を及ぼすとされている。細胞老化は不可逆だと長年思われているので、ここ数年、老化細胞を殺して除去しようというのが、老化治療薬の指針として検討されるようになってきた。老化細胞を殺して、老化を治療する薬をsenolytic(多分、まだ定まった訳語はないけど、、検索すると、老化細胞除去薬などと訳されていた)と総称するらしい。senolyticの候補は、既に、いくつか挙がっているようだけど、まだ十分調べつくされてる感じでもないので、数年は盛り上がって、やっぱりダメだったとなるのかもしれない

#老化細胞を除去するだけでは、明らかに必要な細胞が不足する。幹細胞は、長期間に渡って、増殖を停止した静止状態を維持できるらしい(幹細胞はしばしば低酸素環境に集まるらしく、造血幹細胞などでは、低酸素状態と低酸素応答因子が、この維持に必須らしい)けど、不足した細胞を補うために、分化・増殖を行うことは必要となるはず。こうして、幹細胞も分裂寿命や細胞老化と無縁ではいられなくなり、やがては枯渇すると考えられる。115歳まで生きたヘンドリック・ヴァン・アンデル・シッパーという人の白血球は、死の直前の調査で、僅か2つの造血幹細胞に由来していたという話がある。一部の老化症状は、幹細胞の枯渇によって引き起こされる(造血幹細胞の枯渇による貧血、色素幹細胞の不足による白髪、表皮幹細胞の枯渇による皮膚の菲薄化など)ようなので、senolyticが老化関連疾患の予防に有用であるとしても、老化の克服には不十分じゃないかと思う。


細胞老化が不可逆というのは、証明されている事実というよりは、生物系でよくあるように、単に反例が見つかってないというだけのことで、本当かどうかは分からない。最近、大分前にニュースで見かけた2017年10月の論文を思い出して読んだら、ある種の老化細胞を回復させることができるらしきことが書いてあった

Small molecule modulation of splicing factor expression is associated with rescue from cellular senescence
https://bmccellbiol.biomedcentral.com/articles/10.1186/s12860-017-0147-7

論文の内容は、ヒト線維芽細胞を継代培養して、増殖が十分遅くなるまで待つ(論文では、0.5PD/weekと書かれている。PDはpopulation doublingsの略)と、1960年代にヘイフリックが発見した通り、細胞増殖が遅くなり、やがて停止する。これが、現在、細胞老化と呼ばれているプロセスの発見で、今ではテロメア長が、この限界を決めていると考えられている。で、この老化細胞たちをレスベラトロールに晒すと、細胞増殖が再開するらしい。レスベラトロール・アナログ(resveralogues)を使っているのは、以前から、Sirt1を過剰
発現すると、テロメラーゼが活性化するという報告がされていたらしいけど、今回のはSirt1を介した作用ではないよ、と言いたかったらしい(レスベラトロールの側鎖の違いによって、Sirt1活性化作用は大きく変化するらしい)。


スプライシング因子がどうたら言ってるのは、このグループの最近のテーマっぽくて、冒頭から"Altered expression of mRNA splicing factors (...) is thought to be an ageing mechanism."と書いてあったりするけど、本当かよという感じではある。調べた限り、スプライシング因子が老化に対して重要であるという報告はそんなに多くない。一般的に、増殖が再開すれば、転写やタンパク合成も活発化すると思われるので、スプライシング因子の発現増加は、単に、老化から回復した結果と思っても、特に矛盾はない気がする。

一応、他のグループによるらしい研究として、2017年1月に出ていた

Splicing factor 1 modulates dietary restriction and TORC1 pathway longevity in C. elegans.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27919065

などがある。これは線虫の論文。


レスベラトロールについて。10年位前は、カロリー制限を模倣しようという発想に基づく老化治療薬の探索が流行って、レスベラトロールはその筆頭候補みたいな扱いで、Sirt1は主要なターゲット遺伝子の一つとみなされていた。そういうわけで、レスベラトロールを投与した時の効果というのも、色々と調べられてはいる。2006年のNatureの論文で、高脂肪食を与えたマウスでは寿命が縮むが、レスベラトロールを同時に投与すると、寿命と健康が元の水準まで回復するという論文が出ているけど、通常食のマウスにレスベラトロールを与えても寿命や健康がより改善するとは言ってない点で微妙(そもそも、通常食+レスベラトロールのデータを何故取ってないのかは理解不能)。
Resveratrol improves health and survival of mice on a high-calorie diet
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17086191

また、ハエや線虫や酵母で、Sirt1類似遺伝子の過剰発現で寿命が延長するという報告は実験ミスだという論文が2011年に出て、レスベラトロールの作用はSirt1を介したものがメインと考えられていたので、レスベラトロールに対する信用も大分失われた
Absence of effects of Sir2 overexpression on lifespan in C. elegans and Drosophila
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21938067

そんなこんなで、レスベラトロールの作用についても、はっきりしない。一応、酵母、線虫、ハエあたりでのレスベラトロールによる寿命延長効果は、まだ否定されてないと思うので、レスベラトロール・アナログで効果の違いを見れば、寿命延長効果があるのであれば、Sirt1依存性を測れそうなものだけど、どうなんだろうか

レスベラトロールに細胞老化回復作用があるとしても、ヒトに対するレスベラトロールの効果について、否定的な報告もある。単に効果が弱いのか、培養細胞にしか効果がないのか、ヘイフリック限界以外の要因(ストレス老化)で細胞老化を起こした場合には効かないのか、老化細胞の蓄積が個体老化の主要な要因ではないのかetc...あるいは、細胞老化回復作用自体がfakeなのか

まず、濃度チェック。論文では、レスベラトロール・アナログを10,50,100μMの3条件で実験したとある。人体の血液5L中に、同濃度でレスベラトロールが存在する場合、50,250,500μmolで、分子量は、228.25 g/molらしいので、それぞれ、11.5mg,57mg,114mgに相当する。経口摂取で、どのくらい吸収されるかは知らないけど、とりあえず、10~100mgを摂取量の目安とする。赤ワインに含まれるレスベラトロールは、1~10mg/Lらしいので、普通に摂取しても該当量のレスベラトロールを得ることは難しく、レスベラトロール豊富な食事を摂取していた人を追跡調査して、特に有意な健康増進・寿命延長効果が見られなかったとしても、単に量が少なすぎただけかもしれない。100mg/dayのレスベラトロール摂取は、通常の食事では不可能なレベルと思われるけど、そのような人々を長期追跡した研究があるのかは不明(数週間〜数カ月に渡る投与を行った疫学的調査は存在し、投与量は、数十mg~数百mgのものが多いようである)

マウスにレスベラトロール食を与えた2006年の論文を見ると、食事は、通常食、高カロリー食、"HC diet with the addition of 0.04% resveratrol"の3パターンでデータを取っている。Supplemental dataのFood intakeを見ると、大体、15~20g/weekになっているので、レスベラトロール投与量は6~8mg/week、あるいは1mg/day程度になる。マウスの体重は、50g程度らしいので、単純に体重比で比べると、ヒトで1000mg/day相当という量に相当する(体重1kgあたり20mg/day)。レスベラトロールの過剰摂取による毒性がないかどうかは気になるところではあるけど、量が少なすぎるという心配はなさそうに思える。高カロリー食+レスベラトロールでは、寿命は、通常食のものに戻ったに過ぎない。何故そこで打ち止めなのか、答えは、よく分からないけど、細胞老化を起こす原因も何種類かあって、レスベラトロールは、一部のものにしか効果がないのかもしれない

#以下のページに記載されているところによれば、"Sprague-Dawley系ラットに,レスベラトロールとして20 mg/kg/day の用量で28日間の反復投与を行った結果,生化学的パラメータに異常がみられなかったこと,試験終了後に行った剖検において臓器の肉眼的異常は認められなかったこと"が報告されているらしい
http://www.oryza.co.jp/product/detail/resveratrol_igai


細胞老化には、ヘイフリック限界によるものとは別に、テロメア依存ではないもの(ストレス老化)も存在し、DNA損傷などによる癌化の防御機構として働いていると考えられている。レスベラトロールが、ストレス老化で生じた老化細胞には効果がないという可能性は否定はできない。素朴に考えれば、ヘイフリック限界に達した場合は、単にテロメア長が足りないだけだけど、ストレス老化の場合、DNA損傷などのせいで、安直に増殖を再開すると癌化するかもしれない。

一方、癌とは関係ない"ストレス老化"もあるかもしれない。多分、今の所、酵母のみじゃないかと思うけど、細胞膜損傷が細胞老化を誘導すると報告している人もいる。
KAKEN:細胞膜損傷による細胞老化誘導の分子基盤解明
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15K19012/
この人は、パルス幅3ns,波長440nmのパルスレーザーで孔を開けているらしい。細胞膜穿孔の手段としてはポピュラーなようだけど、自然界で通常起こっている過程と同一というわけではないので、大丈夫なんだろうか(生体内での細胞膜損傷の原因は、ある種の細菌が産生する毒素や、強い機械的ストレスによるものなどがある)。マウスでは、組織レベルの創傷治癒時に、老化細胞が出現すると報告されていて、senolyticによって創傷治癒が遅れるらしい。

#IGF-1には創傷治療促進作用と同時に、老化促進作用があり、アスピリンには抗老化作用があると考えられる一方創傷治癒遅延を引き起こす。IGF-1は細胞増殖を促進しアスピリンは、抗炎症血作用や血液凝固を阻害する作用があるので創傷への影響は当然のようにも思えるけど、老化に対しても、同じように作用するのは示唆的ではある

DNA損傷を伴わない細胞老化は、回復しても問題なさそうに思えるけど、ある種の老化細胞は、可逆的かもしれないという話は、以前からあるらしい。

老化研究事起こし――老化細胞は高齢者の臓器に実際あるのか?
http://www.jsbmg.jp/products/pdf/BG35-1/35-1_37-39.pdf

には「p53とp16の両方の亢進が関わる分裂停止は不可逆的であるが、p53単独が関わる分裂停止は、可逆的だ」と指摘する人もいると書いている。

Reversal of human cellular senescence: roles of the p53 and p16 pathways
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12912919

は、2003年の論文だけど、Abstractによれば、テロメアの機能異常による細胞老化は、可逆であり、主にp53によって維持されているが、p16も、無制限の成長に対する第二のバリアーとして働くと書いている。

#ほくろ(母斑細胞)も、老化細胞の一種であるという報告があるので、これも、ストレス老化とは別の理由で生じる細胞老化なのかもしれない
BRAFE600-associated senescence-like cell cycle arrest of human naevi.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/16079850

で、楽観的に考えると、テロメア長依存的な細胞老化は、たいした問題じゃなくて、ストレス老化による細胞老化の方が、どうしようもなく、タチが悪いということなのかもしれない。

初期の"電気技術"史

大体、20世紀初頭くらいまでの話

電磁気学の歴史については、Whittakerの
A history of the theories of aether and electricity
https://archive.org/details/historyoftheorie00whitrich
という本を読むことになっているらしい(私は読んでないけど)。既に著作権が切れているので、検索すれば、PDFが見つかる。初版は1910年で古いけど、現代的な電磁気学の理解が完成した直後に書かれた本であるとも言える。これは"科学史"の本なので、技術の話は殆ど出てこない。

Web上で見つかる限りは、一次文献を参照したいと思ったけど、英語(と日本語)以外の文献は(検索するための語彙が足りなすぎて)漏れてるし、そもそも、技術者は論文とか書いてない人も多い


[1] 電気治療器と電気生理
時代背景。18世紀ヨーロッパ医学では瀉血や水銀療法が治療に用いられ、解剖学は進んでたものの、輸血の技術はなく、消毒の必要性も理解されておらず、アラビア医学に存在したはず(※)の麻酔の知識・技術も失われていたので、可能な外科手術は限定的で、ショック死や出血多量の危険がつきまとい、成功しても感染症で死ぬ可能性も高かったと伝えられている。例えば、イギリスの医者John Hunterは、伝記"The Knife Man"によれば、1776年に死の間際のDavid Humeを診察して、肝臓に腫瘍があると診断したが、当時は開腹手術などできず、打つ手がなかったらしい。

※)以下の文献には、西暦1000年前後のアラビアで、ヒヨス(朝鮮朝顔/曼陀羅華の近縁種らしい)を主成分とした(?)全身麻酔の技術が確立していたとある。全身麻酔自体は、古代ギリシャ(アスクレピオス)や古代中国(華佗。『三國志』に開腹手術の記載があるらしい)にもあったという話もある。外傷に対するアルコール消毒の知識(大抵は、ただの酒を使う)は世界各地で古くから存在するので、ヨーロッパでも民間療法としては行われていたかもしれないが、当時のヨーロッパでは、手術時の衛生管理の必要性は理解されていなかった(アラビアではどうだったのか分からない)。近代の西洋医学で消毒と衛生管理の必要性が広く浸透するのは、微生物学や細菌学ができて、理屈が分かってからになる
歯科医学発祥地アラビア医学を検証する
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jacd1999/25/1-2/25_1-2_255/_article/-char/ja



18〜19世紀の欧米では"電気ショック療法"が流行ったとされる。電気ショック療法はかなり古くからあったようで、以下の文献には『ローマ帝国時代の紀元前2世紀にMarcellus de Sidaという医師が,シビレエイに感電した後で,痛みがなくなった患者を経験して,電気発生魚に感電させる痛み治療法を開発したと伝えられている.一方,ギリシャ時代にもこのような電気治療が行われていたようで,Perdikisの論文にも当時の治療風景を想像した絵が掲載されている』と書かれている

電気刺激による痛みの治療
http://medicalfinder.jp/doi/abs/10.11477/mf.1552106355

電気を使った鎮痛は、現在、経皮的電気神経刺激(transcutaneous electrical nerve stimulation,TENS)と呼ばれているものの先駆とも考えられる。

18世紀以降の電気治療が、古代の電気魚によるものを継承したのか、独立に再発見されたものかは分からない。電気魚が電気を発しているという事実は、1772年頃、イギリスのJohn Walshが実証したことらしい(1773年に、John Hunterが出版した"Anatomical Observations on the Torpedo"に、Walshの実験への言及がある)けど、この頃には、ライデン瓶を使った電気治療は、広く知られていた。1772年よりずっと以前から、電気魚が電気を発していると推測されていた可能性もあるけど定かではない。

18世紀以降の電気治療は、1743年頃、ドイツのJohann Gottlob Krugerが始めたと書かれていることもあるが、これも定かではない。まだライデン瓶がなかったので、17世紀に、ドイツのOtto von Guerickeが開発した摩擦起電機を使用したと思われる。1746年頃にライデン瓶が開発されて程なく、ライデン瓶を使った電気治療は流行したらしい。電気治療は、当時の学術界で、真面目に議論され(電気の研究で功績をあげていたイギリスの医師William Watsonも、この分野で実験をしている)、鎮痛以外の効能も期待・検討されたようである

参考)Therapeutic Attractions: Early Applications of Electricity to the Art of Healing
https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-0-387-70967-3_20


日本では、18世紀に、オランダから西洋の知識・機器が輸入されるようになった。医学分野では、解剖学や水銀療法の他に、電気治療器も含まれていて、これは当時エレキテルと呼ばれた。エレキテルは摩擦起電機を指す呼称でもあったようだけど、当時は、用途が他になかったせいか、電気治療器と同一視されていたよう。後藤梨春という人は1765年の著書で、エレキテルを「諸痛のある病人の痛所より火をとる器なり」と紹介した。杉田玄白らによる解体新書の刊行が1774年、平賀源内がエレキテルを修理したのが1776年らしい。1811年頃書かれた「阿蘭陀始制ヱレキテル究理原」という書籍には、"「ボイス」には卒中及中風を治るとあり「ウウヘンスコヲル」には發赫子にて瘧を截す事を載たり其他眼病黴等にも用ふる事あり"(※)と期待される効能が記述されている。これらは、1760年前後に、イギリスで出版された百科事典(のオランダ語訳)に基づくよう

※)単語が分からなすぎるけど、卒中=脳卒中?、中風=部分麻痺?、瘧=マラリア?、眼病黴は、眼梅毒?(1775年頃から梅毒の水銀治療が行われたらしいけど、それとは別に視覚障害の治療という意味だろうか) 發赫子は何のことだろう。「ボイス」は、イギリスのA New and Complete Dictionary of Arts and Sciences(1754〜1763,著者は不明?William Owenはpublisherだと思われるが)を、Egbert Buysという人がオランダ語に訳したNieuw en volkomen woordenboek van kunsten en wetenschappen(1769〜1778年に刊行)を指していると思われる。「ウウヘンスコヲル」(oefenschoole)は、Algemeene oefenschoole van konsten en wetenschappen(Pieter Meijer,1763〜82)という本のことのようで、これもイギリスのBenjamin Martinという人が書いた本のオランダ語訳だったようである(?)

【21世紀の電気治療】鎮痛を目的とした電気治療は21世紀の日本でも残っているよう(原理が曖昧なので、何を以って当時のものと同じと判定するか難しいけど)。例えば、リウマチの電気治療は、18世紀にはヨーロッパで行われていて、21世紀の日本でもごく一部では行われているらしい(要出典)。現在の医療では鎮痛は薬に頼るのが一般的だろうから、代替医療という扱いだと思う。鎮痛薬が使われる前の日本では、鎮痛目的に鍼灸療法などが行われていたらしいけど、18世紀ヨーロッパの場合、代表的な鎮痛剤が阿片(リウマチの鎮痛のために阿片中毒になる人もいたらしい)で、他の選択肢は水銀療法や瀉血だったので、電気治療に効果がなかったとしても、最も無害な方法ではあった


ベンジャミン・フランクリンも電気治療に関心を持った。以下の文献には"Medical uses of electricity were much discussed during Franklin's lifetime. It was known, from early in the eighteenth century, that an electrical shock could cause involuntarily twitching and contraction of muscles. Many people thus hoped that 'electrical fire' would provide a cure for paralysis."という記述がある。

The Medical World of Benjamin Franklin
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1299336/

ベンジャミン・フランクリンは、実際に患者に試してみて、有効性はないという見解だったらしいけど、好意的に解釈するなら、現在の理学療法で行われている(らしい)筋電気刺激(Electrical Muscular Stimulation, EMS)の先駆と捉えられるかもしれない。


電気ショック療法ではないけど、イタリアでガルバーニがカエルの脚を痙攣させてたのと同時期の1774年、ロンドンのMr. Squiresなる人物が、2階の窓から転落して心停止状態にあった3歳の少女に、電気ショックを与えて蘇生させたことがあるという記述が残っている。電気的除細動を思わせる処置だけど、本当に除細動だったのかは分からない。除細動の仕組みを正確に理解してるわけではないけど、当時の普通のライデン瓶による電撃では除細動の成功率は低かったと推測され(現代でも小児の場合、通常より弱いエネルギーで行うらしいけど)、除細動器が一般に使われるようになるのは、1950年代以降のこととなる。

【ライデン瓶のエネルギー】ガラスの絶縁耐力を10MV/mとして、厚さを2mmとすると、電圧は最大で20kVとなる。一方、静電容量は(ガラス瓶の寸法から計算されるが、面倒なので文献値を使うと)典型的には2nF程度なので、蓄積される電荷は最大で40μCで、そうすると、電荷エネルギーは高々400mJ程度。現代の小児モードの除細動器では、エネルギーが50Jらしいので、1/100ほどのエネルギーでしかない。非常に大きなライデン瓶を用いるか、100個くらい並列で使用すれば十分なエネルギーを得られたかもしれないけど、そのようなことを行ったかは疑わしい。

【補足】Mr. Squiresの蘇生記録は、"Registers of the Royal Humane Society of London"なる文献に書かれているらしいけど、ネット上では見つけられなかった。1788年に出版されたCharles Kiteの"An essay on the recovery of the apparently dead"の165ページにそれらしき記述がある。この蘇生治療は、"The Knife Man"というJohn Hunterの伝記では、John Hunterがやったことになっているけど、1776年に出版されたJohn Hunterの"Proposals for the recovery of people apparently drowned"のコメントに、溺死した人の治療の最終手段として電気を試すべきかもしれない的な注釈がある以外に、それらしい出典を見つけることはできなかった
An essay on the recovery of the apparently dead
https://archive.org/details/b21510829

Proposals for the recovery of people apparently drowned
https://www.jstor.org/stable/106288?seq=1#page_scan_tab_contents

心肺蘇生法の歴史 第2章-18世紀以降の蘇生法
http://j-pulse.umin.jp/push3/articles/article-nonogi-07/chap-02.html


特に流行らなかったようだけど、19世紀初頭に考えられた電針術(Electroacupuncture)というのもある。これは、鍼灸と電気治療の融合みたいなもので、1825年、フランスのSarlandiereが初めて実践したとされる。鍼灸療法でも電気治療でも、しばしば鎮痛が目的となるので、電針術でも、効能としては鎮痛が想定されたようである。現在でも検索すれば論文が出ているようだけど、効果のほどは不明。鍼灸については、戦国時代に日本に来たイエズス会宣教師ルイス・フロイスなども報告しているけど、詳細な知識は、鎖国下の日本に滞在したオランダ人Willem ten Rhijne(1649〜1700)やドイツ人(?)Engelbert Kaempfer(1651~1716)などがヨーロッパに伝えたらしい
cf)フランスにおける鍼灸の発展史
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1981/55/1/55_1_77/_article/-char/ja/


【19世紀の電気治療への認識?】1851年に、アメリカ人医師兼宣教師のMacgowanが、中国で『博物通書』という本を書いた。この本は、日本にもすぐに輸入されて、electricityの訳語として「電気」を用いていたので、日本でも、電気という単語を使うようになったらしい。この本の内容をWeb上で確認することはできなかったけど、電気に関する記述が2/3を占め、その中には、電気治療器の記述もあるらしい。1700年代の中国に、電気治療器がなかったのかどうかは分からない。広東の富裕層は、電気治療を試したこともあったかもしれないけど


神経活動が電気によって担われている可能性は、18世紀にも推測されたけど、当時は計測技術がなかった。1820年に、Oerstedの報告(電流の磁気作用)を契機として、検流計が開発され、改良されていくと、神経の活動電位の存在は示せるようになったようである(Du Bois Reymondなどが、計測したのは、神経線維束の複合活動電位と思う)。19世紀半ば頃からは、現在まで残る電気生理学の研究が行われるようになっていった

電気生理学の草分け─Du Bois Reymond の実験─
https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2384&item_no=1&page_id=13&block_id=60

動物精気の実体はこうしてつきとめられた 4. 動物精気の実体
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hikakuseiriseika1990/14/2/14_2_151/_article/-char/ja

1875年頃、イギリスのRichard Catonは、犬や猿の頭蓋を開いて、電極を灰白質と頭蓋骨にそれぞれ置いて、電流計で電気活動を計測し、最初の脳波計測とされる。1887年、イギリスのAugustus Desiré Wallerは、体外から非侵襲的に、心臓の拍動に伴う電気信号を計測できると報告した。

A Demonstration on Man of Electromotive Changes accompanying the Heart's Beat
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1485094/

心臓の信号が生体の中では一番強いけど、それでも計測技術の精度が足りず、臨床で使える水準ではなかった。CatonやWallerが使っていたのは、毛細管電流計というものらしい。10年ちょっとのうちに、オランダのEinthovenは、高精度な電流計(弦電流計)を開発して、測定精度を向上させ、1924年ノーベル賞を受賞した。真空管もない頃で、最初は数トンもある巨大な装置だったらしい(※)。1911年に、心電計は初めて製品化されたらしいけど、これも数百kgあったよう。1920年代に、ドイツのHans Bergerは、弦電流計を使って、非侵襲的な脳波計測を行おうと試みたけど、難しかったようである。1930年代後半になると真空管式の持ち運び可能な心電計がSiemens社などから販売されたらしい。

総説 心電計渡来
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shinzo1969/22/4/22_361/_article/-char/ja/

※)EinthovenのNobel lectureによれば、弦電流計は、2Tの磁場を使っていたとある("A suitable electromagnet with a field of about 20,000 gauss can be constructed without special difficulty")。超伝導磁石がない頃なので、常伝導磁石を使っていたと思うのだけど、発熱が凄かったよう。現在のMRIでは、0.5~3Tの磁場を使うけど、常伝導磁石を使うことは、多分ない

EinthovenのNobel lecture)The string galvanometer and the measurement of the action currents of the heart
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1924/einthoven-lecture.html


まとめ。18世紀には、治療用途での電気利用が期待されたものの、20世紀には、殆ど姿を消した。一方、19世紀後半〜20世紀初頭にかけて、心電図や脳波計測など、診断用途での利用が期待されるようになり、やがて医療に不可欠の技術となった。また、20世紀中盤には除細動器が実用化され、やはり医療に不可欠の技術となった。他に、放射線医学も、電気工学と電子工学の産物であるといえる(※)

※)レントゲンのX線の論文の提出が1895年12月28日で、翌年のNature,Science誌に掲載されたらしい。1896年には腫瘍治療への利用が試みられたようである。また、レントゲン自身が、手の骨のレントゲン写真を撮ったりしているけど、1896年には、Edwin FrostとGilman Frostが地元の学生の骨折の診断にX線を用いたらしい



[2] 電気起爆装置と細線爆発
初期の電気の応用として数えられるものに、体系的に研究される類のテーマでないものの、起爆装置がある。電気式の点火プラグの先祖でもある。1745年、イギリスのWilliam Watsonが、摩擦起電機の放電火花を利用してGunpowderに着火できると報告している
Experiments and Observations, Tending to Illustrate the Nature and Properties of Electricity
https://books.google.co.jp/books?id=CTRWAAAAcAAJ
https://archive.org/details/experimentsobser00wats


Inventing detonators
http://www.standingwellback.com/home/2012/11/18/inventing-detonators.html

の年表によると、1812年、Pavel SchillingとSoemmeringは独立に(?)、離れた場所から、導火線経由で地雷(?)を起爆する仕組みの開発/改善に携わったようである。年表には、ベンジャミン・フランクリンやAlessandro Voltaの仕事も含まれていて、当時の電気の応用として、一般的に想定されるものの一つだったのじゃないかと思う。電気発火式の地雷が本格的に実用化したのがいつかは知らないけど、クリミア戦争(1853~1856)では、大いに使われたようである。

クリミア戦争は、また、機雷が本格的に使われた最初の戦争でもあるらしい。クリミア戦争で使われたJacobi mine(ヤコビ式機雷?)は、電池と導線で繋いだ爆発する仕掛けだったようである。Jacobi mineは、徐々にNobel mineに移行していったらしい(この"Nobel"はアルフレッド・ノーベルの父のこと。Nobel mineの仕組みは知らない)
Jacobi mine
https://en.wikipedia.org/wiki/Jacobi_mine

【後述】Pavel SchillingやSoemmeringは、電信の研究も行った技術者で、またJacobi mineの開発者のMoritz von Jacobiは1830年代に、モーターや電動ボートを開発した人でもある(Moritz von Jacobiは、数学者 Carl Gustav Jacob Jacobiの兄らしい)


細線爆発の方は、それほど広く使われている様子もないけど、起源は古い。1774年には、イギリスのEdward Nairneという人が、細線爆発を報告している
Electrical experiments by Mr. Edward Nairne, of London, mathematical instrument-maker, made with a machine of his own workmanship, a description of which is prefixed
http://rstl.royalsocietypublishing.org/content/64/79
64個のライデン瓶を使って、径が1/151インチ(文字が潰れて読みにくい。0.17mm弱?)の鉄線がどうたらいう記述が見える。"mathematical instrument-maker"という肩書は、なんか強そう


1857年に、ファラデーは、著書の中で、ライデン瓶を使って、金細線を短時間でJoule加熱して蒸発させ、急冷させることで、金微粒子が得られると報告しているらしい(以下で本は読めるけど、ちゃんと見ていない。401ページあたりの記述?)
Experimental researches in chemistry and physics
https://archive.org/details/experimentalrese00fararich
これは、光学顕微鏡しかなかった当時は視認できなかったようである。現在、粒径100nm以下の超微粒子を作成する気相法の最初の試みとして分類されている


細線爆発は、後に原子爆弾用の雷管にも利用されたようである
起爆電橋線型雷管
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B7%E7%88%86%E9%9B%BB%E6%A9%8B%E7%B7%9A%E5%9E%8B%E9%9B%B7%E7%AE%A1


[3] 通信への応用
A history of electric telegraphy, to the year 1837
https://www.princeton.edu/ssp/joseph-henry-project/telegraph/A_history_of_electric_telegraphy_to_the.pdf

という1884年に書かれた古い本が、電信の初期の歴史について、詳しく書いている。

電気を利用した通信というコンセプトは、18世紀には存在していて、1753年に"Scots Magazine"という雑誌で匿名の記者C.M.が書いた記事が存在するらしい。アルファベットごとに電線を用意して、一端を静電発電機につなぎ、もう一端で何らかの検電器を用意すれば通信できるみたいな感じだったらしい。当時、ライデン瓶が開発されて、William Watsonが数km先まで電気を伝える実験をしていたが、記者は、それを知らなかったようで、数十メートル(30〜40ヤード)が限界だろうみたいなことが書いてある。これが、実際に作られたかどうか、分からない。上の本によれば、その後、18世紀の間に、色々な人(Voltaも含まれる)の提案があったようである

18世紀には、遠距離通信技術は、原始的なもの(狼煙とか伝書鳩?)しか存在しなかったけど、1793年に考案された腕木通信なるものが、ヨーロッパでは広範囲で使用されて、電信機の競合となった。ナポレオンはフランス全土に腕木通信網を整備し、また、イギリスでは1816年に、腕木通信があるからという理由で、イギリスのFrancis Ronaldsという人の電信機は(政府に)却下されたらしい。Francis Ronaldsの電信機は、実用性はどうだったか分からないけど、静電起電機を電源として使用して、pith-ball検電器(1754年頃、イギリスのJohn Cantonが考えたとされる)を備えていたとされる。電線としては、長さ約13kmの鉄線を使ったとされている

腕木通信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%95%E6%9C%A8%E9%80%9A%E4%BF%A1

Sir Francis Ronalds and the Electric Telegraph
http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17581206.2015.1119481?src=recsys&journalCode=yhet20

【腕木通信と旗振り通信】腕木通信は望遠鏡を必要としたけど、日本にも1613年には、望遠鏡(当時のものは、倍率3倍程度だっただろうと思われる)が徳川家康に献上されていて、その後、米相場の伝達のために、腕木通信と似た旗振り信号というものが実用化していたらしい。旗振り信号も望遠鏡を使用していたらしく、いつ登場したか正確な時期は不明だけど、1745年には実用化していたらしい。それより早く(1688年頃?)番所間の連絡で手旗信号と望遠鏡を使って連絡を行っていたという話もある。望遠鏡の国内生産は、1720年頃には、長崎などで行われていたとされるが、不明な点が多いようである。
烽と旗振りと望遠鏡
https://annex.jsap.or.jp/photonics/kogaku/public/29-01-salon.pdf
また、電信が普及した後も、海上では電信が使えないので、無線通信が可能になるまで、海軍では手旗通信を使った連絡が行われていたそうである(検索した所、現在でも、自衛隊では手旗信号の訓練を行うらしい)。1805年に、トラファルガーの回線で、ネルソン提督が信号旗を送ったというエピソードが残っている。通常の視力検査で、視力2.0の人は、5mの距離から約0.75mmのランドルト環の切れ目が識別できる(最小視角が1/120度)という基準になっていて、旗振り通信で使う旗の大きさを1m四方程度とすると、視力2.0なら、裸眼でも、旗を6~7km先から見える計算になる(視力検査は片目ずつやるのが普通というのは置いておいて)。旗振り信号では、旗を振る方向を見ないといけないので、常人に視認可能な距離はもっと小さいかもしれない。何にせよ、距離が数十kmとなると、望遠鏡や双眼鏡は必須なので、これも「科学」技術には違いない


一方、ボルタの電池を電源とする案は、多分、多くの人が考えたとは思うけど、スペインのFrancisco Salvaが、1804年に"Second Report about Galvanism as applied to Telegraphy"(原文はスペイン語?っぽい)という報告で書いているらしい(この人は、1790年代にも、電信の研究を色々やっている)。この報告の中で、信号の検出として、(ボルタ電池で発生する水素ガスの)気泡を見ればいいと書いてあるとか(一次資料を読むことができないが)
Salvá's electric telegraph based on Volta's battery
http://ieeexplore.ieee.org/document/4668705/?reload=true

ドイツのSoemmeringは、この"電気化学式電信機"を開発し、1809年に実演したとされる。これは、Francisco Salvaの提案と同じものだったよう。Wikipediaの説明では『複数本の電線を使い(最大35本)、それぞれの電線がラテン文字や数字に対応している。電線は数キロの長さで、受信側では各電線の先端を酸を入れた別々の試験管に浸しておく。送信側ではメッセージの文字列に従って次々と対応する電線に電流を流す。すると受信側では電流の流れている試験管で電気分解が起きて水素の気泡が発生するので、それを順番に読み取ることでメッセージが得られる』という仕組みだったとある。


1820年にOerstedによる電流の磁気作用が報告されると、同年には検流計が開発され、フランスのAmpereは、1821年に検流計で信号を検出する電信を考えて試作もしたそうである。1820年代も、引き続き、色々な電信機の試作が行われたようであるけど、実用化には至っていない。長い間、多くの人がアルファベットの数だけ電線を用意していたが、1832年までに、ロシアのPavel Schillingは二進化すれば、5~6本で済むことに気付いたっぽい。Schilling自身は、1812年には機雷の遠隔起爆を開発(前述)し、1820年代のある時期から、電信の開発を継続的に行っていた人物

Shilling's Pionering Contribution to Practical Telegraphy
http://ieeexplore.ieee.org/document/5167773/?reload=true

1833年頃、ドイツのGaussとWeberは電信機を開発した。元々、地磁気の研究をしていた二人が地磁気計測のために、高精度な計測技術を必要とし、それを流用したというようなことらしい。『カール・アウグスト・フォン・シュタインハイルは1835年から1836年にかけて、ミュンヘンで電信機の設置を行い、1835年に開業された初めてのドイツでの鉄道沿いに電信用電線の敷設を行った』(Wikipedia)そう。このドイツの鉄道というのは、1835年12月7日に開通したバイエルン・ルートヴィヒ鉄道だろうと思われる(ドイツ最初の鉄道で、当初の全長は約8km)。GaussとWeberは、特に商用化はしなかったようだけど、おそらく世界で最初に実運用された電信機となった
電信#ガウスヴェーバー式電信機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E4%BF%A1#%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E5%BC%8F%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E6%A9%9F

イギリスでは、1837年に、WheatstoneとWilliam Fothergill Cookeが、電信機の特許を取得し、最初に商業化に成功した人として名前を残している。1837年7月の時点で、ロンドンのユーストンとカムデン・タウン間の約2.25km程度隔てた二地点で、通信が行われた。1838年には、グレート・ウェスタン鉄道沿いの約21kmに渡って、電信が敷設されたらしい。本格的な実用化に従い、伝送距離を長くすると、電流強度が弱くなるという問題は認識されていて、Wheatstoneは、(1840年頃)この問題を調べる中で、1826年頃発表されていたOhmの法則を"発見"し、Ohmの法則を有名にした。

Wheatstoneによる抵抗測定法と抵抗概念
http://ir.lib.ibaraki.ac.jp/handle/10109/10030

アメリカのJoseph Henryは、1835年に、継電器を開発していたけど、CookeとWheatstoneのシステムが、いつから継電器を使用したかは不明。

モールス信号で名前を残すことになったアメリカのSamuel Morseも、1830年代のある時期から電信機の開発を始めていて、アメリカで商用化した。


電信の普及には、絶縁銅線の大量生産や、ボルタの電池より長持ちする安定した電源が欠かせない。これらは電信に限らず、電気技術全般を支える柱でもあるが、1830年代には、新しい技術が開発された。裸銅線は、様々な機械的用途に、ずっと以前から用いられていたが、1837年までに、イギリスのWilliam Ettrickは絶縁銅線を製作する機械を開発した(本人の主張では、一時間で400フィート≒120m程度の被覆が可能だったらしい)。同じくイギリスのWilliam Thomas Henleyも、1837年までに銅線を絶縁被覆する機械を開発し、商業化した。
参考)The Early History of Insulated Copper Wire
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00033790110117476

また、1836年に、ボルタ電池より寿命の長いダニエル電池が開発され、商用電信機が一般的になる頃には、電源として、ダニエル電池が用いられたようである。

【補足】Gauss-Weber電信機が設置された時点では、まだダニエル電池がなかった。Wikipediaによれば『ガウスはボルタ電池ではなく電磁誘導の起電力を利用し、一分間に7文字の信号を伝送することが出来るようにした』とある。1832年にファラデーやフランスのPixiiが電磁誘導を利用した手回し式の発電機を開発していたので、それを知って用いたということらしい

【民間の通信事業社の電信利用】1835年に、フランスのアヴァス通信社が創業したが、当初は、伝書鳩や腕木通信を用いていて、電信の利用は1848年に始めたらしい。1849年にはヴォルフ電報局が創業し、社名の通り、電信を利用したらしい。ロイターも当初は伝書鳩などを利用していたらしいが、1851年に電信の利用を開始した


受信は、当初、機械で紙テープに印字したモールス符号を人間が文字に変換していたらしいが、その後、音響器が開発され、耳で聞いて変換することも行われるようになったそう。
Telegraph sounder
https://en.wikipedia.org/wiki/Telegraph_sounder

どういう住み分けがあったのか分からないけど、紙テープ方式も滅んだわけではなく、株価情報の受信に使われていたストック・ティッカー・マシンなる機械(この機械の実用的なものはエジソンが開発したとされる)は、紙テープに出力していて、1870年代から1970年代まで使われたとある
ティッカーシンボル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB


電信は、デジタル通信だったけど、"画像"や音声を送りたいと考えた人も、すぐに現れた
ファクシミリ#歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
には、1843年、Alexander Bainが、ファクミシミリの原型となる特許を取得したとある。実際に実用化されるのは、電話より後の19世紀終わり頃〜20世紀初頭らしい

電話の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
には、1844年に、Innocenzo Manzettiが「電話」のアイデアについて議論したとある。当時はまだ、音声を記録、再生する方法がなかったけど、よく知られた通り、約30年後には、電話も実現した


地上で電信が実用化すると海を越える方法が模索され、1840年代前半に、WheatstoneやMorseは、テムズ川やニューヨーク湾で実験したらしい。1850年には、ドーバー海峡間に世界初の海底ケーブルが敷設され(24マイル≒約40km)、その後、幾度かの失敗を経て、大西洋横断ケーブル(約2000マイル/3000km)も1866年に利用可能になった。

電気の世紀へ 第17回<発明の時代 ⑦瞬時の通信へ-海底電信はアメリカのイコンか>
http://www.ksplz.info/+museum/matsumoto2/matsumoto17.pdf

海底ケーブルの絶縁材料として、Gutta-Perchaとかいうマレーシア産の天然ゴムが当初使われたということがよく書いてある。これは、スコットランドの物理学者William Montgomerieが、1843年に王立協会に持ち込んだものらしい。これを海底ケーブルに使えないか、ファラデーも研究したという話が残っている。Werner von Siemensは1847年、Gutta-Perchaで被覆した絶縁ケーブルの作り方で特許を取ったらしい


1855年に、W. Thomsonは現在、電信方程式と呼ばれているものの特殊形を導出して、これは大西洋横断ケーブルの特性の解析に役立ったようである。大分後(1870~1880年代?)になって、一般の電信方程式を作ったのは、Heavisideとされる。Heavisideの電信方程式は、長距離伝送に於いて生じる波形歪みを説明できた。これは、モールス通信では符号間干渉として問題になりうる。また電話が普及してくると、デジタル化されてない当時(※1)は、波形の歪みはそのまま音声の歪みであり、大きな問題になったということらしい。この問題の改善策として、電信方程式に基づいて、装荷コイル(loading coil)を最初に提案したのはHeavisideだと言われている。20世紀初頭に、装荷コイルが使われると、地上に於ける電信の効率的に伝送可能な距離は、800マイルから1700マイルになった(それぞれ、1300kmと2700kmくらい)らしい(※2)(この距離を見ると、大西洋横断ケーブルは、かなり無謀だったのか?)

※1)世界最初のデジタル音声通話は、WW2中にアメリカで実現されたSIGSALYというシステムで、戦後も長い間軍事機密だったらしい。この計画には、Shannonも関わっていて、Shannonは、戦後に、標本化定理の証明を報告したりしている。原理的な面では、現在のデジタル音声通話と同じもので、コストや音質の問題をクリアして、デジタル音声通話が商用化されるまで、その後約50年ほどかかった。1993年頃から実用化された第2世代移動体通信システム(通称2G)がデジタル音声通信を採用していたとのこと
SIGSALY
https://ja.wikipedia.org/wiki/SIGSALY

※2)ベル・システムと独立電話会社の競争時代 : 1894-1906年 (橋本長四郎教授退任記念号)
https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1716&item_no=1&page_id=13&block_id=17

【補足1】 W. Thomsonの"電信方程式"の論文は、以下で読むことができる。
On the theory of the electric telegraph
http://rspl.royalsocietypublishing.org/content/7/382.full.pdf+html
論文を読むと、最初にL=G=0のケース(論文の式(3))が考察され、次に漏洩コンダクタンスGが0でないケースも考察されているようである(論文の式(15))。前者は、初期/境界条件の違いを除けば拡散方程式の形をしているが、後者も論文にある通り、変数変換で、拡散方程式に帰着させることができ、G=0の場合と扱いは変わらない。Lが0でない場合は考察されておらず、従って、電流/電圧の伝播速度は無限となる(補足2/補足3参照)。拡散方程式では、t=0に於ける各点での濃度分布が初期/境界条件として与えられるが、電信方程式では、x=0に於ける各時刻の電圧強度あるいは電流強度が与えられる。本来は、行って帰ってくるけど、無限に長い線路では、熱核と似た積分核を使って解を書ける。
cf)Heavisideの数学
https://www.jstage.jst.go.jp/article/emath1996/2003/Spring-Meeting/2003_Spring-Meeting_55/_article/-char/ja/

【補足2】 電線中の"電気の伝播速度"の測定は、1834年、Wheatstoneによって試みられたようである。測定精度は低かったけど、オーダーは合っていた
[Wheatstoneの論文] An Account of Some Experiments to Measure the Velocity of Electricity and the Duration of Electric Light
https://www.jstor.org/stable/108080?seq=1#page_scan_tab_contents

【補足3】 Kirchhoffは1857年に
on the motion of electricity in conductors(英語翻訳PDF)
http://freenrg.info/Scientific_Books/Kirchhoff_on_the_Motion_of_Electricity_in_Conductors.pdf
という論文を書き、終わりの方で、"Thomson has examined the motion of electricity in an underwater telegraph wire. He assumed, without checking the reliability of this assumption, that induction makes no significant contribution to the phenomena. For this case he showed the electricity propagates like heat."という指摘をしている。論文では、伝播速度は当時Weberの定数として知られていた測定量(の定数倍)で与えられると仮定し、wireの長さが1000kmあれば熱のように伝播すると考えて差し支えないと計算されている

大西洋横断ケーブルのスペックは
The 19th Century World Wide Web
http://julylectures.ph.unimelb.edu.au/julylectures/2004/jl2004-d.pdf
というスライドの18ページにある。C=0.2~0.3(μF/km)で、R=1(Ω/km)らしい。60Vの電圧が使われていた?1分間に185~240文字を送信することができたとある

以下のページには、1898年に開通したらしいFrench transatlantic cable(フランス・アメリカ間?)のスペックが書いてある
French Telegraph Cable of 1898
http://ethw.org/French_Telegraph_Cable_of_1898
を見ると、長さが3714miles(≒5975km)で、total resistanceとcapacityが5269ohmsと1500microfaradとあるので、C=0.25(μF/km)で、R=0.88(Ω/km)程度で、大西洋横断ケーブルとだいたい同じ


19世紀には多くの海底電信ケーブルが敷設されるが、そのまま、電話ケーブルとして使うわけにはいかなかったよう(どういう理由があったのか分からないけど)。世界初の海底電話ケーブルは1891年に英仏間で敷設されている。大西洋横断電話ケーブルは、コストに見合わなかったのか、大分難しかったのか、65年後の1956年に敷設されている。この時は、72kmおき(※)に52個の中継器を使っていたという話

※参考)長距離光ファイバー海底ケーブル方式
https://www.jstage.jst.go.jp/article/itej1978/38/5/38_5_417/_article/-char/ja/


【補足】 1891年の海底電話ケーブルについては、以下の文献によれば、当初フランス側からは既存の電信ケーブルを流用して電話するよう提案されたが、実験の結果、うまくいかなかった的なことが書いてある(?)(長いので、ちゃんと読んでない)
The First Cross-Channel Telephone Cable: The London-Paris Telephone Links of 1891
http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1179/tns.1974.009



[4] 電源について(電池、起電機と発電機、長距離送電)
16世紀頃、ヨーロッパでは、羅針盤の普及に伴って、磁石の研究が進み、一方、古代から知られる静電気にも関心が持たれた。イタリアのGerolamo Cardanoは、静電気と磁力が異なることを明言した初期の人物の一人として知られている。当時、太陽と惑星の間に磁力が働いているという推測もあった(ケプラーなど)らしく、静電気や磁力のような遠隔力を調べる動機の一つとなったらしい。

1663年頃、ドイツのOtto von Guerickeは摩擦起電機を開発し、初期の主要な電源となった。これは、その後も改良され、オランダのMartin van Marumが設計し、1784年に組み立てられた静電発電機は、330kVの電圧を発生させたとされる
Large electrostatic generator (Teylers)
https://en.wikipedia.org/wiki/Large_electrostatic_generator_(Teylers)

摩擦起電機は、最初の静電発電機として位置付けられ、その後も、静電発電機は開発されていたらしいけど、(初期の電気治療器を除けば)産業利用されることは稀なようである
静電発電機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E9%9B%BB%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%A9%9F


化学電池ではないけど、ボルタの電池の"次の電池"としては、1821年に報告されたゼーベック効果を利用した熱電池/熱電堆があった。オームが、オームの法則を実証する際(1826年前後)に、ボルタの電池では起電力が不安定でうまくいかなかったので、熱電池を利用したとされる。熱電池も産業利用されることは殆どなく、今でも、熱電発電は、限定的な用途でのみ使われる
Thermo-Electric Generators.
http://www.aqpl43.dsl.pipex.com/MUSEUM/POWER/thermoelectric/thermoelectric.htm


近代の化学電池の起源は、ボルタの電池にあるが、起電力が安定しておらず、多分、産業利用できるほどの実用性はなかった。1836年に、実用的な化学電池であるダニエル電池が開発された後、電池開発ラッシュがあり、1840年前後には、多くの電池が開発されている。1866年頃、フランスのGeorges Leclanchéは、その後、マンガン電池と呼ばれる(英語では、zinc-carbon batteryと呼ぶらしい)のと本質的に同じ化学反応を利用した電池を作成した。

マンガン電池の優れてる点が謎なのだけど、多分、マンガン電池では、正極で生じたアンモニア亜鉛イオンが錯イオンを形成して、亜鉛イオンが増加しないので、ダニエル電池より一層、安定した起電力を確保でき、長持ちするということで、広く使われるようになった(?)。1886年に、ドイツのCarl Gassnerが、Leclanchéの電池を改良して、ドイツやフランスなどで"乾電池"の特許を取得した(アメリカでは1887年)。電解液を石灰粉末などと混ぜてペースト状にすること(?)(semi-liquid formと書かれている)、及び、亜鉛缶を使用することが記述されてるようなので、その後の乾電池の基本構造は揃ってるっぽい。マンガン乾電池は、1890年代には製品化され、20世紀を通して生産されたけど、日本国内では、2010年以降は、ほぼ生産されていないっぽい?

[Gassnerの特許]GALVANIC BATTERY.
https://todayinsci.com/G/Gassner_Carl/GassnerPatent373064.htm

二次電池は、1859年に、フランスのGaston Plantéが、再充電可能な鉛蓄電池を考案した。


ファラデーが電磁誘導の法則を報告した次の年の1832年に、フランスのPixiiは、手回し式の発電機を作ったとされている。Pixiiは、交流を直流に変換するため、Ampereのアドバイスを受けて、整流子も作った。この装置は、1832年9月に公開された。イギリスでは、同じ1832年に、匿名の人物P.M.から、発電機を使って、水の電気分解に成功したという手紙がファラデーに届いたらしい。これは、同年のPhilosophical Magazineに掲載された。ファラデー自身は、"I cannot, from the description, decide whether the effect is really chemical: it may or may not be so."とか"I hope the author will describe the results in a more precise manner, ..."と書いている

Account of an experiment in which chemical decomposition has been effected by the induced magneto-electric current. By P.M.; preceded by a letter from Michael Faraday
https://books.google.co.jp/books?id=EDJDAQAAMAAJ&pg=PA161&lpg=PA161


その後、いくつかの発電機が作られてはいるものの、暫くは、出力も大きいわけでなく、脈動が大きかったりしたせい(?)か、それほど使われていないっぽい(?)。少ない試みの一つとして、1842年に、イギリスのWoolrichという人が、電池の代わりに発電機を使った電気めっきに関する特許を取得しているらしい
Woolrich Electrical Generator
https://en.wikipedia.org/wiki/Woolrich_Electrical_Generator

1852年頃、イギリスのFrederick Hale Holmesは、アーク灯の電源に使用するために、発電機の開発も行っている。これは、かなり巨大で、蒸気機関で駆動し、永久磁石を沢山使ったものだったらしい
直流から交流,さらに直流へ 技術探索
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1994/116/6/116_6_352/_article/-char/ja

1855年デンマーク人のSoren Hjorthという人が、イギリスで自励式発電機の特許を取っているという話があるけど、定かではない(British Patent #806 (1855) "An Improved Magneto-Electric Battery")。いずれにせよ、これは、特に影響はなかったよう。1866~67年ごろ、SiemensやWheatstoneが、独立に、電磁石を用いた自励式発電機が作られて、大出力の発電が可能になった(アメリカのMoses G. Farmerなども独立に開発したと言われている)。

【補足】SiemensもWheatstoneも1840年前後から"電気工学"界隈で活動していて実用志向のある人だったので、この二人を含む大多数が同時期に同じようなことをしているというのは、時流的に大出力の発電機が必要になったから、こういうものを考えたという方が自然に見えるけど、確かなことは分からない

発電機のその後のことは、略


送電の初期の用途は、専ら電灯への電力供給が想定されていたらしい。1879年に、アメリカのCharles Brushは、アーク灯の販売事業を開始すると共に、シカゴに世界初の中央発電所を作ったと言われる。1882年になると、白熱電球を完成させたエジソンも、ニューヨークのパールストリートに発電所を作り、9月4日に操業を開始した。この発電所は、送電距離1km以下だったらしい。同じく1882年の9月に、ミュンヘンでは、国際電気博覧会が開催され、フランスのMarcel Deprezが2kV、57kmの長距離直流送電のデモを行った。スイスのRene Thuryは、このアイデアを発展させ、1889年に、イタリアのAcquedotto de Ferrari-Galliera社が、Thuryの開発した方法で、電力供給を開始した。その後、Thuryの高圧直流送電システムは、イタリア以外に、スイス、フランス、イギリスなどに導入されたらしい

Realized Thury systems
https://en.wikipedia.org/wiki/Ren%C3%A9_Thury#Realized_Thury_systems

1880年代には、交流送電の研究を行っている人は、世界各地にいたと思われる。Siemens & Halske社は、1884〜85年頃、イタリアで、電灯のための交流送電システムの建設を行っている。1885年頃、アメリカのGeorge Westinghouseも交流送電の実験を開始し、William Stanleyらの協力を得て、1886年には、変圧器を備えた単相交流送電システムを完成させ、ウェスティングハウス社を興した。ドイツのDolivo Dobrowolskyは、1891年8月に、水力を動力として、三相交流発電機で発電した電力を昇圧して176km離れた万国電気博覧会の会場に送電し、三相交流電動機を動かすデモを行った。この時の送電効率は75%と言われている


以下の記事によると、(現代的な)直流送電は、1954年にスウェーデンで、海底送電が行われたのが最初らしい。サイリスタの開発は1957年(GE社)であるけども、日本では、1965年にサイリスタ変換装置試験所が設置されたとある

直流送電技術の変遷
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1994/119/1/119_1_32/_article/-char/ja/

Thuryの送電システム以後、直流送電が、どのように位置付けられてたのかは、よく分からない。1963年の以下の記事では「イギリスでは日本と同様、将来直流送電はその適用個所に多少の制限はあるが、じゅうぶん利用しうる価値のある新技術であることを認め、戦争末期からElectrical Research Association(ERA)が中心となって、直流模擬送電線(1,200V、10A)を建設する一方、...」とあるけど、1900〜1940年あたりのことは、触れられていない。

イギリスにおける直流送電
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/83/903/83_903_2013/_article/-char/ja/



[5] 電気化学と放電化学
時代背景。黎明期の化学工業としては、硫酸製造がある。明礬や緑礬を乾留して硫酸を得る方法が、西暦800年頃のアッバース朝で発見され、その後ヨーロッパでは錬金術の知識として継承されたらしい。その後、硫酸の製造法も進歩するが、ドイツ生まれのJohann Rudolf Glauberが(1651年?)記した硫酸の製造法を利用する工場が、17世紀の終わり〜18世紀初頭に、ヨーロッパで建造されたといわれる。この時代は記録がまだ少ないのか、真偽・詳細は不明。1746年、イギリスのJohn Roebuckによって始まる鉛室法は、複数の人々に改良されながら、硫酸の製造に寄与した。21世紀の現在でも、硫酸の生産量が、一国の化学産業の指標とされているらしい。

現在では、塩素、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)、ソーダ灰(炭酸ナトリウム)の製造は、ソーダ工業として、ひと括りにされることが多い(ソーダはナトリウム化合物を指し、塩素はナトリウム化合物ではないけど、塩は、最も代表的なナトリウム化合物なので)。ある意味では、紀元前まで遡る非常に古い産業の一つとも言える。

まず、1789年に、フランスのNicolas Leblancは、ルブラン法を確立し、1791年から工場でソーダ灰(炭酸ナトリウム)の製造を開始した。ルブラン法も、硫酸を必要とするので、硫酸需要の増大に貢献したらしい。また、イギリスのCharles Tennantは、1799年に漂白粉(次亜塩素酸カルシウム)の製造法を確立したようである。1774年に塩素が発見され、1785年に塩素の漂白作用も発見されたが、気体での利用は困難だったので、複数の人が、この困難を解消しようとしていた。Tennantは、1798年1月23日と1799年4月30日に特許(English patents 2209,2312)を取得しているらしいけど、内容は確認できなかった。Tennantは特許を取得すると、すぐに工場を作って生産を開始したらしい


電気化学の一つの起源として、1789年の、ライデン瓶を使った水の電気分解がある(Jan Rudolph DeimanとAdriaan Paets van Troostwijk)。1800年には、ボルタ電堆を使って、水の電気分解が行われた。

1800〜1810年頃までの間に、イギリスのHumphry Davyは、電気分解を利用して、ナトリウム、カリウムマグネシウム、カルシウム、ホウ素、バリウムストロンチウムなどを単離したと言われる。Davyが本当に、これら全てに成功していたかは疑問があるけど、ホウ素以外は、イオン化傾向が比較的高い金属に集中しており、現代的視点からは、電解法は安直な還元法であるとも言える。19世紀には、これ以後も、イオン化傾向の高い金属(リチウムなど)が、電気分解によって単離されたようである


電気化学は化学自体の発展には貢献したものの、19世紀前半は、使える電力が少なかったため、産業利用は19世紀後半になるまで進んでいない


最初の電気化学産業は、電気めっきらしい。メッキ技術自体は、非常に古くからあり、紀元前1500年頃のメソポタミアのものとされる錫メッキした鉄器が、おそらく最古の事例。奈良の大仏も当時は金メッキが施されたと言う。1800年頃、ドイツのJohann Wilhelm Ritterが電気めっきを研究したとも言われているが、詳細は不明。1802年に、イタリアのLuigi Valentino Brugnatelliは金の電着を報告したものの、イタリア以外では殆ど知られなかったようである。イギリスのJohn Wrightらは、1840年に、電気めっきに関する特許を取得し、1841年には、(John Wrightの協力者だった?)Elkington家がバーミングガムに電気めっきの工場を作った。Elkingtonが施したのは、主に銀めっきで、純銀製と間違えないように、EPNS(Electro Plated Nickel Silver)という刻印がされたらしい。銅・亜鉛・ニッケルの合金であるニッケルシルバーの表面だけ銀で被覆処理したものらしい。特に実用面で優れた点があったわけではなく、工芸品として価値があったよう。他の電気化学産業に比べて1840年代という時期は、例外的に早い

ジョージ・リチャーズ・エルキントン
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Richards_Elkington

Elkington & Co.
https://en.wikipedia.org/wiki/Elkington_%26_Co.

また、1860年代に、アメリカのIsaac Adamsは、防錆めっきとしてニッケルの利用を考え、電着法を採用したらしい。現在、防錆めっきとしては、亜鉛メッキやニッケルメッキが使われるようだけど、亜鉛メッキは、1742年に、フランスのPaul Jacques Malouinが始めたとされる。現在でも、ニッケルの用途は、90%がステンレス鋼、残りの10%がニッケルめっきらしい(昔は、ニクロム線需要もあったのじゃないかと思うけど、今は、電熱線としては、ニッケルを含まないカンタルという合金が利用されているらしい)。Adamsは、1869年に、複数の特許を取得している。
Improved mode of electroplating with nickel
https://patents.google.com/patent/US90332A/en

Improvement in the manufacture of the metallic parts of fire-arms
https://patents.google.com/patent/US98006A/en



1870年頃から、電解精錬が本格的に始まった。電解精錬所は、1869年、イギリスのJames Belleny Elkingtonが銅の電解精錬を行ったのが始まりとされている。
The Pembrey copper cathode
http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1179/1743285512Y.0000000012?journalCode=ympm20

The Elkington specimen of cathode copper
http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/03719553.2017.1376141?journalCode=ympm20


1880年代に入ると、イオン化傾向が大きい純金属の溶融塩電解による大規模生産が相次いで実用化した。これらは、20世紀初頭には、新しい合金を生み出す契機ともなったので、大きな意義を持っていたと思われる。1886年に提案されたアルミニウムの溶融塩電解法であるホール・エルー法は、1888年に提案されたバイヤー法と組み合わせることで、アルミニウムの製造コストと価格を大幅に引き下げた。1906年には、アルミニム、銅、マグネシウムetc.の合金であるジュラルミンが開発された。

アルミニウムで金属酸化物を還元するテルミット法は、1895年にドイツのHans Goldschmidtが特許を取得し、1898年に論文を出したらしい。当時は、これで炭素含有量の少ないクロムの生産が可能になったらしい。こうして、アルミニウムの安価な生産がクロムの安価な生産を可能にし、1900年代に入ると、鉄・クロム・ニッケルetc.の合金であるステンレス鋼(1904年〜)やニクロム線(1905年)の開発が行われた。


【ホール・エルー法以前のアルミニウム製造】アルミニウムは1825年に、エルステッドが塩化アルミニウムをカリウムで還元して得た。カリウムは、Davyが電気分解で少し前に得ていたが、工業的な生産法は、おそらく確立してなかった。1852年頃から、ドイツのRobert Bunsenは電気分解で様々な単体金属を得る実験を行っていて、その中に、アルミニウムも含まれていたらしいけど、工業的な生産法としては確立していない。1855年ごろ、フランスのHenri Devilleは、塩化アルミニウムをナトリウムで還元する方法で、アルミニウムの工業生産を開始し、1855年にパリの万国博覧会でも展示されたらしい。当時、単体ナトリウムは、炭酸ナトリウムを高温で分解することで製造していて、これもDevilleが開発した方法らしい

単体ナトリウムの溶融塩電解による製造法であるカストナー法は、1888年に始められた。当時の単体ナトリウムの用途は、アルミニウムの還元剤が主要なものであったらしいが、その後、別の用途も見出され、ナトリウムの商業生産は、ダウンズ法という別の溶融塩電解に移行した

Devilleは、マグネシウムの工業生産も、1857年に開始したらしい。塩化マグネシウムを金属ナトリウムで還元していたようなので、アルミニウムと同じ発想だったと見える。原理的には、Robert Bunsenが、1852年に塩化マグネシウム電気分解マグネシウムを得ていたけども、1882年に、ドイツで溶融塩電解による生産が開始したらしい

マグネシウム-その誕生とおいたち-
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfj1989/44/11/44_11_903/_article/-char/ja


1890年代には、食塩の電気分解による、塩素と水酸化ナトリウムの製造(電解ソーダ法)が始まった。原理的な面では19世紀初頭には知られていたものらしい。『電解法は、1800年クルイクシャン(Cruikshank)が、食塩溶液に電流を通じる時にアルカリ性溶液が生成することを発見した。その後、1801年シモン(Simon)が、陽極に異臭を発する漂白液が生成することを発見している。この方法で、初めて塩素、か性ソーダを工業化する計画を立てたのは、チャールズ・ワット(Charles Watt)で、1851年に英国の特許を取っている。しかし、当時は、電源が小さい電池のみであったため、とうてい工業化に成功する見込みはなかった』

ソーダ関連技術発展の系統化調査(7ページあたりから引用)
http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/029.pdf


1903年に開発されたBirkeland-Eyde法は、放電を利用した硝酸の製造法で、暫く使われたり改良されたりしたようであるけど、その後、硝酸製造のメインは、Ostwald法とハーバー・ボッシュ法の組み合わせに移行した。気体中の放電を利用した化学反応は、昔の日本では、特に放電化学と呼ばれていたこともあるらしいけど、その起源は、メインストリームの電気化学より古いといえる。プリーストリーやキャベンディッシュは、1780年代に、水素と酸素を電気火花で反応させたり、酸素と窒素を電気火花で合成したりする実験を行っている。

放電化学反応では、エネルギーの大部分が熱になるので、効率が悪く、工業的利用は多くないようである。放電化学の利用としては、1857年、Werner von Siemensが、放電によるオゾン発生機を開発している。21世紀の現在、上下水処理にオゾンが利用されており、オゾンの発生は、Siemensの頃と同じ方法で行われているらしい

有機電解合成は、1849年のKolbeの報告に起源があるとされるが、工業的利用は1960年代に始まるらしい


他に、化学とは少しずれるが、1807年に、ロシアの物理学者Ferdinand Friedrich von Reussが世界最初の"電気泳動"を行ったとされる。1930年頃、タンパク質の電気泳動が行われ、現在では、医学・生物系の研究に於いて、至る所で、電気泳動が行われている




[6] 照明への応用(白熱電灯、アーク灯)
時代背景。19世紀初期欧米の街灯は、(鯨油や菜種油などを燃料とする?)オイルランプなどが使われていて、石炭ガスを燃料としたガス灯が1792年に開発されていたが、普及には至っていなかった。ガス灯はあまり歓迎されなかったようであるが、オイルランプより明るく、夜の治安改善に寄与するということで、受け入れられたらしい。1812年に、イギリスで最初のガス会社が設立され、欧州各国でも1820年頃までにガス会社ができた
History of manufactured gas
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_manufactured_gas
とはいえ、とりわけ屋内などでは、その後も、かなりの間、鯨油ランプが使われていたようである。アメリカの鯨油生産量は、1820年を境に急激に増加し始め、1840年代後半ピークに達した。アメリカのピーク時の生産量は、1845〜49年の5年間で、8300kガロン程度≒31.5Mリットル(?)だったらしい(関係ないけど、アメリカの年間原油生産量は、1945年で232Gリットル、2016年に716Gリットル程度のよう)

cf)19世紀後半期アメリカ式捕鯨の衰退と産業革命
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/119/4/119_4_615/_article/-char/ja/

1846年に、カナダのAbraham Gesnerは石炭から灯油を抽出する方法を見出して、Kerosene Gaslight Companyを興した。また、1847年にスコットランドの化学者James Youngは石油を蒸留して灯油を抽出した。Gesnerは自身の抽出物をKeroseneと呼び、Youngは蒸留物の一つをparaffin oilと名付けたらしい(※)。1850年代には、鯨油ランプから灯油ランプへの移行が始まり、一方で、都市部では、ガス灯の一般家庭での利用も増加し始めていたので、灯油ランプとガス灯が競合することとなった。日本では、江戸時代末期に石油ランプが輸入され、インフラが必要なガス灯は、1872年、銀座で街灯照明として使用されたのが最初とされている。その後、一般家庭では、まず石油ランプが普及し、都市部では徐々にガス灯への移行が進み、しばらく電灯と競合したようである

※)paraffin oilの命名は、低温でparaffin wax(以前にドイツのReichenbachが精製していた)に似た物質に凝固するためらしい。化学的には、狭義のパラフィンは、炭素数20〜40のアルカンの総称らしく、常温で固体であるparaffin waxの主成分と思われる(炭素数4以上のアルカンは構造異性体を持つけど、分子量で分けただけで、それらの混合物ということだと思う)。灯油の英語訳は、アメリカではKerosene、イギリスではparaffin oilが使われるらしいけど、多分、Gesnerはアメリカに縁があり、Youngはイギリスに縁が深かったことが影響しているのだろうと思う。現在、ガソリンと軽油の質を規定するのに、オクタン価、セタン価というのがあり、それぞれ炭素数8のイソオクタン、炭素数16のヘキサデカンが基準となっている。灯油は、ガソリンと軽油の"中間"に位置し、以下のページでは、炭素数9〜18のアルカンを主成分としている。
アルカン (データ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3_(%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF)

【ライムライト】1826年にスコットランドのThomas Drummondが開発したライムライトというのもある。電灯が普及する以前、舞台照明に使われたらしい。ライムライトは、酸化カルシウムを高温(2400度以上)で熱すると発光する性質を利用している。酸化カルシウムを熱するのに、酸素・水素混合ガスを利用しており、このガスは、水の電気分解で生成していたらしいので、ある意味、ガス灯でもあり電灯でもある。
酸水素ガス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%B8%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E3%82%AC%E3%82%B9


初期の電灯は、アーク灯と白熱電球であり、どちらも19世紀初頭の報告に起源がある

1802年に、ロシアのVasily Vladimirovich Petrovが、アーク放電を報告したとされているが、すぐに忘れ去られてしまったらしい
Vasily Vladimirovich Petrov
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Vladimirovich_Petrov

V.V. Petrov's Hypothetical Experiment and Electrical Experiments of the 18th Century
https://rd.springer.com/chapter/10.1007%2F978-94-009-6957-5_13

1800〜1810年の間に、イギリスのデービー(Humphry Davy)も、二本の炭素電極間でのアーク放電をデモしたとされるが、Petrovの追試だったのか独自の実験だったのか分からない。また、デービーは同時期に、白金線に電流を流して白熱光が生じる(照明として使うには弱い光だったとか)のを実演したと言われている。これらの実験が、いつなされたのか正確な年度については、記述によって異なり、本当に行われたのかどうかも分からないけど、概ね1800〜1810年の間であることは一致している。実験が実際にあったとして、デービーが照明利用を念頭に置いていたかどうかも分からない
Incandescent light bulb#Early pre-commercial research
https://en.wikipedia.org/wiki/Incandescent_light_bulb#Early_pre-commercial_research

どっちのことか分からない(というか、両方?)けど、デービーの実験は、2000層のボルタ電堆という巨大な装置を使っていたと言われ、電力源の問題があり、すぐには実用化しなかった。V.V.Petrovも"around 4,200 copper and zinc discs"からなるボルタ電堆を使用したとの記述がある(銅と亜鉛合わせて、4200とすると、2100層ってことなのか、それとも、4200層あったのか不明)。ボルタの電池の起電力は、1.1Vなので、2000層あると、テストで出たら電圧は2200Vと書かないといけないとこではあるが、実際の電圧は、もっと低かったかもしれない。


白熱電球については、デービーの方法では、多くの課題があった(電源以外に、寿命が短いこと、白金フィラメントが高価であること)けど、アーク灯の主要な課題は、電源のみだったよう。1830年代以降、イギリスのWilliam Edwards Staiteが、アーク灯を研究し、特許も取り、1851年のロンドン万国博覧会では、アーク灯は注目を集めたにも関わらず、Staiteが注目を浴びることはなかったらしい(今の所、Wikipediaにすら、Staiteの項目はない)
William Edwards Staite
http://www.theiet.org/resources/library/archives/exhibition/arc/staite.cfm

1851年には、フランスのJules DuboscqとLeon Foucaultが、アーク灯を商用化し、1878年に日本に持ち込まれた最初のアーク灯も、この型のものであったらしい(この時、電源として、グローブ電池50個が使われたらしいので、大体、100Vで点灯していた模様)。1882年に銀座に設置されたアーク灯は、110Vの直流発電機を使用していたらしい。1882年11月4日の東京日日新聞に「室内に5馬力の蒸気を備え、電柱の高さ5丈 折ふし雨降り出せしは遺憾なりし」と載っているらしい

アーク灯の歴史と復元のための試作
http://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/research/2014/pb24_017-020.pdf


【細かい話】1882年の銀座のアーク灯は、2000燭光であったという記述が、検索すると沢山見られる(同様に検索すると、この当時のガス灯の明るさは16燭光が標準だったという記述が見られる)。出典は、1936年発行の『東京電燈開業五十年史』らしい(未確認)。ところで、銀座で点灯されたアーク灯は、アメリカのブラッシュ式(Charles F. Brushが創業した会社の商品)というものらしいが、
1880年代イギリスにおける電気普及の遅れと初期電灯企業
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/handle/10069/27940
には、『ブラッシュ・システムではアーク・ランプの明るさを1,000燭光にしてあった』との記述があって、数値が合ってない(単に特別製だったという可能性もあるが)。おそらく、これは1878年頃のスペック。一方、
日本国内に現存するブッラシュ式と呼ばれる2台のアーク灯について
http://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/33/BNMNS_E3301.pdf
には、『ブラッシュアーク灯は一般的に直流で使用し,電圧は50V前後を適当としている.千二百,二千燭光の二種類あり...』という部分がある。これは1900年に出版された本からの引用らしい。Brush Electric Companyは1889年に買収されており、この時以降にスペックが変わった可能性もある。また、
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20090318/1237342945
によれば、『渋沢栄一伝記資料』第13巻p.5-6に
"電灯の価値を知らしめるために、銀座通りの大倉組の前の街灯に千燭光であつたか二千燭光であつたか、兎も角非常に明るい弧光灯を点じて謂はゞ実物宣伝を試みたのである。それが丁度明治十六年頃の事である。"
という記述があるらしく、1000か2000か分からないとある。更に、19世紀終わり頃から20世紀初頭にかけて、日本各地で設置されたアーク灯が1200燭光だったという記述が、検索すると見つかる。少なくとも、ある時期からは1200と2000だったのかもしれない。ちょっと計算してみると、1燭光は、1cdらしく、アーク放電では、光は全方位に等しく放射されるだろうから、2000燭光は、全球の立体角4πをかけて、約25000lumenに相当することになる
Lighting efficiency
https://en.wikipedia.org/wiki/Luminous_efficacy
によれば、carbon arc lampの発光効率は、2〜7(lm/W)であると書いているので、最大の7lm/Wを採用すると、2000燭光の場合、駆動電力は、ざっくり3500Wという数値をえる。これは、5馬力に近い。しかし、7(lm/W)とか、どこまで信用できるか分からないし、結論としては、謎。関係ないけど、21世紀の現在、たまたま家にあったLED電球(一般電球60W形相当)のパッケージを見ると、全光束は810lumen、最大光度86cd、光の広がり約260度、消費電力7.5Wと書いてある


一方、白熱電球は、1870年代終わり頃商用化された。デービーの実験から70年以上かかったことになる。

実用的な白熱電球に必要だった要素技術として、真空技術がある。1643年に有名なトリチェリの真空の実験があり、1650年頃、ドイツのOtto von Guerickeが真空ポンプを開発して、1654年に、有名なマクデブルクの半球実験を行ったとされる。Guerickeが最初のポンプを開発した時期は諸説あるようだけど、文献として残ってるのは、1657年に刊行されたGaspar Schottの"Mechanica hydraulico-pneumatica"の記述が最古っぽい。イギリスのFrancis Hauksbeeは1705年頃、真空放電を観測したとされる。この時の真空度は、数十分の一気圧程度(?)だったそう。1836年にファラデーがファラデー暗部を観測したとされるので、この頃でも、よくて数百分の一気圧程度(100Pa~1000Pa)だったと思われる(?)。1855年頃、ドイツのHeinrich Geisslerは、水銀ポンプを作成して、10Pa(1万分の一気圧)の真空度を実現したとされる。Geisslerの水銀ポンプは改良され、1875年頃、Crookesは、100万分の一気圧(〜0.1Pa)を達成したとされる。GeisslerもCrookesも、減圧したガラス管に金属電極を設けて、放電や陰極線を観察した。彼らが使用した装置は、しばしばガイスラー管やクルックス管と呼ばれている。クルックス管は、1895年以降、初期の医療用X線源としても使われ、ブラウン管(1897年)も生み出した。百万分の一気圧≒0.1Paは、水銀の平衡蒸気圧で、Geisslerに始まる一連の水銀ポンプは、このへんが限界と思われる


イギリスのJoseph Swanは、1840年代後半には、白熱電球の研究に取り組んでいたとされ、1860年にはイギリスで特許を取得した。ただ、当時は、まだ真空度が低く、寿命が極めて短かったので商用化には至らなかった。必要な真空ポンプが利用できるようになった1870年代後半(クルックス管の実験を聞いて)再挑戦し、1878年12月には、40時間の寿命を達成したらしい
ジョゼフ・スワン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%B3

エジソンも1877年頃から白熱電球の研究を開始し、真空度をあげる必要性を理解したのち、『手動のポンプで真空度は0.003気圧であった』のが『1879年には百万分の一気圧を実現できた』(※)。エジソン白熱電球も、当初、寿命は40時間程度だったけど、様々な材料を検討して、炭化した竹をフィラメントに使った結果、数カ月後には、寿命600時間を達成したと伝えられている

※)電気の世紀へ<発明の時代 ②エジソン-照明:材料と純度の追及->
http://www.ksplz.info/+museum/matsumoto2/matsumoto06.pdf

【電球ガラスの製造】エジソン白熱電球に必要な球状ガラス管の製造は、コーニング社が行った。19世紀の時点では、製造が機械化されておらず、人手による生産であったらしい


白熱電球の商用化後も、より良いフィラメント素材の探求も行われた。白熱電球の可視光成分を増やし、効率をあげるには、更にフィラメント温度を上げる必要があるということは当時経験的に認識されていたらしい。炭素は融点は高いものの、数千度の高温域では蒸発速度も速いため、高融点かつ低蒸気圧の物質が求められた。高融点金属の加工には粉末冶金が用いられた。ガスマントルの開発者である、オーストリアのCarl Auer von Welsbachは、最初、ガスマントル用に、オスミウムワイヤの製造法を考案し、1898年には、これをオスミウムフィラメントへ転用した。これが最初の金属フィラメントとされる。その後、他の高融点金属も試される中で、タングステンフィラメントも試みられた。1908年頃から、タングステン電球が商用化されたよう。

タングステン電球の普及と東京電気の製品戦略
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj/48/2/48_2_27/_pdf
を見ると、『引線タングステン電球は,燭力が10~15%減退するまでの寿命が1000~1200時間,これに対し,炭素電球は燭力が20%減退するまでが300~400時間,断線までが800~1000時間,「取替を請求せらるゝ迄は使用して差支なき」寿命が600~700時間』という記述(多分、1910年頃の状況の記述)がある。

cf)延性タングステンの発明 William. D. Coolidgeの業績とその周辺
https://www.jstage.jst.go.jp/article/materia1994/40/4/40_4_390/_article/-char/ja

白熱電灯の歴史
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jieij1917/40/1/40_1_13/_article/-char/ja


【照度に関する捕捉】照度に関する用語は、色々あって、紛らわしい。まず、放射輝度(radiance)と放射照度(irradiance)が紛らわしい。前者は、単位面積あたりのエネルギー出力で、単位はW/m^2、後者は、単位面積・単位立体角あたりのエネルギー出力で、単位は、W/(m^2・sr)となっている。更に、各波長に置ける値として、分光放射輝度、分光放射照度が定義される。黒体輻射の場合のPlanckの法則で計算される量は、分光放射輝度である。黒体輻射では、Planckの式とLambert則に従って、特定方向へ輝度を射影して、半球で積分することで、ステファン・ボルツマンの法則で計算される放射発散度が得られる。単位は、W/m^2となる。

人間の目は、可視光以外は見えないし、可視光でも、波長ごとに感じる明るさが異なるため、分光視感効率という0.0~1.0の値を、分光放射輝度と掛け算して、全波長で積分し、最大視感効果度と呼ばれる定数683(lm/W)を掛けることで、照度と呼ばれる量を得る。単位は、lm/m^2となる。1ルクス=1(lm/m^2)である。人間にも、色盲や四色覚があるように、分光視感効率は、厳密には、個人差が存在するはずだけど、
平成四年通商産業省令第八十号『計量単位規則』別表第8
http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=404M50000400080&openerCode=1#97
に値が定められている。以上から、黒体輻射の発光効率(単位は、lm/W)を計算できる

下記のpythonコードで計算すると、
1673K: 0.29(lm/W)
2500K: 7.93(lm/W)
3000K: 20.58(lm/W)
3500K: 37.30(lm/W)
4000K: 54.55(lm/W)
7000K: 94.81(lm/W)
という値を得た。以下の表の"ideal black-body radiator"と、大きなずれはない。ロウソクの発光効率が、0.3lm/Wとあり、摂氏1400度に於ける黒体輻射の発光効率と近い。
Luminous_efficacy#Photopic_vision
https://en.wikipedia.org/wiki/Luminous_efficacy#Photopic_vision

import math

#-- returns radiance
def planck(lam , T):
  h = 6.62607004e-34
  c = 3.0e8
  k = 1.38064852e-23
  return (2*h*c*c)/((lam*1.0e-9)**5)*(1.0/(math.exp(h*c/(lam*k*T*1.0e-9)) - 1))

def blackbody_lux(T):
  Vs = [3.9e-06, 7e-06, 1.2e-05, 2.2e-05, 3.9e-05, 6.4e-05, 0.00012, 0.000217, 0.000396, 0.00064, 0.00121, 0.00218, 
        0.004, 0.0073, 0.0116, 0.01684, 0.023, 0.0298, 0.038, 0.048, 0.06, 0.0739, 0.09098, 0.1126, 0.139, 0.1693, 
        0.208, 0.2586, 0.323, 0.4073, 0.503, 0.6082, 0.71, 0.7932, 0.862, 0.9149, 0.954, 0.9803, 0.995, 1.0,
        0.995, 0.9786, 0.952, 0.9154, 0.87, 0.8163, 0.757, 0.6949, 0.631, 0.5668, 0.503, 0.4412, 0.381, 0.321,
        0.265, 0.217, 0.175, 0.1382, 0.107, 0.0816, 0.061, 0.04458, 0.032, 0.0232, 0.017, 0.01192, 0.00821, 0.00572,
        0.0041, 0.00293, 0.00209, 0.00148, 0.00105, 0.00074, 0.00052, 0.000361, 0.000249, 0.000172, 0.00012, 8.5e-05,
        6e-05, 4.2e-05, 3e-05, 2.1e-05, 1.5e-05, 1.1e-05, 7.5e-06, 5.3e-06, 3.7e-06, 2.6e-06, 1.8e-06, 1.3e-06, 9.1e-07, 
        6.4e-07, 4.5e-07]
  ret = 0.0
  for n,v in enumerate(Vs):
     ret += v*planck(360+n*5.0 , T)*5.0*1.0e-9
  return 683*ret

def blackbody_radiance(T):
    sigma = 5.670367e-8   #--stefan-boltzmann constant
    return (sigma/math.pi)*(T**4)


[7] 動力源としての応用
時代背景。18世紀以前の動力は、人力、馬、水車、風車などが使われていた。蒸気を利用して動作する機械というアイデアは多くの人が古くから考えたらしい。"一般的な蒸気機関の歴史"はThomas Newcomenの蒸気機関から始まるけど、17世紀には、ヨーロッパ各地で非常に多くの試みがあったようである。例えば、1606年に、スペインのJerónimo de Ayanz y Beaumontは、蒸気で駆動して、鉱山での排水を行う機械を開発し特許を取ったらしい。これが、どういう仕組みで、どの程度、有用なものだったのか、詳細は分からない。17世紀以前の他の例としては、ヘロンの蒸気機関(紀元前)、ロジャー・ベーコンによる蒸気船の記述(12世紀。製作はされてないはず)、フェルビーストの蒸気車(1665〜1680年?)などがある。

History of the steam engine
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_steam_engine

鉱山の排水を動機として発見された事実として、ポンプで汲み上げられる水の高さに上限があるというのもある。これは、その後、圧力の単位に名前を残しているトリチェリパスカルの実験(1643年と1646年と伝えられる)によって、気圧の存在確認と測定に繋がった。

1712年にThomas Newcomenが建造した蒸気機関は、イギリスでは、主に鉱山の排水用として使われ、1733年までに100台以上設置されたと伝えられている。とりわけ、石炭を運んでくる必要のない炭鉱での利用が多かったとされる(要出典)。非常に古くから存在するアイデアが、1700年代のイギリスで、漸く、実用化した理由について、明確な説明はない。Newcomen機関は、数年後には、フランスにも伝わったとされるが、フランスでは殆ど使用されなかったようである。

【補足】原理的には、蒸気機関の燃料は、薪や木炭でも良かったと思うけど、イギリスでは、森林面積の減少から、17世紀には、木材、木炭の価格が高騰していて、石炭の方が安くなっていたようである。この頃には、石炭が利用可能な場面では石炭を燃料として利用するようになっていたらしい。蒸気機関車の登場後、国や地域によっては、重油、灯油、薪、草などが燃料に使われたこともあるらしい。

とはいえ、18世紀のイギリスでも、動力の中心は、水車や風車が中心(※)で、その後、ワットによる多くの改良を経て、1776年頃、イギリスのWilkinsonは、蒸気機関で直に運転する溶鉱炉送風機を使い始めたとされる(それ以前は、水車)。また、1789年には、イギリスのマンチェスター蒸気機関を動力源とした紡績工場が稼働した。19世紀に入ると、蒸気機関は高圧化する方向へ進んだ。

※)18世紀のヨーロッパでは、Daniel BernoulliやEulerらによる理想流体の流体力学が始まっているが、水力機械の研究が動機としてあったらしい(ベルヌーイの定理ダランベールパラドックスなどは、この頃のもの)。理想流体の流体力学は、工学の現場では役に立たないということで使われることはなかったようで、工学的な水理学/水力学も、流体力学とは無関係に、実験的・経験的な分野として発展していたようである


蒸気機関交通機関への利用としては、1769年、フランスのNicolas-Joseph Cugnotが開発した蒸気三輪自動車が世界最初の自動車ということになっている。蒸気自動車は1820年代後半から、交通用途に利用されたらしく、馬車と同程度以上の速度(4km/h〜20km/h程度らしい)は出たらしい。蒸気自動車は、交通機関として劇的な発展はしなかったものの、農耕用トラクターに転用されていく。また、蒸気船は、 1783年、フランスのJouffroy d'Abbansが開発したものが最初らしい。1780年代には、他にも複数の人物が蒸気船の開発を行い、一定の成果を得ていたようである。1807年、アメリカのRobert Fultonは蒸気船による河川運送業を開始し初めて商業的に成功したと言われる。全鉄製の蒸気船は、1822年に、イギリスの技術者Aaron Manbyが初めて完成させたと言われている。

1823年に建造された蒸気船ダイアナ号は、翌年のイギリスとビルマの戦争で使用されたけど、残っている絵などを見ても、まだ船体は木製だったように見える。1839年には、鉄装甲を備えたイギリスの外洋艦ネメシス(全鉄製というわけではないよう)が完成し、1840年からのアヘン戦争に投入されたらしい。1853年のペリー来日時には、2隻の蒸気船が含まれており、これらは木造船だった。全鉄製の戦艦は、1860年に完成した、イギリスのHMSウォーリアとされる。

蒸気機関車は、イギリスのRichard Trevithickが1804年、初走行させた。しかし、当時のレールは強度が不足していて機関車の重量で破損することが多かったらしい。いくつかの技術的問題が解決された後、1825年には、イギリスで蒸気機関車を用いた鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通した。これは、炭鉱と港を繋いでおり、石炭輸送が主目的で旅客輸送は副業という想定だったらしい。また、最初の速度は、10km/hにも満たない程度だったらしい。また、アメリカでは1827年、フランスで1832年、ドイツで1835年に鉄道が開通した。このドイツで開通した鉄道では、Gauss-Weber電信機の電線の敷設が行われ、鉄道網に電信網が並走するというのは、その後も一般的だったらしい。その後、"鉄道時間"と呼ばれる鉄道ごとの標準時の時刻合わせに電信は利用されたらしい(鉄道時間の導入は、最も早いイギリスで1840年)

最初の電動機が開発されるのは、1830年頃であるけど、この頃には、蒸気機関は動力源として確立されていたと言える



1825年頃、イギリスのWilliam Sturgeonは電磁石を作って、1830年頃までに、アメリカのJoseph Henryは、より強力にする改良をしていた。1828年頃、ハンガリーのJedlik Ányosという人が、lightning-magnetic self-rotorsと名付けた機械を作り、実演もしたとされているが、本人の後年の証言以外の記録はないっぽい(?)

1831年には、Joseph Henryが電動機を報告した
A new understanding of the first electromagnetic machine:Joseph Henry's vibrating motor
http://aapt.scitation.org/doi/abs/10.1119/1.3531940

ON A RECIPROCATING MOTION PRODUCED BY MAGNETIC ATTRACTION AND REPULSION.
https://www.princeton.edu/ssp/joseph-henry-project/electric-motor/
には、現存する機械と共に、Henryの報告がある。回転運動ではなく、振動運動をする機械らしい。冒頭に"I have lately succeeded in producing motion in a little machine by a power, which, I believe, has never before been applied in mechanics—by magnetic attraction and repulsion."と書いているので、明確に"電動機"を作ろうと思って、成功しているよう。

1832年に、William Sturgeonが回転式のモーターを開発したとされている。この頃、電動機を開発していた人物は他にも複数いるらしいけど、1834年にMoritz Hermann von Jacobiが作成したモーターは15W程度の出力があったそうで、実用性のある最初のモーターと位置づけられている
Jacobi's first real electric motor of 1834
https://www.eti.kit.edu/english/1382.php

【補足】1830年以降、突然、電動機が沢山試作されているけど、理由は、よく分からない(強力な電磁石を目の当たりにして、何かに使えないかと考えたのがきっかけかもしれない)。しばしば、ファラデーが1821年に報告した実験装置をモーターの起源とする記述を見るけど、OerstedとAmpereの報告から予想された事実を証明するための装置で、実用性はなく、その後の電動機に直接的に影響を与えたということはないように見える

最初の電気自動車についての考察(PDF)
http://www.ei.u-tokai.ac.jp/morimoto/docs/%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AE%E9%9B%BB%E6%B0%97%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%80%83%E5%AF%9F.pdf

によれば、1830年代に電動式交通機関(自動車、機関車、三輪車etc.)の試作が行われている。アメリカのThomas Davenportは、1835年、「ボルタ電池を使った電車の模型を走らせた」らしい。1837年にモーターに関する特許も取った(US Patent 132,Improvement in propelling machinery by magnetism and electro-magnetism)。モーターを使った電動印刷機も作ったらしい

Moritz von Jacobiは、1839年にelectric motor boatを作成したとされる(14人の乗客を乗せて、時速約5kmであったとか)。比較としては、1838年4月にイギリスからアメリカへ大西洋横断を果たした蒸気船シリウス号が、320馬力(〜235kW)で、最高速力8.03ノット(〜時速15km)という時代。
Electric boat
https://en.wikipedia.org/wiki/Electric_boat



蒸気機関と電動機の比較は、1841年のJouleの報告がある。Wikipediaには、"Sometime around 1840, he started to investigate the feasibility of replacing the brewery's steam engines with the newly invented electric motor."(1840年頃、醸造所の蒸気機関を新しく発明された電気モーターに置き換られるか検討し始めた)とか書いてある。醸造所は、Jouleの家業。Jouleは、同じ1841年末には、Jouleの法則に関する論文を出し、1843年には、熱の仕事当量の測定を行っているけど、この卑近な問題が出発点だったのかもしれない。Jouleの報告は、On a new class of magnetic forcesという論文にある。論文の冒頭では、Joseph Henry、William Sturgeon、Jacobiらへの言及がある

Jouleの報告によれば、"the best Cornish steam-engine"は、石炭1ポンドあたり、150万ポンドの重量を1フット持ち上げることができた(石炭1kg当たり4483.6kJの仕事に相当)。石炭454gあたり2032kJの仕事をした計算で、石炭の燃焼熱を炭素の燃焼熱(394kJ/mol、約7850kcal/kg)で近似した場合、エネルギー効率は、13〜14%となる。石炭と一口に言っても、(無煙炭や瀝青炭など)種類によって、固定炭素の含有量が異なり、用いた石炭の種類までは記述がないけど、実際は、もう少し高効率だったはず。石炭の質は、産地で決まるようで、イギリスのウェールズなどは、質の良い石炭を産出する地域として知られている。現在、炭素含有量90%以上の場合、無煙炭と呼ばれ、80%以上の場合は、半無煙炭と分類される。使用したのが半無煙炭だったとしたら、エネルギー効率は、15〜17%程度だったという計算になる。

一方、Jouleが作成した電動機は、亜鉛1ポンドあたり、331400ポンドの重量を1フット持ち上げることができたと報告されている。亜鉛1ポンド(454g)あたり449kJの仕事をした計算。Jouleが実験に使ったのはグローブ電池らしいので、電圧1.9[V]で、また亜鉛1molあたりでは、電子2molが流れるから、ファラデー定数を96500[C/mol]として、366.7[kJ]の仕事をする。亜鉛の原子量は65.4なので、亜鉛1ポンド当たりでは、電池の最大仕事量は2546kJと計算され、17〜18%程度が、物を持ち上げるのに使われたことになる。

当時、重量あたりの値段では、亜鉛は、石炭の6〜70倍程度だったらしい(要出典)(亜鉛の製錬は、紀元前まで遡るとか言われてるけど、当時のヨーロッパでは、酸化亜鉛をコークスで還元するという、オーソドックスな方法で製造していたらしい)。2000年以降のデータでは、石炭の価格は、1トン当たり100USDで、亜鉛価格は、1トン当たり2000〜3000USDの水準にある。何にせよ、Jouleは、電池で亜鉛を消費するより、蒸気機関で同量の石炭を燃やす方が経済的であるという結論を得た。

Jouleの測定法は、誰が始めたか知らないけど、少なくとも、Smeatonによる測定まで遡る。Smeatonは、1ブッシェルの石炭がなす仕事をこの方法で測定して、蒸気機関の効率の指標としたらしい。この測定法で計測される仕事は、今はwater horsepowerと呼ばれることもあり、蒸気機関の主用途が揚水機だった時代には最も適切だったけど、試行錯誤には向かなそうに見える。ワットとその協力者たちは、圧力計を開発し、p-V線図(インジケーター線図)の作成を可能にした。p-V線図の閉曲線が囲む面積から、蒸気機関の1ストロークあたりの仕事を計算できるということは、18世紀の終わり頃には、知られていたらしい。p-V線図から計算される出力は、後にindicated horsepowerと呼ばれるようになった。indicated horsepowerは、エンジンの出力であるのに対して、water horsepowerは揚水機全体の出力なので、後者は前者より小さい


【Newcomen機関の出力】A Treatise on the Steam-engine: From the 7th Ed. of the Encyclopaedia Britannica
https://books.google.co.jp/books?id=koSrOwDxPjgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage

の84ページに、SmeatonによるNewcomen機関の測定結果として"The work of one bushel or 84 lbs. of coal was equal to 2,919,017 lbs. raised 1 foot high."という記述がある(一次文献は不明)。単純計算で、石炭1gあたりの仕事は、(2919017/0.453592)*9.8*0.3048/(84*1000/0.453592)=103.8[J]なので、石炭の燃焼熱を炭素の燃焼熱(394kJ/mol)で近似すると、熱効率は0.31%。おそらく、0.5%を大きく超えるようなことはないと思われる

Newcomen機関のindicated horsepowerを見積もってみる。シリンダーの体積を、V[m^3]として、1ストロークでする仕事は、体積変化は定圧条件で、圧力変化は定積条件で起きるとして、最大圧力(≒大気圧)と最小圧力(真空と書かれることも多いけど冷却後の蒸気圧)の差を100[kPa]とすれば、単純に100*V[kJ]となる。1800年代に作られたNewcomen機関の解析が以下の論文でなされている。p-V線図の形を見る限り、悪い計算ではなさそうけど、"真空"の圧力は、1/3気圧くらいはあるよう(70度の飽和蒸気圧くらい)
Thermodynamic Analysis of a Newcomen Steam Engine
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1179/1758120613Z.00000000024?journalCode=yhet20

それで、最初のNewcomen機関は、シリンダー直径53cm、シリンダーの長さが2.4mだったらしいので、V=0.55[m^3]くらい。最小シリンダー内圧を1/3気圧で大気圧を100[kPa]とすると、1ストローク当たりの仕事は、100*(1-1/3)*V=36[kJ]で、1ストローク5秒程度だったらしいから、7.2[kW]となる。従って、最初のNewcomen機関のindicated horpsepowerは10馬力程度だったと見積もられる。water horse powerは、5.5馬力程度だったらしい。上の論文では、water horsepowerはindicated horsepowerの6割前後になっていて、同程度の比率になってる

一応、Newcomen機関の効率の上限を試算する。1ストローク分の仕事をするのに、シリンダーの体積V[m^3]と等しい蒸気を発生させる必要がある。これは、100度・1気圧下に於いて、18*(1000*V)/(22.4*373/273)=588*V[g]の水に相当する。1気圧、100℃の水の蒸発熱は2257[kJ/kg]で、また、液体の水の比熱は、4.2[J/g]であるから、冷却した水を蒸気にするのに概算で2500[kJ/kg]程度の熱量が必要と試算される。以上の仮定の下で、1ストロークに必要な熱量は、1470*V[kJ]となる。最小シリンダー内圧を0にできたとしても、1ストロークでする仕事が、100*V[kJ]を超えないので、熱効率の上限は、10/147=6.8%となる。当然、投入した熱の一部しか、水を加熱するのに使われないので、実際の熱効率は、これより低い。



1859年に充電可能な鉛蓄電池が報告されると、『すぐに自動車に使うことが検討され』(※)た(どこで?)そうで、継続的に、実用化しようという動きがあったことが伺える。1897年に、ロンドンで電気タクシーが登場したらしいので、この頃、一応、電気自動車が実用化したといえるかもしれない。その後、『1912年には電気自動車がピークの時代を迎えた。米国では33,842台の電気自動車が登録されていた』(※)ものの、結局、内燃機関を使用する自動車の出現で、廃れてしまった(2018年には、ロンドンタクシーは、全部EVにするとか宣伝してた気がするけど)

※)「最初の電気自動車についての考察」から引用


1860年代〜70年代に発電機の性能が大きく向上し、1879年に、Siemens社がベルリン工業博覧会で、電気機関車を展示した。1881年にベルリン市電が世界初の路面電車を運行させたらしい。Davenportの試作から、約45年ほど経過している
ベルリン市電
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%B8%82%E9%9B%BB

日本では、1895年に、『京都市において京都電気鉄道が日本初の電車営業運転を開始した』。初期の路面電車は600V直流電源を用いていたようである
日本の電車史#路面電車
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%9B%BB%E8%BB%8A%E5%8F%B2#%E8%B7%AF%E9%9D%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A

鉄道建設の歴史年表
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#19.E4.B8.96.E7.B4.80.E5.BE.8C.E5.8D.8A

を見ると、1896年、ハンガリーで初の電化式地下鉄が開業し、同年、スイスでは、世界初の交流電化鉄道が開業とある。戦前の日本では、変電所が破壊されると列車が走れなくなるという陸軍の反対があって、蒸気機関車ディーゼル機関車も、長く生き残ったようである

【電車と電気機関車】今の日本では、電車が走っていて、電気機関車という言葉はあまり見ない。どちらも、電気を動力とする点は共通しているけど、1つか2つの車両にのみモーターがあって他の車両を牽引する(動力集中方式)場合を電気機関車と呼び、各車両にモーターがある(動力分散方式)場合を、電車と区別するらしい。電気で動いてたら、電車でいいじゃんと思わなくもないけど


1880年代になると、様々な"輸送機械"を電動式に置き換える試みが増える。例えば、1880年に、電気式のエレベータをSiemensが開発している(商用化したわけではないらしい?)。史上初の電動航空機は、1883年にGaston Tissandierが開発したものとされている(飛行機はまだないので飛行船)
ガストン・ティサンディエ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8

船舶。1884年には、電気推進式の潜水艦が作られたりしたよう
電気推進 (船舶)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%8E%A8%E9%80%B2_(%E8%88%B9%E8%88%B6)


また、1882年に、アメリカのSchuyler Wheelerが、電気扇風機の特許を取得し、1893年には、アメリカで電気扇風機が販売された



[8] 加熱・加工・溶接技術への応用
金属の鍛接(高温で圧力をかけて接合する)や、ろう付け(母材よりも融点の低い合金を溶かして接着)も広い意味では溶接として扱われるため、溶接自体は、紀元前まで遡る技術とも言われる。

1865年に、イギリスのHenry Wildeという人物が、電気溶接の特許を取得しているらしい。おそらく、以下の人と同一人物?
Henry Wilde (engineer)
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Wilde_(engineer)

1880年頃、フランスのAuguste de Méritensは、蓄電池の鉛板の接合を炭素ガスアーク溶接で行い、フランスで特許を取得したらしい。また、1881年、ロシア/ウクライナのNikolay Benardosも炭素ガスアーク溶接を開発したと言われる。Benardosは、1885年に、イギリスで特許を取得し、その後、数年の間に、各国で特許を取得したよう。

1907年に、スウェーデンのOscar Kjellbergが被覆アーク溶接の特許(Swedish Patent:27152)を取得して以降、アーク溶接は、本格的な普及を開始するようである。1930年頃には、造船や橋染工事でも利用されている。1939年頃に、ベルギーの溶接鉄橋が夜間に脆性破壊を起こして崩落したり、1939〜45年に生産されたアメリカのリバティ船の船体は溶接で作られ、夜間などに突然脆性破壊を起こすなどして、破壊力学の研究が本格的に注目される契機となった。


放電加工は、ずっと後の20世紀中盤以降に使われるようになったらしい

電解加工および放電加工の基礎と応用
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfj/55/8/55_8_529/_article/-char/ja/


1893年スコットランドAlan MacMastersという人は、トースターを考えたらしい。当初は、電熱線として、鉄線などを利用していたらしいけど、すぐに酸化するので、長期間の利用は難しかったよう。ニクロム線は、1905年にアメリカのAlbert Leroy Marshという人が考えたとされる。この頃は、丁度、ステンレス鋼の開発が行われた時期でもあるけど、それが関係しているのかどうかは分からない。ステンレスはニッケル、クロム、鉄を含む合金で、名前の通り(当時はまだステンレスとは呼ばれてなかったろうが)、錆びにくく、電気抵抗も、(ニクロム線よりは高いけど)鉄などの金属類と比較すると比較的高い方である。ニクロム線は、すぐにトースターに使用されるようになった。


[9] 無線通信
有線電信の普及以後、電磁波の送受信が可能になる以前から無線通信への期待はあった。多くの場合、水や大気や地面を伝導体として使おうという発想だったよう。初期の試みとして、アメリカのMahlon Loomisによるものがあり、特許取得は1872年であるけど、実験自体は、それ以前から繰り返していたっぽい。Loomisの実験については、情報が少なくて、よく分からないけど、以下の文献には"Whether Loomis' system utilized electromagnetic (Hertzian) waves, ... , or whether his system functioned totally on the basis of electrostatic conduction is unresolved."と書いてある。当人は、上層大気を介した電気伝導(?)のようなイメージだったようだけど、意図せず電波による無線通信を実現していた可能性もあるとか

The First Antenna and Wireless Telegraph, Personal Communications System (PCS), and PCS Symposium in Virginia
https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-1-4615-2758-9_20

また、1880年に、アメリカのGraham Bellは、光電話の実験に成功したとされる。この時は、可視光/太陽光を利用して、音声による鏡の振動で、光の強度を変調し、受信側では、光電変換素子としてセレン結晶を用いた(セレンの光起電力効果は、1873年に報告された。20世紀前半にはセレン光電池として使われたこともあるらしい)らしい。可視光なので、遮蔽物を通過できず天候に性能を左右されやすく、長距離伝送には向いてないとして、お蔵入りとなったよう。21世紀になって、(LEDを使った)光無線通信は近距離無線通信の手段として使われるようになりつつある(?)


1886〜88年にかけて、有名なHertzの実験が行われ、数本の論文が出版された。イギリスのMaxwellが、1865年の論文で、"General Equations of the Electromagnetic Field"を提案し、これらは、微妙に間違っていたけど、現在では"Maxwell方程式"と呼ばれている方程式をほぼ含んでいて、何とか、電磁波の波動方程式を導いた。Maxwellの理論を真剣に検討した人々によって、1880年代に、電磁波の生成・検出方法が提案され、結果的には、Hertzがdipole antennaを開発してMaxwellの理論を実証した最初の人とされる。また、イギリスのOliver Lodgeも、ほぼ同時期に実証実験をしている(実験の詳細は知らない)。

電磁気学確立期におけるマクスウェリアンの役割 : O.Lodgeの業績を中心として
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/96753

【電磁波の発見者たち】1880年以前にも、(当然、可視光は別として)電磁波の存在を実証できた可能性のある人は、複数いる。1842年のJoseph Henry,1875年のエジソン,1879年のDavid Edward Hughesなど(彼らが、具体的に、どういう実験をしていたのかは分からない)。エジソンは、新しい現象であると信じていたものの、電気的な現象でないと考え、"etheric force"と名付けたとあるし、Hughesも新しい現象だと思ったけど、Stokesらに否定されてしまって反論できなかったよう。
cf)Observations of Electromagnetic-Wave Radiation before Hertz
https://www.jstor.org/stable/227753


1890年代になってすぐに、"Hertz波"の応用も提案されている。1890年、Richard Threlfallは、可視光とのアナロジーで、不可視のシグナルを送ることもできるだろうと述べたらしい
Wireless: From Marconi's Black-box to the Audion
http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.691.8086&rep=rep1&type=pdf
の7〜8ページあたり。長距離伝送については特に触れておらず不可視であることに重点が置かれているように読める。Crookesは1892年に、"Some possibilities of electricity"という、電波による無線通信の可能性を示唆した短い記事を書いている(1892年2月1日付け)。こっちは、現代の長距離無線通信と近い認識であるように読める。

[Crookesの記事] Some possibilities of electricity
http://www.tfo.upm.es/ImperialismoWeb/ArtCrookes.htm



電波を利用した無線通信の最初の実演は、1893年、Teslaが行ったものとされている(具体的に何をしたのか、よく分からないけど)

Nikola Tesla's Contributions to Radio Developments
http://www.journal.ftn.kg.ac.rs/Vol_3-2/03-Marincic-Civric-Milovanovic.pdf

【補足】Teslaは1891年頃、(無線通信より先に?)無線送電の実験をしている。Teslaは、1889年パリを訪れた際に、Hertzの実験を知って、1890年には、Hertzの実験を再現したりしているが、Hertzの実験を、電磁波の実証とは考えていなかったらしい


Oliver Lodgeは、1894年に、Édouard Branlyが1890年に報告した現象を利用して、コヒーラ検波器を作り、モールス符号を送信する実験をして、1898年には、同調回路に関する特許も取得している(U.S. Patent 609154, "Electric Telegraphy")。また、1895年頃、Rutherfordは磁気検波器を開発し、実際に送受信の実験も行った。1902年に、マルコーニは、磁気検波器を改良し、使用したと言われている。
[Rutherfordの論文] A Magnetic Detector of Electrical Waves and Some of Its Applications
https://www.jstor.org/stable/90688?seq=1#page_scan_tab_contents

無線通信の軍事利用は各国考えてはいたようだけど、1904年の日露戦争で、日本海軍は、艦船に無線機を搭載したと言われている。「戦争の科学」という本によれば、それ以前の艦隊の連携手段は手旗信号であり、当時のロシア海軍も、主に手旗信号を用いていたそうである


マルコーニの成功以後、アマチュアの無線家や研究者が多く誕生したらしい。マルコーニは、最初の頃、無線通信で音声を送る必要はないと考えていたとされるが、音声無線通信を試みた人も当然いた。カナダのReginald Fessendenは、1900年に、ヘテロダイン方式を考案し、同年12月には、音声無線通信を成功させていたと言われる。

Reginald Aubrey Fessenden and Birth of Wireless Telephony
https://ieeexplore.ieee.org/document/1003633

1904年に、マルコーニの会社の顧問だった、イギリスのJohn Flemingは二極真空管を開発した。Flemingは、直接Maxwellの講義を聞き、ロンドンのエジソン・スワン電灯会社で技術顧問をしていたこともあり、1885年には、ロンドン大学初の電気工学教授職を得、1899年から、マルコーニに雇われた。1880年代にエジソン白熱電球の実験中に観測した熱電子放出(エジソン効果)を知っていて、これを思い出して二極真空管を作ったと言われる

電気の世紀へ 第24回<(発明の時代) フレミングの二極管へ>
http://www.ksplz.info/+museum/matsumoto2/matsumoto24.pdf

また、Flemingが二極真空管の特許を取得した1904年、インドのChandra Boseは、鉱石検波器を開発し、特許を取得した。二極真空管や鉱石検波器の開発は、電子流の制御と応用を目的とする電子工学の起源とも言えるけど、当時は、電子の理解は不十分だったので、理論は後からやってきた。Richardsonという物理学者は、エジソン効果の理論的研究(1910年頃)で、1928年にノーベル賞を取っている。鉱石検波器も、当時は原理が分からなかったはずで、その後の改良は試行錯誤によるしかなかったようである。Schottkyバリアの理論は、1939年に論文が出たらしい。

アメリカのLee de Forestは、Fessendenと同時期に、無線音声通信を試み、少なくとも1904年までには無線音声通信を成功させ(報道に利用したとあるので一定の音質はあったのでないかと思われる)、1907年に三極真空管の特許を取得した(Lee de Forestは、audionと呼んだ)

リー・ド・フォレスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88

Lee de Forestは、三極真空管の発明者と言われるが、1907年の時点で、三極管の増幅作用に気付いておらず、二極真空管の特許を回避するため、見た目を少し変えただけとも言われる。三極管の増幅作用に気付いたのは、1911〜13年、Federal Telegraph Companyに雇用されていたLee de Forestがチームを組んでいたHerbert van EttenとCharles Logwoodらしい(?)。

また、Lee de Forestは、残留ガスが重要だと主張していたけど、1913年頃、GE社のIrving Langmuirや、その他複数の技術者は独立に、真空度を更にあげた真空管("hard vacuum tube",10mPaくらいまでがsoft vacuumらしい)の重要性を認識したようである。Langmuirは、hard vacuum tubeは真空度をあげるのが重要なので、残留ガスが重要だと主張しているde Forestの三極管とは、異なる機構によるとして特許を取ったそうである。Langmuirの特許は、実質上、真空管の基本特許となり、後に、東京電気も、GE社からライセンスを受けている

【もう一つの真空管】最初のX線源はクルックス管で、その後、他の型のX線管も現れたようであるが、1913年、GE社のW.D.Coolidgeは熱陰極X線管を開発し、21世紀の現在も使われているX線管の原型とみなされている。W.D.Coolidgeは、その少し前、タングステン電球の商用化で重要な貢献をした([6]照明への応用、を参照)が、最初のクーリッジ管でもタングステンフィラメントが使われたようである。また、該当する特許US Patent 1203495の文章を読むと、以前のX線管のガス圧は"one to ten microns (0.001 to 0.010 millimeters) of mercury"(0.001mmHg~0.01mmHgのこととすると、およそ、0.1~1.0Paに相当)だったが、クーリッジ管は"vacuum of about .05 microns (0.00005 millimeters of mercury) or lower"(0.00005mmHg≒6mPaか、ぞれ以下?)である的なことが書いてあり、高い真空度の重要性が主張されている。当時の人々の考えはよく分からないけど、X線管に於いても、残留ガスの重要性を信じる人は少なくなかったようである


【1910年代の真空技術】ドイツのWolfgang Gaedeは、生涯で複数の真空ポンプを開発しているが、1912年に開発した分子ポンプは、背圧1.3kPaで4mPaまで到達できたらしい(?)。また、1913年9月にGaedeがドイツで取得した特許(DE-286404,“Vorrichtung zum Evakuieren")に水銀拡散ポンプの原理が記載されているらしい(未確認)。1916年、Langmuirは水銀拡散ポンプを改良したらしい(何をしたかは知らない)
分子ポンプ・ドライポンプの歴史・現状・将来
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tsj1973/23/11/23_11_630/_article/-char/ja/

【参考:真空蒸着】いわゆる真空蒸着は、10mPa~0.1mPa程度の真空度が必要らしい。以下の文献では、真空蒸着の嚆矢を、1912年のP.PohlとP.Pringsheimという人らの報告としている。利用した真空ポンプが何か調べてないけど、時期的には、必要な真空度が作れるようになった頃である。1970年代まで、半導体製造で使われていたのと、同じ原理らしい

20世紀における薄膜・表面科学の歴史と将来展望
https://www.jstage.jst.go.jp/article/oubutsu1932/69/8/69_8_956/_article/-char/ja/

半導体と真空装置
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfj1989/48/11/48_11_1043/_article/-char/ja

半導体製造装置の真空技術
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tsj1973/13/9/13_9_543/_article/-char/ja/


アメリカでは、1910年には「無線船舶法」、1912年8月に「無線法」が成立し、国家による周波数資源の管理が始まった。

【おまけ】
電波利用の大衆化 〜昨日・今日・明日
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=22008&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

には、フランスの事情が書かれていて、1908年には、三極管を使った音楽放送がエッフェル塔から実験的に流されていたそうである。



[10] アクティブ・リモートセンシング(レーダーとソナー)
20世紀に入ると、レーダーやソナーが実現した。これらの技術は、リモートセンシングと総括されることもあるけど、どこからがリモートセンシングかは厳密に考えると、よく分からない。人間は、元々、可視光や可聴音を利用して周囲の情報を得ているし、照明は暗い場所での能動的なリモートセンシングともいえる。天文学の殆どの観測技術は、パッシブ・リモートセンシングだと思うけど、そういう言い方はしない


レーダーは1904年、ドイツのChristian Hülsmeyerが考案したのが最初とされている。送信機は、Hertzが使ったのと原理的には同じspark gap transmitter。Hertzの行った実験の一つでは、波長は66cm(周波数455MHz)と測定されている。Hülsmeyerが使用した周波数は、700MHz前後らしい。応用としては、船同士の衝突検出を考えていて、数km先の船を検出できたらしいけど、有用とは見なされず、じきに忘れられた。

最初の(アクティブ)ソナーは、レーダーより少し後の1914年頃に、Fessendenが開発したとされ、当初は可聴周波数を使っていたが、それなりに利用されたらしい。周波数が3000Hzとすると、水中での音速が1500m/sなので、波長は50cm程度だったということになる。1914年は、ドイツが潜水艦Uボートの実運用を始めていたような時期で、潜水艦は一般的になりつつあったよう。従って、その少し前から、海中での通信や互いの衝突を検出するための技術開発が進んでいたっぽい。この時の音波の生成は、Fessenden oscillatorというものが使われていたようだけど、どういうものかは知らない。
Fessenden oscillator
https://en.wikipedia.org/wiki/Fessenden_oscillator

1917年には、Langevinが圧電素子で生成した超音波を利用したソナーを開発したとされる。圧電効果、逆圧電効果1880年、81年に報告されている。

レーダーが使われる以前は、対空早期警戒用にも、戦闘機の発する音を探知するパッシブソナーの開発が行われたらしい。日本では、聴音機などと呼ばれる。
聴音機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B4%E9%9F%B3%E6%A9%9F
21世紀の現在、気象レーダーはあっても気象ソナーはないけど、象は、20Hz以下の低周波音を聴いて、数十km先の雨や雷を探知可能という話もある(本当かどうか胡散臭いけど)から、いつか気象ソナーとか誰かが作るかもしれない


1930年代中盤頃から、世界各国でレーダー開発が同時多発的に行われて、二次大戦後までに大きく進歩した。1934~39年に開発を行った国として、イギリス、ドイツ、アメリカ、ソ連、日本、フランス、オランダ、イタリアなどがあるらしい。

Radar in World War II
https://en.wikipedia.org/wiki/Radar_in_World_War_II

1935年頃開発されたイギリスのChain Homeレーダー(CHレーダー)や、1936年頃から開発を開始したとされる日本の"超短波警戒機甲"、同時期にソ連で開発されていたRUS-1レーダーは、送信機と受信機が離れた場所にあるbistatic radarに分類される。イギリスは最初からパルス波を使ったようだけど、日本やソ連は、連続波を使用している。イギリスが1935年の実験で使った周波数は6MHzで、その後、1930年代に運用されたCHレーダーでも2〜30MHzだったらしいけど、ドイツは1935年の実験で既に、600MHzという高い周波数を使用したらしい。1946年の以下の報告によれば、"超短波警戒機甲"は、八木秀次の発案で、岡部金治郎が実験を主導した。アメリカGE社のC.W.Riceが1936年に書いた論文(※)とは独立だと主張したとも書いている。

Short survey of Japanese radar — I
https://ieeexplore.ieee.org/document/6434248/

※)多分、"Transmission and reception of centimeter radio waves"というタイトルの報告で1936年8月付だけど、内容は不明

アメリカでは、1934年に"System for detecting objects by radio"という特許が成立している(US patent 1981884)。アメリカ陸軍では、Paul E. Watsonのグループが、1936年に、超短波パルスレーダーによる航空機の検出に成功した。これを受けて、翌年には、射撃管制レーダーSCR-268や早期警戒レーダーSCR-270の試作機を完成させ、これらのレーダーは1940年頃から運用開始したらしい。アメリカ海軍は、RCA社に依頼して、1940年頃に、超短波艦載対空警戒レーダーCXAMを完成させた

イタリアでは、マルコーニが1934年頃にレーダー開発を開始した。マルコーニの提案は、パルスレーダーとCWレーダー両方があったらしく、1936年に完成した最初のレーダーE.C.1は、FMCWレーダーであったらしい。マルコーニは1937年に死亡。1924年にイギリスのAppletonとBarnettは、電波の反射によって電離層の存在を証明し、その距離を計測したが、この時利用した方法は、FMCWレーダーと同じ原理に基づくものだったよう。日本の"超短波警戒機甲"は、距離や方角を知ることはできない無変調のCWレーダーだったらしいので、少なくとも原理的な面では、イタリアのE.C.1は"超短波警戒機甲"より優れていた。

多くの国は1930年代にパルスレーダーを作っているけど、日本はパルスレーダーを思いつく人がいなかったようで、1940年9月の日独伊間の同盟締結後、ドイツからの情報を基に、パルスレーダー開発を始めた。1941年10月には、パルスレーダー"超短波警戒機乙"(後にタチ6号)の試験を行い、高評価だったらしく、太平洋戦争初期から配備された。名前の通り、使用周波数は超短波帯(30~300MHz)で、用途は早期警戒レーダー。ほぼ同時期に、海軍最初の超短波パルスレーダーである一号一型電波探信儀も動作した。

日本の射撃管制レーダーは、1942年初頭に獲得したイギリスのGL Mk IIレーダー、SLCレーダー、アメリカのSCR-268などのコピーとして開発された(タチ1〜4号、4号1型及び4号2型電波探信儀)。GLは"gun laying"の略で、SLCは"SearchLight Control"の略らしい。ドイツには、対空射撃管制レーダーとして、ウルツブルグレーダーがあったけど、日独間の物資輸送は妨害されていて、設計図などを入手できなかった。1943年9月になって、ドイツの技術者が来て、ウルツブルグレーダーのコピーを開発した(タチ24号、31号)



1930年代のレーダーは、短波〜超短波領域(3〜300MHz)のものが殆どだった。1GHz以上の周波数を利用したいと思っていた人は多いだろうけど、レーダーに使えるほど高出力のマイクロ波管がなかった。

マイクロ波管の歴史】1920年に、ドイツでBarkhausen–Kurz管(BK管)が開発され、750MHzのマイクロ波発振に成功した。同じく1920年に、GE社のAlbert Hullは最初のマグネトロンを開発した。この時の周波数は30kHzで、マイクロ波管とは言えない。その後、様々な研究があり、1936年に、ロシアのAleksereffとMalearoffは、3GHz、300Wのマイクロ波発振を可能にした。この結果は当時ロシア国外には伝わらなかったらしい。また、1937年には、クライストロンが開発された。クライストロンも最初の出力は小さいものの、1940年代前半(正確な時期は調べても不明だった)には、イギリスのEMI研究所で、20kW出力のクライストロンが開発されていたらしく、1940年代初頭のイギリスでは、H2Sレーダー開発時に、マグネトロンを使うかクライストロンを使うか議論があったとされている

ドイツは、初期から、マイクロ波帯のパルスレーダーを作っていたけど、周波数は1GHz未満に留まっていた。また、1937年に、ソ連がマグネトロンを使用したパルスレーダー"Zenit"を開発したようだけど、これは周波数500MHz、ピーク出力3kWだったらしい。日本では、1930年代前半から(海軍と共同で)マイクロ波管の基礎研究を行っていた日本無線株式会社が、1939年にマグネトロンM3を作成し、これは3GHz、連続出力500Wで当時の最高水準の性能となった。1939年の時点では、日本にパルスレーダーの発想がなく、1940年以後、超短波パルスレーダー"超短波警戒機乙"とマイクロ波パルスレーダー"22号電探"の開発は、並行して行われたっぽい。M3をベースに日本無線株式会社が開発したM-312は、ピーク出力6.6kWを達成し、1941年以降は、艦載水上捜索パルスレーダー"22号電探"の送信機に使われた。

一方、1940年に、イギリスのJohn RandallとHarry Bootが開発したマグネトロンは、周波数3GHzで、ピーク出力は最終的に25kWに到達したとされる。M3同様、水冷が重要みたいに書かれていて、同じようなものだったっぽい。このマグネトロンはアメリカにも譲渡され、アメリカとイギリスは、マグネトロンのレーダー利用を研究し始めた。アメリカでは、1940年10月に、レーダー研究を重点的に行うMIT Radiation Laboratoryが設立されている。イギリスでは、1941年には、機上搭載マグネトロンレーダーAI Mk VIIIを実戦投入した。アメリカは、1941年には艦載水上捜索レーダーSGの試作機を完成させ、1942年から艦隊配備を開始した。終戦までには、アメリカも日本も、3GHz、ピーク出力が数百kWのマグネトロンを作れるようになっていた(日本では、レーダーには使われてないけど、アメリカは1944年初頭から、ピーク出力250kW、周波数3GHzのSCR-584を実戦投入した)


"22号電探"の試作機は、"超短波警戒機乙"と同様、1941年10月には出来ていたようであるけど、(受信機に)技術上の問題があり、低評価だった。問題が解決したと見なされ量産化を開始したのは、1944年3月。日本のマグネトロンレーダーは、艦載水上捜索レーダーを中心として使用されたっぽい。

霜田光一論文『電波探知機・電波探信儀用鉱石検波器の研究』
http://www.yokohamaradiomuseum.com/shimodawebsite/shimoda.html

を見ると、問題のありか、問題が生じた理由、どう解決したか、などが書かれている。ただ、"国産の真空管も回路部品も信頼度が低く、寿命が短かったので、... スーパーヘテロダインより真空管も回路素子も少なくて済む超再生が選ばれた"とあるけど、そもそも、試作すらしてなかったようなので、3GHz帯では(混合器ができないとかで)作れなかったという方がありそうに思えるけど、どうなんだろう(つまり、工業力の問題というより、技術的な問題だったのじゃないかと思う)

ドイツは1943年2月2日に、イギリスのH2Sレーダー(マグネトロンを使用した機上地形レーダー)を獲得して、マグネトロンの使用を確認した。以後、ドイツも、マグネトロンレーダーの研究を開始したけど、終戦まで、量産されたものはない。この時、イギリスとアメリカがマグネトロンレーダーを実用化している事実が日本に伝わったかは不明(この事実を、日本が、いつ確信したかも不明)。

3次元レーダーができるのは、1950年代以後のことのよう。何が難しかったのか分からないけど

【探知距離とレーダー出力】Wikipedia記載の情報によれば、1940年に、日本の真珠湾攻撃を探知したパルスレーダーSCR-270は、周波数106MHz、ピーク出力100kWで、探知距離が240kmとある。AI Mk VIIIは、3.3GHz,25kWで、探知距離は10kmに及ばない程度だったよう。レーダー方程式によって、受信電力は、波長の二乗に比例し、距離の4乗に反比例するので、検出可能な受信電力やアンテナ利得、反射断面積が同一であれば、106MHz,100kWと3.3GHz,25kWでは、後者の探知可能距離は、前者の1/10程度になる。SCR-270は陸上設置であるのに対して、AI Mk VIIIは機上レーダーで、アンテナ性能が同一ではないだろうけど、オーダーとしては合っている。Wikipediaによれば、『二二号電探の性能は、波長10cm、出力2kW、重量1,320kg、戦艦を35km、駆逐艦を17km、潜水艦の潜望鏡を5kmで発見する能力を持っていた』とあり、艦船は航空機より、反射断面積が大きいため、このような値なのだろうと思われる。


航空機に搭載する機上レーダーの場合は、小型・軽量化を要する。例えば、22号電探は、1t以上あり、"超短波警戒機乙"はもっと重い。以下は、初期の機上レーダーのリスト
・AI Mk IV(イギリス、1940年実戦投入):ピーク出力10kW、周波数200MHz、重量90kg
・AI Mk VIII(イギリス、1941年実戦投入):ピーク出力25kW、周波数3GHz、重量不明
・AI-10、SCR-520(英米、1941年完成):ピーク出力50kW、周波数3GHz、重量270kg
・FuG202(ドイツ、1941年7月に試作機完成):ピーク出力1.5kW、周波数490MHz、重量70kg
・Gneiss-2(ソ連、1942年末のスターリングラード戦で使用されていた?):ピーク出力10kW、周波数200MHz、重量不明(500kg?)
・H-6電探(日本、1942年5月試作機完成):ピーク出力3kW、周波数150MHz、重量110kg。総生産台数2000台
・タキ一号(日本、1943年3月試作機完成):ピーク出力10kW、周波数200MHz、重量150㎏。超短波警戒機乙の軽量版

アンテナについて。レーダーに使われるアンテナも用途や周波数で、色々使い分けられていた。マイクロ波領域では、パラボラアンテナかホーンアンテナが多いっぽい。"22号電探"は、ホーンアンテナで、ウルツブルグレーダーやSCR-584は、パラボラアンテナ。超短波領域では、ダイポールアンテナを並べたアレイアンテナが多いように見える。例外として、超短波機上レーダーでは、八木アンテナが使用されていた。多分、コンパクトな割にアンテナ利得が高いからじゃないかと推測する。H-6電探は初期には、八木アンテナでは何やら問題があって、ダイポールアンテナを使っていたらしい。機上レーダーも、周波数が3GHzとかになってくると、パラボラアンテナが使用されていたよう(AI Mk VIIIなど)。もうひとつ例外として、イギリスのSLCレーダーも八木アンテナだったらしい。これは、日本軍の技術者が八木アンテナを知らなかったという伝説で引き合いに出されるレーダーだけど、八木アンテナを採用した理由は分からない


[11] 電磁砲(レールガン、コイルガン、etc.)
現在でも、レールガンやコイルガンは、競合手法(古典的な火薬式の銃)に比べて劣っているとされ、知る限りでは全く使われていない。熱力学的には、銃火器は一種の熱機関ともいえ、そういう視点で見れば、電磁砲と銃火器の競合は、電動機と熱機関の戦いの一種とも言える。蒸気機関の多くは電動機に置き換わったし、一度は内燃機関に敗北した自動車業界でも電気自動車が復活しつつあるので、いつか、銃業界でも、電磁砲が主流になることもあるかもしれない。火薬式の銃火器には700年くらいの歴史があって、無数の改良がなされてきたわけだし


1844年に、"Benningfield's electric gun"の広告というのがあるそうであるが、経緯なども不明。1900年に、ノルウェーの物理学者Kristian Birkelandが、『電磁力で砲弾を飛ばす電磁砲(コイルガン)の特許をえて、デモンストレーションを行った』らしいので、歴史上初の電磁砲と言えるっぽい

Kristian Birkeland

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89


以下の論文で、電磁砲全般に関する比較的最近のレビューがされている
Advanced Concepts of the Propulsion System for the Futuristic Gun Ammunition
http://publications.drdo.gov.in/ojs/index.php/dsj/article/view/2279

スピン3以上のゲージ場(2)曲率の高スピン類似

(参考文献)The unitary representations of the Poincare group in any spacetime dimension
https://arxiv.org/abs/hep-th/0611263


以下では、自然数の分割[n_1,...,n_k]という記号を使う。この時、n_1 >= n_2 >= ... >= n_k > 0となっている。

で、物理の(一部の)人の間では、以下のような表は常識っぽい

GL(n) SO(n)
分割[s] 対称テンソル "ゲージポテンシャル"
分割[s,s] "曲率"の一般化 "共形曲率"の一般化

sは正整数で、classical field theoryなら、実係数で考えるべきで、quantum field theoryの場合は、複素係数で考えるべきなのだろうと思う。特に係数の取り方に依存する話はしないので、GL(n)の列は、対応するYoung symmetrizerの(右からの作用による)像を指しているとする。これは、係数の取り方によらず定義できる。

SO(n)の列は、GL(n)の列のトレースレス成分であると解釈する。トレースを取る(テンソルを縮約する)には、計量を決める必要があり、Euclid的な内積ならSO(n)であるけど、Lorentz的な内積なら、SO(n-1,1)とする必要がある。計量の符号に依存する話はしないので、SO(n-p,p)とか書く方が正確かもしれない。これは複素係数でもちゃんと定まる。こというわけで、表の各項目は、GL(n)の有限次元既約表現や、SO(n)の有限次元表現(既約でないことがある)を指している。Fulton-Harrisの6章とか19.5節も参照

nが3以下の時も、基本的には、同じ考えでいいけど、原則として、nは4以上ということにしておく。また、以下では、GL(n)やSO(n)の分割λに対応する表現(対応するYoung symmetrizerの像に定まる表現)を、λ-表現と呼ぶことにする。


SO(n)の[s]-表現は、ランクsの対称トレースレステンソルの空間であり、整数スピンsの場=ランクsの対称トレースレステンソルの場というのは、物理でも、よく使われている定義。分割[1]の場合は、ただのベクトル表現だから、微分一形式が値を取る空間と思ってもいい

正整数sは、気持ち的には、物理のスピンを表す量だけど、上の表は、特に次元に依存する部分は何もない。一方、スピンの定義は、ポアンカレ群の既約ユニタリ表現の分類に現れるラベルであり、4次元の場合は、誘導表現の構成によって、SO(3)の有限次元既約表現を分類するラベルでもある(フェルミオンのことは考えない)。次元が高い場合は、SO(3)の部分は、SO(n-1)になるので、その有限次元既約表現は、単一の整数でラベルされない。こうして、4次元以外では、スピンという概念が何を指しているかは曖昧である。

しかし、4次元以上の場合でも、SO(n-1)の分割[s]に対応する有限次元表現を考えることはでき、誘導表現として構成される既約ユニタリ表現が、物理学者が、高次元で、スピンsのboson場と見なしているものだと思う。このような場は、Lorentz群SO(n-1,1)のある有限次元表現に値を取る場と見なすことができるが、その有限次元表現は、やはり、同じ分割[s]に対応する有限次元表現を考えればいいようである。これは、ランクsの対称トレースレステンソルの空間になっている。高次元で、物理の人が、masslessなランク2の対称(トレースレス)テンソル場を重力子だとか言ってる背景は、こういうことだと思う

次元があがると、SO(n-1)の既約表現は、もっと多様になり、例えば、分割[2,1]とかに対応する表現なんかも出てくる。


曲率の部分は、GL(n)の[2,2]-表現空間がRiemann曲率テンソルが値を取る空間となっていることの類似である。

cf)物理に於ける代数的なテンソル計算の例
http://d.hatena.ne.jp/m-a-o/20170131#p1

algebraic curvature tensorsと呼ばれていることもあるけど、この用語を使い始めたのが誰なのか分からなかった。最近、GoodmanとWallachの本"Symmetry, Representations, and Invariants"にも、この話が載っているのを見つけた。
Symmetry, Representations, and Invariants (Graduate Texts in Mathematics)
https://www.amazon.co.jp/dp/1441927298
彼らは、the main result in this section(section10.3のこと)を、Besseという人の"Einstein manifolds"(初版は1987年)という本(Chapter 1,section G)から得たと書いており、Google booksで検索した所、このBesseの本で、'the vector spaces of "algebraic cuvature tensors"'という用語が使われていた。というわけで、algebraic curvature tensorsという用語は、少なくとも1987年には存在していたようである。用語ができる前から、このような考え方自体は知られていたと思われる。

元々の幾何学的な動機からすれば、Riemannテンソルは、O(n)-構造の可積分性の障害であって、G-structureの一般論に従って、algebraic cuvature tensorsのベクトル空間はSpencerコホモロジーの言葉で定義できると期待される。のだけど、実際に見てみると、この定義では、Riemannテンソルの代数的性質の一つR_{abcd}=R_{cdab}がどこから来るのか、私には分からなかった…。勿論、これはRiemannテンソルの基本的性質だし、それ以外の代数的性質は、この方法で導くことが出来る。何にせよ、この幾何学的な定義からは、高スピンへの一般化を見つけるのは難しいと思う。

どういうわけか、algebraic cuvature tensorsのベクトル空間=GL(n)の[2,2]-表現空間と見なせる。スピン1の場合、曲率に相当する場は、単なる微分二形式で、ランク2の交代テンソルの空間=GL(n)の[1,1]-表現空間に値を取る。以上のことから、一般の正整数スピンsに対応する"曲率"は、GL(n)の[s,s]-表現空間に値を取る場と類推することができる。特に良い文献とかは見当たらないけど、この定義自体は、以前にも考えている人はいる。こうして、スピン1と2の場合に存在した幾何学的なイメージとは全く異なる方向に目を向けることで、曲率の高スピンへの一般化を考えることができる。

共形曲率は、曲率のトレースレス成分で、スピン2の場合は、Riemannテンソルに対するWeylテンソルに相当する。スピン1の場合は、共形曲率と曲率に違いはない。共形構造の構造群であるCO(n)ではなく、SO(n)を取っているのに、共形曲率という名前を使っていいのか疑問だけど、気にしないことにする。まぁ、曲率/共形曲率のような用語を濫用するより、higher spin Riemann tensor/Weyl tensorと呼んだほうがいいかもしれない。最近(?)は、conformal higher spin theoryというものも調べられていて、higher spinにおける共形曲率も、使われているようである。

SO(n)の列に関しては、Poincare群のユニタリ表現と結びついた根拠がある(Poincare群と結びつくのは、SO(n)というより、Lorentz群SO(n-1,1)というべきだが)。[s]-表現の方は、既に上に書いたけど、[s,s]-表現でも、これは同様。曲率と共形曲率のどちらも、ランク2sのテンソルとして実現できるけど

スピン3以上のゲージ場(1)
http://d.hatena.ne.jp/m-a-o/20170409#p3

で出てきているのは、共形曲率の方。Poincare群の表現を調べる限り、共形曲率があれば十分っぽいように思えるのだけど、一般相対論では、Weylテンソルよりも、Riemannテンソルが重要であると考えられている。しかし、GL(n)の列は、SO(n)の列ほどには、Poincare群の表現論と強く結びついてはいない。GL(n)の列にある表現空間は、SO(n)の列にある空間を含んでいるので、無関係ではないけれども、GL(n)の表現が重要なのは不思議な気がする。



n=3の時、GL(3)の[2,2]-表現は、自明なトレースレス成分しか持たない。つまり、SO(3)の[2,2]-表現は、0次元表現となる。これは、3次元では、Weylテンソルが恒等的に0になるという事実に対応している(3次元に於いて、Riemannテンソルの自由度は6だが、Ricciテンソルもランク2の対称テンソルなので、自由度は6であり、Ricciテンソルが恒等的に0でない限りは、それ以外の自由度が出る余地はない)。Weylテンソルが常に消えることは、3次元重力がtopologicalだと言われる理由らしい


曲率は、ポテンシャルを使って書くことができ、スピン1の場合は、単に
F_{ab} = \partial_a A_{b} - \partial_b A_{a}
で、微分一形式から二形式への外微分とも理解できる。一階の微分演算子は、GL(n)のベクトル表現をなす。物理の人は、運動量空間で見ることを、よくやるけど、その場合は、運動量ベクトルと、ポテンシャルがなすベクトルのテンソル積を取って、既約成分の片割れを取ったものと解釈できる。GL(n)のベクトル表現は、[1]-表現なので、二つの[1]-表現のテンソル積は、対称成分である[2]-表現と反対称成分である[1,1]-表現に分解される。

スピン2の場合は、ポテンシャルの一階微分を取っても、曲率は出ない。しかし、二階微分を取ったものの線型結合で書ける。運動量の二次多項式がなす、GL(n)の[2]-表現と、ポテンシャルが値を取る[2]-表現のテンソル積を取って、直和分解すると、GL(n)の[4]-表現、[3,1]-表現,[2,2]-表現が出るので、最後の[2,2]表現へ射影したものが曲率と見なせる。一応、次元だけ見ておくと、[4]-表現は、n(n+1)(n+2)(n+3)/24,[3,1]-表現は、(n-1)n(n+1)(n+2)/8,[2,2]-表現は、n^2(n^2-1)/12で、足すと、n^2(n+1)^2/4で、これは、[2]-表現の次元の二乗になっている。

一般に、スピンsの場合も同様で、運動量のs次多項式のなすGL(n)の[s]-表現と、スピンsのポテンシャルが値を取る[s]-表現のテンソル積を取って、[s,s]-表現へ射影したものとして、曲率とポテンシャルの関係式が得られる。


ポテンシャルを微分したように、曲率の一階微分たちを、直和分解することを考えると、スピン1の場合は、GL(n)の[1]-表現と[1,1]-表現のテンソル積で、GL(n)の[2,1]-表現と[1,1,1]-表現の直和となる。後者の[1,1,1]-表現への射影は、微分二形式を外微分して、微分三形式を得る操作に対応している。これが、0になるというのが、Maxwell方程式の半分で、Bianchi identityと呼ばれていることもある。残りの半分は、GL(n)の[2,1]-表現の方にいる。これを、SO(n)あるいはSO(n-1,1)へ制限すると、SO(n)の[2,1]-表現と[1]-表現の直和に分解する。こうして出てきたSO(n)の[1]-表現は、微分一形式が値を取る空間と解釈できる。この成分が、電流に等しいというのが、Maxwell方程式の残りの半分になっている。

スピン2の場合、Riemannテンソルを一階微分すると、GL(n)の[3,2]-表現と[2,2,1]-表現部分に分解する。[2,2,1]-表現への射影が0になるという条件は、second Bianchi identityと呼ばれている。スピンsの場合、GL(n)の[s,s]-表現と運動量ベクトルがなす[1]-表現のテンソル積表現を、GL(n)の[s,s,1]-表現へ射影すると、0になるという条件は、スピンsのBianchi identityと呼んでいいだろうと思う。"identity"という名前ではあるけど、別に、一般の場合は、0になるという保証はない


Maxwell方程式について考える。Maxwell方程式なので、SO(n)の代わりに、明示的にSO(n-1,1)と書くことにする。曲率の一階微分は、n^2(n-1)/2個の成分がある。一階微分を取る操作は、SO(n-1,1)の[1,1]-表現に値を取る場から、SO(n-1,1)のn^2(n-1)/2次元表現に値を取る場への(SO(n-1,1)-作用と可換な)線形変換と見なせる。この像が、一般にどうなってるか考える。SO(n-1,1)の[2,1]-表現に落ちる成分は、とりあえず置いておくと
 \partial_{a} F^{ab} = j^b
 \partial _{a} F_{bc} + \partial_{c} F_{ab} + \partial_{b} F_{ca} = t_{abc}
という形になる。jが電流、tが、磁荷と磁荷流に相当する項。Fの方は、成分がn(n-1)/2個あるけど、jとtの成分数は、それぞれ、nとn(n-1)(n-2)/6で、Fを未知数とした場合、方程式の個数と未知数の個数が一致しない。n=4の場合は、電磁場は6成分あり、jとtは4成分ずつある。n=4で、この方程式が解を持つための条件は、電流と磁荷流が、それぞれ連続の式を満たすことで、条件が2つあるから、8-2=6となって、自由度の数が一致する。

(注1)magnetic currentの方は、微分形式で書けば、dF=Jなので、dJ=0が"連続の式"となり、一般のnでは、n(n-1)(n-2)(n-3)/24個の条件が出る。jとtが、連続の式を満たすとして、nが一般の場合は、Maxwell方程式の数がn + n(n-1)(n-2)/6で、連続の式の数はn(n-1)(n-2)(n-3)/24 + 1で、Fの独立な成分数n(n-1)/2だから、(Fの成分数)-{(Maxwell方程式の数)-(連続の式の数)}を計算すると、(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)/24となって、nが4より大きい場合は、自由度の数が一致しなくなる。つまり、5次元以上で磁荷がある場合は、通常のMaxwell方程式だけでは不足で、付加的な方程式が必要となる。付加的な方程式は、どこから持ってきてもいいけど、放置してある[2,1]-表現に値を持つ成分も考慮に入れるというのが自然である。勿論、磁気単極子がなければ、一般の次元でも、特に問題は起きない

(注2)電流と磁荷流が値を取る空間は、SO(n-1,1)の表現としては区別がないけど、O(n-1,1)の表現としては異なっていて、例えば、パリティ変換に対する対称性は違っている。磁荷付きのMaxwell方程式を見れば、すぐわかる通り、空間反転を行うと、磁荷の符号は反転し、磁荷流は不変に保たれる。つまり、磁荷は擬スカラーで、磁荷流は軸性ベクトル。特に、磁荷に対するLorentz力は、電荷に対するものと異なってくる。電場と力は極性ベクトルであり、磁場は軸性ベクトルであるから、極性ベクトルである力を得るために、磁荷は磁場と結合し、磁荷流は電場と結合する必要がある。誰が最初に考えたのか知らないけど、以下のWikipediaのページには、そういう式が書いてある。四元力の時間成分は書いてないけど、磁荷流と磁場の内積が付加されると推測される。
Magnetic Monopole
https://en.wikipedia.org/wiki/Magnetic_monopole#In_SI_units

磁荷に対するLorentz力の、きちんとした導出は、電磁場のエネルギー・運動量テンソルの四元発散を取ることで得られる(多分)。例えば
 u = \dfrac{1}{2} \epsilon \mathbf{E}^2 + \dfrac{1}{2 \mu} \mathbf{B}^2
に対して
 \dfrac{\partial u}{\partial t} = \epsilon \mathbf{E} \cdot \dfrac{\partial \mathbf{E}}{\partial t} + \dfrac{1}{\mu}\mathbf{B} \cdot \dfrac{\partial \mathbf{B}}{\partial t}
で、磁荷のあるMaxwell方程式
\dfrac{\partial \mathbf{B}}{\partial t} = -\mu \mathbf{j}_m - \mathrm{rot} \mathbf{E} , \epsilon \dfrac{\partial \mathbf{E}}{\partial t} = \dfrac{1}{\mu} \mathrm{rot} \mathbf{B} - \mathbf{j}_e
を使うと
 \dfrac{\partial u}{\partial t} = \mathbf{E} \cdot ( \dfrac{1}{\mu} \mathrm{rot} \mathbf{B} - \mathbf{j}_e) + \dfrac{1}{\mu} \mathbf{B} \cdot (-\mu \mathbf{j}_m - \mathrm{rot} \mathbf{E}) = -\mathbf{j}_e \cdot \mathbf{E} - \mathbf{j}_m \cdot \mathbf{B} - \mathrm{div}(\mathbf{E} \times \mathbf{H})
なので
\dfrac{\partial u}{\partial t} + \mathrm{div}(\mathbf{E} \times \mathbf{H}) = -\mathbf{j}_e \cdot \mathbf{E} - \mathbf{j}_m \cdot \mathbf{B}
を得るので、四元力の時間成分が分かる。但し、\mathbf{H} = \dfrac{1}{\mu}\mathbf{B}

【補足】Maxwell方程式を、以下のように、4変数多項式係数の6x8行列Pで書いて、d_0,d_1,d_2,d_3に関する四変数多項式環をRとすると、Pは右からの作用βによって、完全列R^8 \to R^6 \to \mathrm{Coker}(\beta) \to 0を定める。
で、自由分解0 \to R^2 \to R^8 \to R^6 \to \mathrm{Coker}(\beta) \to 0を構成できるので、これから、連続の式2本を知ることが出来る。
 \left( \begin{array}{cccccc} d_1  & d_2  & d_3  & 0    & 0    & 0 \\
                           -d_0 & 0    & 0    & 0    & -d_3 & d_2 \\
                           0    & -d_0 & 0    & d_3  & 0    & -d_1 \\
                           0    & 0    & -d_0 & -d_2 & d_1  & 0    \\
                           0    & 0    & 0    & d_1  & d_2  & d_3  \\
                           0    & d_3  & -d_2 & -d_0 & 0    & 0    \\
                           -d_3 & 0    & d_1  &   0  & -d_0 & 0    \\
                           d_2  & -d_1 &  0   &   0  &  0   & -d_0 \\ \end{array} \right) \left( \begin{array}{c} E_1 \\ E_2 \\ E_3 \\ B_1 \\ B_2 \\ B_3 \end{array} \right) = \left( \begin{array}{c} j_0^e \\ j_1^e \\ j_2^e \\ j_3^e \\ j_0^m \\ j_1^m \\ j_2^m \\ j_3^m \end{array} \right)



スピン2の場合のfield equationは、Einstein方程式で、これは、Einsteinテンソルとエネルギー・運動量テンソルが等しいという式。2階の対称テンソルの等式なので、成分数は、n=4では10個ある。n=4では、Riemannテンソルの成分数は、20個あるので、Riemannテンソルを決めるには、もっと方程式が必要となる。これは、Maxwell方程式の時と同様、second Bianchi identityがある。second Bianchi identityの独立な式の数を数えるには、GL(n)の[2,2,1]-表現の次元を、hook length formulaで計算すればいいわけで、これはn^2(n^2-1)(n-2)/24となる。n=4の時は、丁度20に等しい。Maxwell方程式と合わせるなら、Einstein方程式とsecond Bianchi identityをセットで、field equationと思った方がいい。そうすると、n=4の時、Riemannテンソルの成分数が20で、field equationの数が合計30となって、Maxwell方程式の時と同様、方程式の数の方が多くなる。

Maxwell方程式でも、ゲージポテンシャルAから始めて、F=dAとすれば、自明に、dF=0となり、これがMaxwell方程式のBianchi identity部分だった。一般相対論のEinsteinによる定式化では、出発点が、計量なので、ポテンシャルから始めているようなもので、second Bianchi identityは、field equationと思わなくても、単なる恒等式と見えた。そういった設定は忘れて、スピン2のRiemannテンソルに対する(線形な)field equationを考えるなら、second Bianchi identityは、成立しないと考えてみることもできる。これは、丁度、磁気単極子が存在する場合のMaxwell方程式を考えたことに相当する

線形なスピン2のfield equationは、最も一般的には、
R_{ab} - \frac{1}{2} g_{ab}R = T_{ab}
p_{a} R_{bcde} + p_{b}R_{cade} + p_{c}R_{abde} = O_{abcde}
という形になるはず。未知量であるRiemannテンソルの成分数より、方程式の数の方が多いので、解が存在するためには、TとOに条件が付く必要がある。本当は、出てくる条件の数を数えて、勘定が合うことを確認すべきだけど、暗算でやるには辛いので、置いておく。Oが0でないと、Tがdivergence-freeとは限らなくなって困りそうな気もするけど

勿論、ポテンシャルの方で見れば、Einsteinテンソルは、ポテンシャルの二階微分の形になっていて、これは、重力波の計算で、必ず出てくる、線形化したEinstein方程式になる。この場合は、second Bianchi identityは恒等式となり、ポテンシャルの成分数と、Tの成分数は、同じなので、難しいことは、あまりない

物質項がない真空中では、Einsteinテンソルは、恒等的にゼロで、Ricci曲率もスカラー曲率もゼロになる。残る自由度は、Weylテンソルのみになる。表現論的に導けるlinear field equationは、このような状況に相当し、field equationは、linearized Bianchi identityとなる。



同様にして、スピン3のmassless linear field equationについて、考える。スピン3の場合は、色々なno-go theoremがあり、実験的にも見つかってないので、(今の所)ただの数学上の産物でしかない。スピン3の場合も、方程式の片割れは、Bianchi identityから得られるとする。残りの半分は、スピン1の場合も、スピン2の場合も、ポテンシャルの2階微分=カレントという形をしていた。スピン3の場合は、曲率=ポテンシャルの三階微分であることは分かっているので、曲率=カレントの一階微分の形だろうと思われる(スピンsのカレントとは、ランクsの対称テンソル場のこととする。スピン1では、電流で、スピン2では、エネルギー・運動量テンソルに相当する)

曲率は、GL(n)の[3,3]-表現に値を取るが、SOに制限すると、[3,3]-表現と[3,1]-表現と[1,1]-表現が出る。一方、カレントの一階微分たちは、GL(n)の[4]-表現と[3,1]-表現に分解できる。なので、曲率をSOに制限した[3,1]-表現部分と[1,1]-表現部分の線型結合が、カレントの一階微分の[3,1]-表現部分に等しいという形になるのだろう。スピン2の場合、曲率の線型結合の係数を決める手がかりは、divergence-freeになるようにするというものだったので、スピン3の場合も、同様だと思われる。但し、カレントそのものではなく、一階微分の線型結合に等しいという形なので、条件も、多少複雑になるはず。以下の論文には、Einsteinテンソルと同じように作ればいい的なことが書いてあるようだけど、確認してないので、正しいかどうかは知らない

"Geometry" of spin 3 gauge theories
https://eudml.org/doc/76380



【おまけ:massless field equationの系譜】1939年に、FierzとPauliの論文で、スピン2の波動方程式が書かれている。
On relativistic wave equations for particles of arbitrary spin in an electromagnetic field
http://rspa.royalsocietypublishing.org/content/173/953/211
彼らは、特に、masslessとは限ってない。2階対称トレースレステンソルに対して、式(5.1)に波動方程式、式(5.2)に(トレースレスの場合の)調和ゲージ条件が書かれている。質量が0の時は、ソース項のない重力波方程式と同じ形で、大まかには、この波動方程式の解から得られる共形曲率全体が、Poincare群の質量0、スピン2のユニタリ表現空間をなす。彼らの議論は、表現論的なものではなく、Lagrangianを考え、謎の補助スカラー場を使っている。このスカラー場は、調和ゲージ条件を導くための工夫と書かれている。

1939年に、Wignerは、Poincare群の既約ユニタリ表現の分類を与えたが、その仕事を受けて、1948年には、Bargmann-Wigner equationの論文が出ている。
Group Theoretical Discussion of Relativistic Wave Equations
http://www.pnas.org/content/34/5/211
この論文は、表現論的観点からfield equationを導く、最初の議論になった。論文のメインは、massiveな場合の方で、masslessの場合に、特別の注意を払ってはいないようである。またフェルミオンも同等に扱えるように、ポテンシャルをs階のテンソル、曲率を2s階のテンソルとして実現するアプローチとは、少し違うけど、D(s,0)とD(0,s)の直和を、spinor表現のテンソル積表現の部分表現とみなしているので、"曲率"に対する方程式のvariationと言える。

次に、初出は不明であるけど、1960年代に、Penroseが、任意のヘリシティに対するmassless field equationを書いたようである。これは、twistor理論の初期の成果であるけど、"曲率"に対する方程式となっている。また、複素化すると、スカラー以外のmassless粒子は、ヘリシティが正負の成分で、独立な方程式を満たすようにできるので、そのような形で書かれた。これらの結果は、masslessな場合に特有のものであり、表現論的に理解することができる。

1978年になって、Fronsdalは、FierzとPauliの仕事を、任意のmassless bosonに一般化して、Lagrangianを書き、現在、Fronsdal equationと呼ばれている方程式を得たらしい。スピン1の場合でも、得られるのは、ポテンシャルに対する方程式で、電磁場に対するものではない。
Massless fields with integer spin
https://journals.aps.org/prd/abstract/10.1103/PhysRevD.18.3624



【余談】[r,r]-表現は、以下の論文では、conformal Killing tensorが値を取る空間として出ている。
Higher Symmetries of the Laplacian
https://arxiv.org/abs/hep-th/0206233

この時の群は、共形変換群SO(n+1,1)なので、上の曲率の話とは(少なくとも、直接的には)関係していない(計量の符号によって、共形群は変わるけど、今はEuclid的としておく)。SO(n+1,1)の[r,r]-表現は、(n+2)次元に於けるランク2rのテンソルとして実現できるけど、それが、n次元に於けるランクrのconformal Killing tensorと対応するという不思議な話。SO(n+1,1)の[1,1]-表現の次元は、(n+2)(n+1)/2なので、これは、丁度SO(n+1,1)の次元であり、n次元Riemann多様体で許される共形Killingベクトルの最大個数でもある。

論文の主旨は、flat space上のconformal Killing tensorを全てのランクに渡って集めたものには、良い代数構造が定まり、共形代数の普遍展開環のある商環と同型になるということらしい。この代数は、higher spin algebraと呼ばれていて、higher spin field theoryを動機としている。。一般の複素単純Lie環で、higher spin algebra=複素単純Lie環の普遍展開環をJosephイデアルで割った代数という定義をされる場合もあるようである。こっちの2002年の論文では、示唆されるに留まっているが、

The Cartan Product
https://projecteuclid.org/euclid.bbms/1110205624

によれば、(共形代数の場合)、higher spin algebraは、"Cartan algebra"というものの変形量子化と理解できるらしきことが、終わりの方に書いている(Vasilievの論文arXiv:hep-th/0304049の結果のよう)。有限次元複素半単純Lie環をひとつ定めた時、2つの既約表現のCartan productは、2つの既約表現のテンソル積表現のある部分既約表現として定義され、多重Cartan productの直和を取ると結合代数が定まり、Cartan algebraと呼んでいる。sl(n,C)の自然表現のr重Cartan productは、対称テンソル積表現で、so(n,C)の自然表現のr重Cartan productは、ランクrの対称トレースレステンソルの空間である。前者のCartan algebraは、対称代数/多項式環で、後者は、調和多項式の集合に、特殊な積(※)を入れたものとなる

(※)同次調和多項式の積は、調和多項式ではないが、同次多項式であるので、canonical decompositionによって、r^2がかからない成分だけ取り出すと、調和多項式が得られ、これが積を定義する(はず)。canonical decompositionで、r^2=0と置いたものと思えばいい。r^2=1としたものが、球面調和関数のなす代数と見なすことができる

複素化した共形代数so(n+2,C)の[1,1]-表現は随伴表現と同値であるが、そのr重Cartan productは、[r,r]-表現で与えられる。(複素化した)higher spin algebraは、普遍展開環の商として自然にfiltrationが定まっていて、associated graded algebraは、複素化した共形代数so(n+2,C)の随伴表現から得られるCartan algebraと同型になるということらしい(?)。変形量子化には、Poisson構造が必要だけど、Caratan algebraに直接定義する方向では、特に何も書かれていない。Poisson構造が入るのは、随伴表現のCartan algebraとか特殊ケースのみで、一般のCartan algebraにPoisson構造を定める普遍的な方法は、特にないのだろう(多分)。また、以下の論文によれば、A_1を除くABCD型の複素単純Lie環で、普遍展開環のあるクラスの両側イデアルで、商環のassociated graded algebraと随伴表現のCartan algebraが同型になるものが一意に存在するということが書かれている。論文によれば、このイデアルはJosephイデアルと一致するらしい(?)

The Uniqueness of the Joseph Ideal for the Classical Groups
https://arxiv.org/abs/math/0512296

一方で、普遍展開環のJosephイデアルによる商のassociated graded algebraは、極小冪零軌道上の関数環と解釈できる。一般に、複素単純Lie環の冪零軌道上の関数環の"量子化"を考えることができ、数学では、以前から研究されていた。Voganが1990年に、以下の論文で導入したDixmier algebraという概念があり、Definition2.1だけ見ると、座標環の量子化というのは全然見えないけど、Definition2.2を見れば、"orbit datum"の非可換類似であることは見て取れる
Dixmier algebras, sheets, and representations
http://www-math.mit.edu/~dav/DixmierAlgebras.pdf

鉄剣は必ずブロンズソードより強いのか

RPGだったら、ブロンズソードより、鉄剣の攻撃力が高くて高性能となるとこだけど、現実の人間は、HPと防御力が低すぎるので、石斧だろうが、ブロンズソードだろうが、当たりどころ(切られ所)が悪いと、簡単に死ぬ。

もう少し真面目な話としては、春秋戦国時代の中国では、岩鉄鉱石か沼鉄鉱石か知らないけど、鉄鉱石を一度溶融して(一酸化炭素で)還元し、出来た銑鉄を、そのまま鋳造していたらしい。こうして作られた鉄製品は、炭素含有量が高く、硬いけど脆くなると一般に書かれている(※)。それで、こうして作った鉄製の武器は脆いので、「悪金」と呼ばれて、農具などに利用されていたらしい。中国の製鉄技術の起源は、外来のものっぽく、初期の頃から、他の地域と同じように、半溶鉄を低温還元した後、鍛造して作った(鉄を溶かせない場合は、鋳造はできない)ものもなかったわけではないらしい。何故、鋳造に拘ったのかは謎。鋳造する方が生産効率は圧倒的に高いんだろうけど、それが理由かは分からない

(※)鋳鉄という用語も、銑鉄とほぼ同じ意味で使う。多分、鋳鉄の元来の意味は、鋳造用の鉄だったのだと思うけど、現代の工業製品としての鋳鉄は、大抵、1%以上のSiを含んでいるのに対して、紀元前の中国の鉄は、Siを1%未満しか含んでいない。Siの有無が物性にどう影響するのかは知らない。また、普通の鋳鉄も、組織構造によって、ねずみ鋳鉄/ねずみ銑鉄と白鋳鉄/白銑鉄などに分類されている。両者は、組織的には結構違うので、区別すべきなのだと思う。鉄関係の用語は、色々紛らわしい

春秋戦国時代の武器の鉄製と青銅製の割合がどれくらいだったかは分からない。中国では、紀元前500年頃作られたらしい青銅剣である越王勾践剣というのが発掘されていたりする(勾践は紀元前473年に上海のあたりにあった呉を滅ぼした越の王。越は呉の南にあって、この二国は呉越同舟の故事の起源)し、秦の兵馬俑からも、青銅製の剣が発掘されているらしいから、青銅製の武器も広く使われていたと思われている。始皇帝は、鉄官という、何をするのか知らないけど、鉄の生産に関連する役職を作ったとされる。キングダムなどの漫画で出てくる干将・莫耶は伝説では鉄剣ということになっている

歴史的なことは古い話なので、よく分からないけど、鉄剣は、ブロンズソードより優れていると無条件には言えない。といって、硬いとか脆いとか感覚的なことを言っても水掛け論なので、剣の性能を測る材料的なパラメータが知りたい、と思った。当然、剣の性能を決めるのは材料以外の要素もあって、大きく分厚く重く作れば頑丈になるだろうけど、そのへんは無視する。古代ローマの鉄剣とか日本刀は、複数の異なる性質の鉄を鍛接して作っていたらしいから、単一の材料パラメータだけ見ればいいというものでもないかもしれないけど、そのへんも面倒なので無視する


日本刀は、高硬度で高靭性とか書いてあったりする。Wikipediaを見ると、"靱性とは、物質の脆性破壊に対する抵抗の程度、あるいはき裂による強度低下に対する抵抗の程度のことで、端的には破壊に対する感受性や抵抗を意味する。材料の粘り強さとも言い換えられる"と書いてある。何を言ってるんだって感じだけど、脆さ(脆性)の反対の性質らしいことが分かる。英語だと、靭性はtoughnessらしいので、分かりやすい。

金属の応力歪み曲線は、変形量が小さい時は、弾性的に振るまう領域があり、ある程度まではHookeの法則が成立する。その後、変形量を大きくしていくと、弾性的に振る舞いつつもHookeの法則の当てはまりは悪くなり、やがて塑性変形する領域に移行する。更に変形していくと、やがて破断を迎える。この応力歪み曲線を、歪み0から破断点まで積分した量は、圧力=単位面積にかかる力=単位体積あたりのエネルギーと同じ次元を持ち、材質を破壊するのに、どれくらいのエネルギーが必要かという指標になる。これが大きければ折れたり刃こぼれしにくいということになるので、武器に使う材質としては、このエネルギーが大きい方がいい。

弾性変形する領域がなくて、塑性変形する領域が大きいと、ちょっと強い力を加えただけで、変形したまま戻らないということになって、それはそれで困るけど、このへんの問題は、あとで考える。また、材質によっては、塑性変形する領域が殆どなくて、弾性変形できる限界を迎えると、いきなり壊れたりする。これは脆性破壊と呼ぶ。金属ではないけど、ガラスとかは脆性破壊を起こす材料。これは、一般的な「脆い」というイメージに対応する。十円玉(銅・亜鉛・錫の合金)とかは(曲げたことないけど)多少曲げても、いきなり折れたりはしない。何回も曲げたり戻したりしてると、金属疲労を起こして折れやすくはなるけど、それは今は考慮の対象としない

この応力歪み曲線を積分して得られるエネルギーは破壊エネルギーとか破断エネルギーとか呼ぶらしい。破断エネルギーを大きくするには、破断する歪み量は大きく、かつ応力歪み曲線の最大応力値が大きいことが望ましい。前者は、伸び率、後者は引張り強度で定量化されることが多い。ゴムなんかだと、伸び率は、数百%に達しうるけど、鉄系合金だと、数十%がいいとこのよう。現実に剣を引っ張ったりすることは殆どないと思われるので、曲げ強度という量を使うほうが、より適切かもしれない


硬さ。材料界隈では、「硬い」と「固い」は、違う用語なのかもしれない。一般的な硬いというイメージは、変形しにくいということで、変形のしにくさを測る指標としては、Young率(縦弾性係数)がある。ゴムのYoung率は、1?10MPa程度とされ、銅が125GPa、純鉄では205GPa、ダイヤモンドでは1000GPaとなるので、常識的な「硬い」という認識に対応しているように見える。応力歪み曲線では、Young率は、歪みが0付近での曲線の傾きの大きさとなる。まぁ、ゴムのように簡単に変形するようでは剣の素材として使えない(武器としては、鞭とかあるけど)けども、実際のところ、殆どの金属では、Young率が50〜200GPaくらいの範囲なので、金属間での差異が問題になる要素とは言い難い(銅と鉄で2倍も違うと言えなくもないけど)。この意味での「かたさ」は、英語では、stiffnessと呼ばれているけど、紛らわしいことに、いわゆる、工学で使われる硬度とは別の概念となっている。

通常、ダイヤモンドが世界一硬いという時には、モース硬度のことを指している。モース硬度は、「ひっかいたときの傷のつきにくさ」と定義されているけど、定量的な尺度とは言い難い。この硬さは、英語では、hardnessと呼ばれて、stiffnessとは区別されている。硬度には、モース硬度以外に、色んな指標があり、材料界隈では、ビッカース硬度やブリネル硬度などがよく使われるっぽい。これらの硬度は定量的でもある。ビッカース硬度は、「ダイヤモンドでできた剛体(圧子)を被試験物に対して押込み、そのときにできるくぼみ(圧痕)の面積の大小で硬いか柔らかいかを判断する」らしい。ブリネル硬度も、なんか似たようなもので「直径D の球形の金属球を圧子として、圧子を試験面にP の力で一定時間押し当てた後、荷重を除いたあとに残った永久くぼみの面積を測定する」らしい。どちらも、押し込み硬さというものに分類されるよう。

それらしい説明とか見ると、硬さは、工業量(複数の物理的性質が関与する量で、測定方法に依存する)とか書いてあったりする。ビッカース硬度やブリネル硬度の測定の仕方を見ると、材質に塑性変形するまで圧力をかけて、塑性変形が開始する応力を決定しているように見える。塑性変形の開始点は、弾性限界として知られるけど、これを特定するのは難しい。そもそも、この名前は、弾性変形する領域と塑性変形する領域が明確に分かれる印象を与えるけど、多分、そういう理解は正しくない。

材質によって(軟鋼など)は、歪みが大きくなるのに引っ張り応力は下降する降伏現象が見られることがあり、その場合、降伏中の最大応力を、降伏応力や降伏強度(yield strength)と呼ぶ。明確な降伏点を持たない材料の場合は、耐力というものが代用として使われる。正確には、耐力は、永久に残る歪みの大きさを指定しないと定まらないので、0.2%耐力や0.5%耐力などという形で決められる。耐力も、降伏強度(yield strength)と呼ぶらしい。降伏強度は、弾性限界より特定しやすいので、よく使われる。硬度は測定の仕方は明白だとしても、何を測定しているのかよく分からないので、降伏強度の方が、何かを考える時には、便利な量だと思う(慣れている人にとっては、硬度が加工のしやすさの目安になったりするらしいけど)

ビッカース硬度やブリネル硬度の単位は、N/mm^2でMPaと同じ。ビッカース硬度とブリネル硬度の換算表というものがあって、それを見ると前者のほうが後者より値が多少大きくなるらしい。おそらく、圧子を押しこむ時、圧子の方も変形するだろうから、圧子には、なるべく変形しにくい物質を使う方が、望ましいはず。なので、圧子としてダイヤモンドを使うビッカース硬度の方が降伏強度に近いかもしれない。とはいえ、降伏強度は、引張強度より必ず小さいはずだけど、引張強度より硬度が大きくなっている例もある。hardnessは塑性変形の起きにくさの指標であり、上の方で「弾性変形する領域がなくて、塑性変形する領域が大きいと、ちょっと強い力を加えただけで、変形したまま戻らない」とか書いた話と関連する量でもある。

ビッカース硬度は、ダイヤモンドが10000前後(物や測定によって、ばらつきが大きいようだけど)なのに対して、純鉄(工業用純鉄は、炭素含有量が、フェライト相に固溶する最大量0.0218%以下の鉄・炭素二元合金という定義)では100程度らしいので、この基準でも、ダイヤモンドは硬い。純鉄の降伏点は98MPaらしいので、ビッカース硬度とオーダーは合っている。鉄炭素化合物Fe3Cはセメンタイトと呼ばれ、そのビッカース硬度は約1100らしいので、かなり硬い。セメンタイトの炭素量は、6.7重量%(鉄3原子に対して、炭素1原子の割合なので、鉄の原子量55.845と炭素の原子量12から12.0/(55.845*3+12.0)=0.0668)となる

まとめると、破断エネルギーや引張強度、伸び率は、壊れにくさ(折れにくさ、刃こぼれしにくさ)の指標となり、硬度や降伏強度は曲がりにくさ(塑性変形のしにくさ)を表す。ついでに、Young率は、弾性変形のしにくさの指標となる。



というわけで、調べれば良い量と物理的意味が何となく分かった。目安として、木材の引張強度は、数十〜150MPaくらいまで、ばらつきがあり、スギは90MPa、ケヤキは130MPaくらいらしい。伸び率は30%くらいにはなるよう。木材は、普通あまり塑性変形しないので、これも脆性破壊する物質。ガラスの引張強度も、30-90MPa程度らしく、木材と大差ない。ガラスは圧縮強度が900MPaくらいあるらしいけど。石材も傾向としては、ガラスと同じで引張強度は数十MPa、圧縮強度は1000MPa前後のことが多い。ヤング率に関しては、木材は、5-15GPa程度で、ガラスは70GPa程度、鉄系合金は大体200GPaとなる。引張強度は同じような値でも、ガラスや石の伸び率は、多分非常に小さい(1%以下だろう)と思うので、破断エネルギーで見れば、木材は、ガラスや石材より強靭である可能性が高い。

現在、工業的に使われるステンレス鋼も色々種類があるけど、包丁などに使われることのあるSUS440A(Amazonで適当に検索して出てきたステンレス包丁の素材だった)は、焼きなまし状態で、引張強度590MPa、0.2%耐力245MPa、伸び率15%、ビッカース硬度270らしい。


具体的に、青銅の物性を調べようとしたけど、あまり良いデータが見つからなかった。

Bronze#Transition_to_iron
https://en.wikipedia.org/wiki/Bronze#Transition_to_iron

には、"Though bronze is generally harder than wrought iron, with Vickers hardness of 60-258 vs. 30-80,[12] the Bronze Age gave way to the Iron Age after a serious disruption of the tin trade: the population migrations of around 1200-1100 BC reduced the shipping of tin around the Mediterranean and from Britain, limiting supplies and raising prices."と書いてある(適当訳:一般に、青銅は錬鉄より硬く、ビッカース硬度は60-258と30-80であるけども、錫の交易が著しく減退した後、青銅器時代鉄器時代に移行した。紀元前1200-1100年頃の人口移動が、地中海及びイギリスからの錫の運送を滞らせ、供給の減少と価格の高騰を引き起こした)。とりあえず、青銅のビッカース硬度は、60〜258らしい。錬鉄は、炭素含有量の低い鉄と一般的に書かれている。明確な定義はないけど、炭素含有量0.05%以下とか0.1%以下となっていることが多く、厳密には鋼の一種(鋼は炭素含有量が0.0218%から0.214%のFe-C二元合金と定義されている)であるか純鉄であるかということになる。鉄鉱石を直接還元して出来る海綿鉄の鍛打で不純物を除去して作る方法と、銑鉄を脱炭して作る方法がある。Googleが教えてくれた所によると、錬鉄の引張強度は234-372MPa、降伏強度は159-221MPaらしい


青銅であれば錫含有量、鉄/鋼であれば炭素含有量は、性能に影響する。剣に使用された青銅や鉄の組成については、考古学的なデータから得るしかない

EPMA法による殷墟青銅器の分析と古代中国青銅器鋳造法の解明
https://www.jeol.co.jp/applications/detail/1054.html

に、古代中国の青銅器の銅・錫比の調査結果があり、錫含有量は、10〜20%程度らしい(Fig8)。Fig9に、組成ごとの物性値がある。出典の一つとして、"Metallography and microstructure of ancient and historic metals"という本が引かれていたので、Google booksで眺めてみたところ、121ページのAppendix G,Fig197に同じような図が見つかった。本の方は、グラフデータの内、一部しか数値の大きさが分からないけど、上の報告にあるグラフとは、一部傾向が異なる。本の方では、錫含有率が10%の時のブリネル硬度は100を超えているが、上の報告の方では、6〜70くらいのようになっている。伸び率は、本の方では、錫含有率が7〜8%くらいの時がピークとなっているけど、上の報告では、3%の時がピークとなっている。試験片によって、これくらいの違いが出るものなのか、どちらかが正しくないのか私には分からない

国際的な金属材料の規格の一つにUNSというのがあるらしく、それのC90200というのは、錫青銅らしい。錫と銅以外は、微量の元素しか含まないので、定義上の青銅に近い。錫含有率は、6〜8%くらい。引張強度262MPa、0.5%耐力110MPa、伸び率は30%、ブリネル硬度は70と書いてある
https://alloys.copper.org/alloy/C90200

C90700は、錫含有率が10-12%で、引張強度250-350MPa、0.5%耐力120-200MPa、伸び率10-20%、ブリネル硬度60-100。
https://alloys.copper.org/alloy/C90700

他にも、Tin Bronzeと分類されているものはあるけど、亜鉛含有率が5%くらいあったりするので、回避。

上の報告にあるグラフだと、6〜8%の錫含有率では、目視で、引張強度280MPa、ブリネル硬度60、伸び率は10%程度。伸び率の値が3倍くらい異なっている。上の報告のグラフで、錫含有率が、古代中国で武器に使われた15%くらいの場合、目視で、引張強度340MPa、ブリネル硬度90、伸び率2.5%。古代中国以外の地域では、青銅の錫含有率は10%前後のことが多かったようなので、C90200やC90700に近い数値だったと推測される。古代中国で、青銅の錫含有率が高い理由は謎

錫青銅は、現在は、工業的には殆ど使われてないらしく、金属材料のJIS規格には存在しない。代わりに、微量のリンを含むリン青銅というものの物性を見てみる。今の所、古代の青銅器の分析でリンが含まれていたという話は見ないけど。C5210は、Snが7-9%、Pが0.03-0.035%含まれるらしい。C5210には、何を表しているのか分からないけど、質というのがある(熱処理の仕方が違うんだろうけど)。質がHだと、引張強度は590-705Mpa,伸び率は20%以上、ビッカース硬度185-235、弾性限界390MPaらしい。何だかよく分からないけど、性能が随分強化されている。UNS規格では、錫含有量5%程度のリン青銅C51000や10%程度のC52400という材料がある。

https://alloys.copper.org/alloy/C52400

1/2Hardだと、引張強度572MPa、0.5%耐力は記載なし、伸び率32%、ロックウェルB硬度92(ビッカース硬度だと200くらい)という数値が書かれている。錫含有量5%のC51000の1/2Hardで、引張強度450MPa、0.2%耐力372MPaなので、C52400の0.2%耐力も400MPa以上はあるだろうと思われる。性能的に、C5210と大体同じ数値。リンは、青銅内部の酸化物を除去し、機械的性質を向上させるとか書かれてるので、むしろ、青銅本来の性質は、こっちなのかもしれない。


紀元前6世紀頃の中国では、白銑鉄が作られてたらしいけど、ねずみ鋳鉄があったのかどうかは分からない(多分、なかったことはないと思うけど)。炭素含有量の高い高温の固体鉄を、冷却する際に、除冷すると、セメンタイトがFeとCに分解して、組織中に遊離グラファイト(鉄の方は、低温ではフェライト相/組織になる)を生じるのに対して、急冷すると、セメンタイトFe3Cが、そのまま残る。前者が、ねずみ鋳鉄で、後者が白銑鉄らしい。定義は結構曖昧で、両者が混じったまだら鋳鉄というのもあるらしい。

ねずみ鋳鉄の方がデータが多いので、ねずみ鋳鉄を調べると、以下の1967年の古い論文によれば、歪み1%以下で脆性破壊するっぽい。引張強度は200MPa前後になるようなので、これは青銅より低いと思われる。また、青銅の伸び率は、文献値のばらつきが大きいとはいえ、錫含有量を相当増やさない限り、歪み1%で破断とはならなそうなので、多分、破断エネルギーも、ねずみ鋳鉄剣よりは、ブロンズソードの方が、ずっと大きいだろうと推測される

ネズミ鋳鉄における応力-ひずみ曲線と組織との関連について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/imono/39/6/39_480/_article/-char/ja/

JIS規格では、ねずみ鋳鉄が、FC100〜FC350まである。3桁の数字は引張強度を表すようで、ブリネル硬度は201〜277とかのよう。以下のWikipedia情報によれば、ネズミ鋳鉄の引張強度は350MPa、伸び率0.5%、ブリネル硬度260。これは前述の情報に近い。やはり青銅と比べると、伸び率の小ささが目立つ

白銑鉄は引張強度170MPa、伸び率は0.1%以下(?)、ブリネル硬度450とあるので、武器として使える感じではなさそう。春秋時代の中国では、銑鉄の生産が開始してすぐに、可鍛鋳鉄(Malleable iron)もあったと言われていて、これは、Wikipedia情報によれば、引張強度360MPa、伸び率12%、降伏強度230MPa、ブリネル硬度130とある

Table of comparative qualities of cast irons
https://en.wikipedia.org/wiki/Cast_iron#Table_of_comparative_qualities_of_cast_irons

古代中国で可鍛鋳鉄があったと言っているのは、黒心可鍛鋳鉄じゃないかと思うけど、JIS規格では、FCMBで始まる一連の金属材料が相当する。何種類かあるけど、FCMB35では、引張強度350MPa、0.2%耐力200MPa、伸び率10%、ブリネル硬度100程度であるらしい。概ね、Wikipediaの数値と合っていて、錫含有率10~12%の青銅C90700(引張強度250-350MPa、0.5%耐力120-200MPa、伸び率10-20%、ブリネル硬度60-100)と性能的に大差なさそうな値となっている。春秋戦国時代に、可鍛鋳鉄で作った剣は出土してないらしいけど


紀元前に銑鉄を使っているとこは、中国以外の地域では、今の所、知られていないと思う。金属材料のJIS規格では、炭素含有量が0.3%前後の炭素鋼S30Cというのがある。物性値は熱処理によって変わるらしいけど、焼ならしを行った場合、引張強度470MPa、降伏強度285MPa、伸び率25%、ブリネル硬度150前後らしい。低炭素鋼として、SS400という材料もあり、引張強度は400MPa(以上)、降伏強度200-250MPa、伸び率35%前後で、炭素含有量の規定はないけど、0.15-0.2%くらいと言われる。これらの数値は、青銅よりは、優れていると言っていい程度のものと思う

最古の鋼片の検出とその意味
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tayori/106p2.pdf

というのを見ると、ヒッタイトの遺跡から出土した鉄片の一つは、推定炭素含有量が0.1〜0.3%だったろうとか書いてあるので、低炭素鋼の部類で、錬鉄を、そのまま使ってたわけではなさそう(?)。S30CやSS400に近い物性値を持っていたかもしれない。この鉄片が武器用を想定されたものかどうかも分からないけど。

Metallurgical Investigations on Two Sword Blades of 7th and 3rd Century B.C. Found in Central Italy
https://www.jstage.jst.go.jp/article/isijinternational/45/9/45_9_1358/_article/-char/ja/

には、紀元前7世紀の古代ローマ(王政ローマがあったとかいう伝説的な時期)の鉄剣に関する記述があり、5つの炭素含有量の異なる鉄から出来ているとある(ローマのpattern-welded swordは、こういうものらしい)。一番炭素含有量が高いところで、平均0.15-0.25%、低い方では、0.05-0.07%とある。多分、現在の炭素含有量を測っているようなのだけど、数千年経って炭素含有量が変わらないものなのか不明。炭素含有量が減ったりしてないのであれば、古代ローマの鉄も、炭素含有量は、0.3%を大きく超えない程度だったのかもしれない


ダマスカス鋼になると、降伏強度が1GPaを超えるものがあったよう(要出典。逸話を信用すれば、ダマスカスブレードは、しなやかで曲げても折れないと言われる)なので、ダマスカスブレードはブロンズソードよりも圧倒的に高性能だったかもしれない。ダマスカス鋼も、アレキサンダー大王に献上されたとかいう話や、19世紀にファラデーが研究したという話もあることから、多分、生産の歴史は2000年以上に及ぶので、ずっと同じ方法で作られてたかどうかは分からないけど。

隕鉄の場合。情報は、あまり多くないけど、以下の論文のintroductionで、ギベオン隕石から鍛造したロッドが、引張強度402MPa、伸び率5.6%と報告されているとある。当然、使用する隕石や鍛造の仕方によって値は変わるだろうけど、青銅と性能的に大差ないかもしれない。青銅の伸び率の文献値が幅があるので、何とも言えないけど、破断エネルギーで見れば、隕鉄は青銅より脆い可能性もある

The Yield Strength of Meteoritic Iron
http://adsabs.harvard.edu/full/1970Metic...5...63K


青銅より前は、銅の時代があったと言われている。銅斧は出土しているらしいけど、「どうのつるぎ」が実際にどれくらい作られたか分からない。純銅は、C1020(JIS規格)というのが、銅99.96%以上の無酸素銅というものらしい。質Oだと、引張強度250MPa、降伏強度200MPa、伸び率50%、ビッカース硬度50。質Hだと、引張強度350MPa、0.2%耐力350MPa、伸び率4〜5%、ビッカース硬度115らしいので、機械的性質にも相当に差がある。最初に使われた銅は、自然銅だと一般に考えられていて、純度は98%以上はあり、次いで多い成分が酸素というのが一般的なようなので、純銅というよりは、粗銅という感じではある。自然銅は、焼きなましをしてない素の状態では、展延性には乏しいらしいけど、物性値などは分からない。


あと、リン青銅剣を作れば、並の鉄剣と同等以上の性能になる可能性がある。Wikipediaの「りん青銅」の項目には、19世紀頃に、鉄で大規模な鋳造が難しかったので、大砲の鋳造に用いられていたとある。検索すると、1874年に、Phospher-Bronzeというタイトルの論文が出ていた。

Phosphor-bronze
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0016003274903421

論文の著者のC.J.A.Dickの兄弟であるGeorge Alexander Dickという人物は、1874年に、イギリスで、Phosphor bronze companyという会社を立ち上げたらしい。Dick兄弟がリン青銅の発見者というわけではないようで、論文冒頭には、"The invention is due to the owners of the Belgian Nickel Works of Val-Benoit," とあり、個人名などはない。青銅砲の開発のために、色々な配合の青銅を試していた的なことが書いてある。

論文のTABLE IやIIには、pulling stress,elastic stress,ultimate stressという用語が出ているけど、それぞれ、どの概念に対応するか分からん(直訳では、引っ張り応力、弾性応力、破壊応力だけど)。単位は、lbf/in^2かと思う(多分)。TABLE Iは、"Results of ezperiments to ascertain the Tensile Strength and resitance to Torsion of various Wires."あるけど、lbf/in^2としてMPaに換算すると、焼き鈍した状態で、pulling stressが、

銅: 255MPa
真鍮/黄銅: 355MPa
charcoal iron(木炭で精錬した鉄っぽいけど詳細不明): 318MPa
coke iron(コークスで精錬した鉄っぽいけどetc): 422MPa
鋼: 514MPa
リン青銅No.1: 405MPa
リン青銅No.2: 445MPa
...

となる。リン青銅の錫含有量の記載は見当たらない。多分、文章的にも数値的にも引張強度を測定したんじゃないかと思うけど嘘かもしれない。

同様に、TABLE Iによると、焼き鈍した状態でのultimate extension in per ct.(破断する限界の歪み?)は、charcoal iron,coke iron,steelが28,17,10.9%なのに対して、リン青銅は、42.4%〜46.6%となっている。これは、銅の34.1%より高い。リン青銅も、錫青銅と同じように、錫含有率を上げると、伸び率を犠牲にして、引張強度と降伏強度を高めることができるはずなので、リン青銅で、上記の鋼と同等以上の性能を実現できた可能性は高い

ついでに、19世紀のヨーロッパで作られていた鉄の性能が、こんな程度のものだったと分かる。多分、coke ironとcharcoal ironは共に錬鉄だろうと思う。この時代には、橋やレールの鋼材として、錬鉄が一般的に使われていたらしい。coke ironは、パドル法で作った錬鉄だろうけど、charcoal ironは、コークス高炉による銑鉄製造+木炭精錬炉による脱炭なのか、木炭高炉による銑鉄製造+木炭精錬炉による脱炭なのか分からない。

人類がブロンズソードの真の力を引き出すことなく、鉄器時代に移行してしまったのは、残念

IgnatowskiによるLorentz変換の導出のvariation

Lorentz変換の代数的導出
https://vertexoperator.github.io/2018/07/05/ignatowski.html

というのを書いた。

正しいLorentz変換の式を書いたのは、Larmorが最初っぽい(1897年)けど、電磁場と電荷・電流の変換まで考えたのはLorentzらしい。特殊相対論では、光速度不変の原理と特殊相対性原理から、Lorentz変換を説明する。1910年頃、Ignatowskiという人が、光速度不変の原理を仮定せずに、Lorentz変換の導出を与えた。と言っても、光速度が決まるわけないので、任意パラメータが一個残る(上のリンク先の定数γ)。このパラメータγは、大きく分けると、正か0か負になり、それぞれ、対応する変換群は、SO(3,1),SE(3),SO(4)となる。場の理論としては、それぞれ、相対論的場の理論ガリレイ不変な場の理論(※)、Euclidean field theoryが対応する

(※)日本語的には、非相対論的場の理論だと、対称性がISO(n,1)じゃないやつは全部当てはまりそうな気がする

Ignatowskiの論文は、不完全だったとかいう話もあるけど、問題はすぐにfixされて、それ以後、この方法の色んなvariationが出ている。この方法に対するPauliの評価は"from the group theoretical assumption it is only possible to derive the general form of the transformation formulae, but not their physical content"という感じで、特に高くはない。個人的には、光速度不変の原理は、原理と呼ぶには、dirtyすぎる気もするけど、Einsteinの特殊相対論への貢献が、なくなってしまう


で、たまたま導出を見たところ、見通しが悪いと感じたので、自分で考えなおしたのが、上の話。見通しはよくなったと思うけど、あんまり初等的でもなくなった。上の説明だと、一次元formal group law(FGL)の可換性は、本質的に効いていて、回避する術はなさそうに思える(適当な係数環の下での、一次元formal group lawの可換性の証明は、難しいわけではないけど、何も知らずに自分で思いつくのは割と難易度高めな気がする)。Ignatowskiの時代には、formal group lawはなかったし、他の証明見ても、formal group lawは出てこないので、通常は、何か無意識に仮定している物理的条件が存在してるんじゃないかと思ったけど、よく分からなかった。まぁ、どうでもいいけど


Fizeauが1851年に実験によって確認した速度合成則は、今から見ると
f(u,v) = u + v - \frac{u^2 v}{c^2}
だったわけで、可換でないだけでなく、結合的でもない。可換にする最も安直な方法は
f(u,v) = u + v - \frac{u^2 v + v^2 u}{c^2}
とすることで、実験結果とは矛盾しないけど、結合則は満たさない。とか考えていくと、発見的に、正しい速度合成則にたどり着けても、よさそうなもんだけど、そうはならなかった。1851年には、FGLの概念とかなかったので仕方ない

フィゾーの実験
https://en.wikipedia.org/wiki/Fizeau_experiment#Fresnel_drag_coefficient


ところで、Lorentz変換というと、SO(3,1)と思うけど、フェルミオン場との相互作用の記述にスピン接続を使うことを考えると、Spin(3,1)が"本体"じゃないかという気もする。普段、Lie環でばっか考えるので、気にしたことなかったけど。

幾何学的モーメントの不変式とshape analysis

3DCGでよくやるように、何か(向き付けられた)閉曲面があって、その曲面は、三角形に分割(単体分割)されているとする。この時、曲面内部の領域の体積を計算するには、適当な一点Oを取って(特に理由がなければ原点でいい)、Oと各三角形がなす四面体の符号付き体積の和を計算すればいい(三角形の頂点の順序が、面の向きと合っていなければならない)。3DCGで使われるモデルでは、境界が連結でなく、複数の閉曲面からなることもあるけど、その場合でも、この体積計算は有効。

同様の計算は、三次元空間上で定義された関数を曲面内部の領域で積分するのに使える。関数として、最も単純な単項式を選ぶと、これは、曲面内部の領域の幾何学的モーメントで、体積は特に0次のモーメント。この積分の計算自体は、大学一年生の算数で、ちょろいけど、計算結果が書いてあるものを見つけられなかったので、以下に書いた

単体の幾何学的モーメントの計算
https://vertexoperator.github.io/2018/04/30/simplex_moment.html

実際に計算する時、世の中で出回ってる3Dメッシュデータは、non-manifold edge(本来、全てのedgeは丁度2つの異なる面にのみ含まれるべき)を持つことがよくあるので、気をつける必要がある



幾何学的モーメントは、曲面を合同変換した時に、どのような変換を受けるか分かるので、幾何学的モーメントを組み合わせて、形状不変量を作ることができる。これは、Huモーメントの場合と同じ考え方。

Image moment
https://en.wikipedia.org/wiki/Image_moment

Huモーメント不変量は、通常、二次元で定義されていたけど、三次元でも同様に定義できる。世の中には、形状データベースみたいなものを作りたいという需要もあるらしいから、そういうので、使えそうな気もする。何に使うのか、よく分からないけど。物体認識とかで使えそうな気もするけど、一枚の2D画像から3Dデータを再構成するのはしんどいし、自然界には、同一形状の物体というのはあまり存在しない(岩とか木とか)

低次の場合を考える。0次のモーメントは体積でこれは自明に合同変換で不変な量。一次のモーメントは、重心座標(と体積の積)を表すので、これから合同変換で不変な量は作れない。二次のモーメントは、重心が原点と一致するように動かしておくと、残りの自由度は回転のみで、モーメントを適当に並べると、2階の対称テンソルをなす。これを回転で動かすと、対角化できる。固有関数は互いに直交する三軸で、固有値は、各軸方向の"広がり"を表す。つまり、二次のモーメントは、物体を楕円体で近似した時の形状を表すと思える。回転不変な量は、対称テンソル固有値の対称関数で、トレースや行列式などを含む。

注)ここの対称テンソルは、正確には、群SO(3)の自然表現の対称テンソル積表現空間の元であることを意味する。SO(3)の表現空間には、SO(3)作用で不変な内積が定数倍を除いて一意に存在(コンパクト群の有限次元表現がユニタリ表現になるのと同様の論法)して、特に、双対空間との同一視ができるので、対称テンソルと対称行列が同一視できる。モーメントが対称テンソルになるというのは、物理では、多重極モーメントとかで使う考え方

従って、2次までの幾何学的モーメントは、0次のモーメントで、大体の大きさ、一次のモーメントで、おおよその位置、二次のモーメントで大雑把な形状(平べったいとか丸っこいとか、細長いという程度の)を表現しており、人間の直感的な捉え方に近い感じがする。より詳細な構造の情報は、もっと高次のモーメントに含まれる。高次のモーメントからも、合同変換の不変量が作れて、これらは"実質的に任意の形状"を分類するのに十分な不変量を与える。尤も、これらの不変量を計算する不変式を一般的に求めるのは、多分難しい


どれくらい難しいか。高次のモーメントから幾何学的Huモーメント不変量を作る問題は、並進自由度は簡単に除けるので、残る回転自由度に関する問題となり、数学的には、

3次元のHuモーメント不変量の計算:「SO(3)の自然表現の高階対称テンソル積表現から、表現空間上の多項式関数で、SO(3)作用で不変なものを見つける」

という形に定式化される。一方、数学では、19世紀に不変式論が研究され、そこでの主要な問題は、現代の言葉では、

19世紀不変式論の基本問題:「SL(2,C)の自然表現の対称テンソル積表現(既約表現になる)の表現空間上の多項式関数でSL(2,C)作用で不変なものを見つける」

というものだった(当時は、既約表現という概念もテンソル積という概念も定式化されてないので、2元n形式へのSL(2,C)作用という形で理解されていた)。SO(3,C)とSL(2,C)はLie環を取れば同型であり、こういう風に定式化すると、3次元のHuモーメント不変量を決定する問題と、19世紀の不変式論で扱われてた問題が非常に似た種類の問題だと分かる。Huモーメント不変量の決定のほうが、次元が大きい分、難易度が高そうに思える。ところで、後者の問題は、多分、殆どの数学者が特に重要な問題じゃないと考えるようになって久しく、現在でも、一般的な答えが分かっているわけではない(確か12次くらいまでは、不変式の生成元が決定されていた気がする)


(離散)曲面上のラプラシアンは、1993年のPinkallとPolthierの論文以来、色々な問題で、よく使われるようになった。cotangent formulaで検索すれば、沢山解説が出てくる
Computing discrete minimal surfaces and their conjugates
https://projecteuclid.org/euclid.em/1062620735

曲面の形状の不変量を得るのに、ラプラシアン固有値と固有関数を見るのは、自然に思える。このような方法は、spectral shape analysisという名前が付いている程度には、ポピュラーらしい。けど、例えば、以下の論文のFig4とか見ると、幾何学的Huモーメント不変量ほど、直感的な情報を与えてくれそうな感じはしない。

Spectral Mesh Processing
http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/summary?doi=10.1.1.229.4191


うまいことやれば、2つの曲面の剛体位置合わせも多分できる。2つの曲面が完全に合同であれば、適当な合同変換で、幾何学的モーメントが一致するようにできる。簡単のため、二次元で考えると、座標のアフィン変換
x' = ax + by + p
y' = cx + dy + q
は6つの量a,b,c,d,p,qで定まるので、最低でも、二次までのモーメントを見る必要がある。アフィン変換に対して、二次までの幾何学的モーメントは
M_{00}' = (ad - bc)M_{00}
M_{10}' = (ad - bc)(aM_{10} + b M_{01} + p M_{00})
M_{01}' = (ad - bc)(cM_{10} + d M_{01} + q M_{00})
M_{20}' = (ad - bc)(a^2 M_{20} + 2ab M_{11} + b^2 M_{02} + 2ap M_{10} + 2bp M_{01} + p^2 M_{00})
M_{11}' = (ad - bc)(ac M_{20} + (ad+bc) M_{11} + bd M_{02} + (cp + aq)M_{10} + (dp + bq)M_{01} + pq M_{00})
M_{02}' = (ad - bc)(c^2 M_{20} + 2cd M_{11} + d^2 M_{02} + 2cq M_{10} + 2dq M_{01} + q^2 M_{00})
のように変換する。2つの曲面が合同であれば、0次のモーメントは等しいはずだけど、多分殆どの場合は、浮動小数点誤差のために、完全には一致しない。拘束条件として、ad-bc=1を課すか、ad-bcのスケールも不定とするかは問題に依存する選択だと思う。


合同変換であれば、ad-bc=1かつa=dかつb=-cである。この条件を課した上で、互いの幾何学的モーメントがなるべく一致するように、パラメータa,b,c,d,p,qを決定すれば、剛体位置合わせができる。一般に、解は一つとは限らない(例えば、球とかの場合)。何らかの評価関数を決めて最小化するというのが一番オーソドックスに思いつく。


というようなことを考えたけど、差し当たって、何かに使おうと思ってたわけではないので、本当に有用かどうかは知らない