パンがなければ合成すればいいじゃない

食糧合成は、食糧を農業によらず化学的に合成する技術を指す言葉で、1960年前後には、割と真剣に検討されていたっぽい。1950年代、1960年代に、日本の科学雑誌で、食糧合成を取り上げた記事を、いくつか見つけることができるし、日本国外にも、この手の検討を行った人はいる。以下は、その例。

(1955年)食料合成の可能性 https://doi.org/10.1295/kobunshi.4.292

(1956年)必須アミノ酸の合成 https://doi.org/10.5059/yukigoseikyokaishi.14.367

(1960年)Chemistry, Food, and Civilization https://www.jstor.org/stable/24534794

(1966年)合成食糧と2人の先達 https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.4.546

(1966年)Chemical and Biochemical Production of Food for Man and Animal https://doi.org/10.2527/jas1966.252575x

(1967年)食糧合成の方向 https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.5.534

(1967年)これからの合成食料(ベランダ) https://doi.org/10.14894/faruawpsj.3.9_639

農業で扶養できる人口の見積もり

人口増加に伴う食糧問題は、19世紀にも、色んな人が言及したテーマだった。

21世紀初頭の現在は、 (1)地球上の農業による食料生産で原理的に扶養可能な人口の上限が見積もれるようになった (2)食糧を化学的に合成するための知識と要素技術が、ある程度揃っている という点で昔とは違う。

(1)の人口の見積もりは、1925年のAlbrecht Penckによるもの以降、何度も行われてきた。現在は、Penckの時代より、光合成の理解も進んだので、もう少し、原理的な上限を考えることができる。

農業にしろ、狩猟採集にしろ、そのエネルギー源は、元を正せば、ほぼ太陽光に由来すると言っていい。狩猟採集では、生えている植物の大部分は、食用には適していない。農業の場合は、雑草などが生えてくるものの、農地に育った植物のかなりの部分を食べることができる。従って、農業は、狩猟採集より遥かに面積あたりの生産効率が高い。現在の地球人口で、大多数の人が、昔ながらの狩猟採集生活に戻ろうと判断した場合、食糧供給は破綻する。しかし、当然、農業でも扶養できる人口は無限ではない。

光合成のエネルギー変換効率から、単位面積当たり年間に収穫可能なエネルギー総量を計算でき、それに基づいて、単位面積あたりで扶養可能な人口の上限を試算できる。人間の食事には、様々な必須栄養素の確保といった目的もあり、エネルギー以外の制約条件もあるが、扶養可能人口は、これより小さい可能性はある。

Wikipediaには、(光合成によって)年間に地球上で貯蔵されるエネルギーは、1.0e18(kJ)と見積もられていると書いてある。出典は、ヴォートの『生化学』となっている。80億人の人間が、一日2500kcalを摂取する場合、年間3.05e16(kJ)が必要になる。単純計算で、現在、人類は、光合成で貯蔵されるエネルギーの1/30くらいを食糧として消費していることになる。これは、食糧廃棄や食糧以外での植物利用(木材や薪炭など)は考慮していない数値。光合成で貯蔵されるエネルギーは、他の生物も利用するものなので、その1/10くらいを人間が利用できるとすれば、扶養可能人口は240億人。

1.0e18(kJ)を陸地面積と一年間の秒数で割ると、大体、0.2(W/m2)程度で、太陽定数1370(W/m2)の1/1000にも満たない。勿論、砂漠や氷雪地帯では、殆ど光合成が行われないので、光合成の効率は、もう少しは大きいだろう。1.0e18(kJ)は、多分オーダーなので、数倍程度の食い違いは生じうる。もう少し、微視的観点からの試算として、

光合成と地球環境
http://hdl.handle.net/2261/53196

によると、日本の場合、単位面積当たり年間に収穫可能なエネルギー総量は、最大で、1.45(W/m2)≒1.0e8(kcal/ha/year)と見積もられている(表4)。これは、光合成のエネルギー変換効率から想定される数値で、割と本当の上限に近いものと思われる。これに、一期作の場合の米作りの期間が、一年の約半分(5ヶ月としている)であること、可食部は収穫物の一部のみである(約50%としている)ことを考慮すると、より小さな値となる。

表6(1992年の穀物生産高)で、米の数値は、おそらく、籾高(英語圏で、paddy riceと書いてある場合は、籾高を指してるっぽい)の数値であって、日本の統計では玄米収量、世界の統計では精米収量(milled rice)が用いられることが多いが、いずれにせよ、可食部重量は籾高より少なくなる(収量は、籾高>玄米>精米であり、精米収量は、籾高の6割程度になるっぽい)。ただ、オーダー計算としては致命的な誤りではない。

現在、世界の農地面積は、約14億haで、世界の陸地面積の1/10を占めていると見積もられている。世界全体の農地増加ペースは、数十年前から、かなり緩やかである。仮に、農地面積がこれ以上増えず、農業技術が物凄く向上して、世界平均で、農業のエネルギー利用効率が、0.5(W/m2)を達成して、かつ、100%が人間の食糧になっても(つまり、家畜飼料や廃棄は一切ないという理想的状況で)、一人一日消費カロリー2500kcal換算で養える人口は、500億人である。

Penckによる見積もりだと、上限は、約160億人とされていたそうだ(Penckが農地面積として、どの程度を想定していたかは知らない)。例えば、農業のエネルギー利用効率が年間平均0.25(W/m2)で、家畜飼料や廃棄によるロスが50%程度あると仮定すれば、農地拡大なしに扶養可能な人口は、125億人程度にまで減る。

現時点で、農作物には、備蓄に回される分、家畜の飼料になる分や廃棄など、非食糧用途の利用が、結構あると思われる。どれくらいあるか目安をつけるために、現在の世界人口を約80億人として、主要穀物の生産量(2020年)から、作物ごとに賄える一人一日あたりのカロリーを計算すると、以下の表のようになる。

生産量(Mt) カロリー換算係数(kcal/g) 一人一日カロリー(kcal/人・日)
とうもろこし 1125 0.92 354
小麦 775.8 3.5 930
精米 505 3.5 605
大麦 159.74 3.5 191
じゃがいも(2017年) 388.2 0.76 101

Mtは、メトリックトンじゃなく、メガトン。合計すると、2000kcalを超えるので、非食糧用途の消費が結構多いと思われる。一人一日の総摂取カロリーに占める穀物の割合は、国によって違うけど、800~1200caklくらいと見積もられているらしく、生産された穀物の半分以上は、直接、食糧にはなっていないということになる。穀物に関する限り、直接、食糧になるのが、生産量の50%という見積もりは、現在のところ悪いものではないと思われる。

20世紀には、色々な方法(肥料、農薬、品種改良など)で、面積あたりの農業の生産性を向上させてきたが、上文献の見積もりによれば、いくつかの地域と作物では、おそらく、上限に近い水準に達している。このことを確認する。

農林水産省が公開している作物統計によれば、2019年の水稲作付面積は1469000(ha)で、収穫量(1.70㎜のふるい目幅で選別された玄米の重量)は、7762000(t)で、反収は5.28(t/ha)となる。玄米の重量あたりカロリーを、3.5(kcal/g)とすれば、年間平均で、5280e33.5e34.185/(365864001.0e4)=0.245(W/m2)だったということになる。あるいは、米作りの期間が5ヶ月であるとすれば、この期間のエネルギー利用効率は、0.6(W/m2)に近い。可食部が50%とすれば、非可食部も含めたエネルギー利用効率は、1.2W/m2ということになるので、これは、上文献の限界値に近い。

一応、米の生産量について、他のデータと整合性をチェックしておく。7762000(t)を、(全部国内で消費し、かつ外国からの輸入を考慮しない場合)、人口と年間日数365で割ると、一人一日当たり177g程度の割り当てになる。精米にすると、もう少し減るけど、炊くと2倍ちょっとの重量になるそうなので、一日で茶碗2〜3杯程度の米を食べてる感じだろう。

また、玄米の相対取引価格(令和二年、米に関するマンスリーレポート)は、60kgあたり15000円くらいなので、収穫量7762000(t)は、(全部販売したとすれば)2兆円弱の売上になる。検索すると、米農家の戸数は、約93万9千戸(2015年)とあり、ざっくり100万戸として、一戸あたりでは、200万円程度の売上という計算になり、ここから諸経費等を引いたものが収入だろう。現代日本世帯年収200万円を下回るのは厳しいが、米農家は兼業農家が多いそうで、こんなものかもしれない。

他の作物についても見ておく。出典は、FAOSTATのCrops and live stock produtcsで、2019年の日本のデータ。

作物 英語名 反収(kg/ha) カロリー(kcal/g) エネルギー効率(W/m2)
じゃがいも Potatos 29869 0.76 0.30
小麦 Wheat 4900 3.5 0.23
大麦 Barley 3621 3.5 0.17
人参・カブ Carrots and turnips 33671 0.37 0.17
りんご Apples 19489 0.54 0.14
かぼちゃ Pumpkins, squash and gourds 11123 0.91 0.13
なす Eggplants 34879 0.22 0.10
キャベツ等 Cabbages and ... 41696 0.23 0.13
ぶどう Grapes 10404 0.59 0.081

主食になってる穀物類は、効率が高い傾向にあるが、概ね、近い水準にある。

農地拡大なしでも、他の条件次第で、扶養可能人口は結構幅はある。農地面積は増やせるかもしれないが、収穫逓減に対抗する技術が必要になるだろう。20世紀にも、かつては、農業に不向きだった土地を農地化したケースはある。例えば、鹿児島は、昔は、稲作に向いておらず、江戸時代には、サツマイモが栽培されるようになったが、20世紀半ば頃、灌漑施設が整備され、現在では鹿児島県の水稲の生産性は日本の他地域と大差ない。現在、砂漠化している陸地面積は、約36億haと言われてるので、緑化できれば、大幅な農地の増大はできるかもしれない。

今の所、2100年の人口予測は100億人前後となっているし、最近は、出生率の低下を心配してる国が増えてきた。たとえ農地がそれほど拡大しなくても、食糧不足について、差し当たって大きく心配することはないようにも思える。

このまま農業に依存した食料生産を続けても、当面(現在生きてる人が全員死ぬまでの期間程度)問題なさそうだけど、数十年後の人口予測なんか当てにならない。例えば、ありそうなシナリオとしては、老化の治療による死亡率の大幅な低下が考えられる。

それに、地球が寒冷化して農業が大打撃を受ける可能性が今後もないとは言えないし、農業を自動化するより化学プロセスを自動化する方が多分簡単。動植物、微生物関係なく、不殺生を実現できる可能性があるので、食糧合成技術は、真のジャイナ教徒にも優しいかもしれない(他の戒律に触れないかは知らない)。

食糧合成で扶養できる人口の見積もり

農業で利用可能なエネルギー源は太陽光だけど、食糧合成には、そういう制約はない。といっても、石油とかの正確な埋蔵量はわからないし、ここでは太陽光発電を利用した場合の食糧合成を考える。同じ太陽光依存なので、農業との比較も公正な気がする。

Googleが教えてくれる"設置面積あたりの太陽光発電の設置可能容量"の表には、設置面積30坪=99.17(m2)で、年間発電量が11400kWhとある。これは、13.1(W/m2)に相当する。上に挙げた文献「光合成と地球環境」では、日本が存在する中緯度地方で、"地表付近の実効太陽定数(※)"を145(W/m2)としているので、太陽光発電の効率が10%程度なら、妥当な数値だろう。

※)太陽定数は、大気上端で、太陽光線に垂直な面に入射するエネルギー量で、そのうち地表に届く光は、7割程度とされているが、更に、曇りや雨の日があったり、夜もある。そういった諸々の変動を平均化して、地表付近で、利用可能な太陽光エネルギーを考えている

実際の太陽光発電所を見ても、平均出力は、10(W/m2)前後になるようである。太陽光発電所は、定格出力を公開している場合もあるが、これを敷地面積で割っても、得られる数値は欲しいものではない。定格出力ではなく、実際の年間発電量を敷地面積で割るのがより妥当だろう。実際は、敷地をパネルで埋め尽くしているわけでもないだろうが、そこまで考慮しても、実用上の意味は薄いだろう。

株式会社関電エネルギーソリューションの発電所の実績・事例にある数値を抜粋すると、以下のようになっている。

年間発電量 敷地面積 面積出力 運転開始日
けいはんな太陽発電所 250万kWh 4ha 7.1(W/m2) 2013年12月
有田太陽光発電 3100万kWh 45ha 7.9(W/m2) 2015年10月
山崎太陽光発電 280万kWh 4ha 8.0(W/m2) 2016年11月
赤穂西浜太陽光発電 260万kWh 2.5ha 11.9(W/m2) 2018年6月
けいはんな第二太陽光発電 140万kWh 1.0ha 16.0(W/m2) 2018年9月

下に行くほど、運転開始日が新しく、面積あたりの発電量も大きいけど、技術的改善があったのかは定かでない。いずれにしても、単位面積から回収できるエネルギー量という点で見れば、太陽光発電は、農業の10倍以上効率的と言える。

人間は、今の所、直接電気を摂取できないので、人間が利用可能な形に変換する必要があって、その過程で、どれくらい損失が発生するかは何とも言えない。変換効率以外に、元素収支など、他の制約条件も考慮する必要がある。一方で、農地面積の拡大に比べれば、太陽光発電所の拡大には原理的な制約が少ない。

太陽光は、地球に到達しない分は、宇宙の彼方に捨てられてて、これを回収できれば、相当に余裕が生まれる。月面とかで発電して、無線送電するということも原理的にはできる。遠くに発電施設を作ると、メンテナンスが難しいという問題はあるけど、地球外で発電すれば、気象条件や時間帯によって発電量が大きく変動する問題は解消される。

100億人程度の人口を扶養するなら農業でも問題ないと思われるが、1000億人とかになってくると、農業では厳しい。全ての制約を詳細に検討してはいないが、食糧合成なら、それに対応できる可能性がある。

食糧合成小史

19世紀〜20世紀前半

いきなりパンの合成を考えるのは飛躍しすぎなので、最初は、当然、グルコースアミノ酸脂肪酸などの合成を考える。これらの分子が、栄養の基盤であると分かったのも20世紀のことだけど、有機化学の世界では、古く1850年には、ドイツの化学者Adolph Strecker(1822〜1871)によって、アラニンのストレッカー反応が報告されたとされている。また、19世紀末には、ドイツの化学者ヘルマン・エミール・フィッシャーらによって、グルコースやマンノースの化学合成が報告された。

1908年に、池田菊苗は、特許第14805号「グルタミン酸を主要成分とせる調味料製造法」を出願、登録し、1909年には「味の素」の販売が開始されたそうである(グルタミン酸自体は、1866年にドイツのKarl Ritthausenが単離)。この時代は、食品由来のタンパク質を加水分解して、製造していた。

当時は、まだタンパク質を構成するアミノ酸が全て特定されてなかった。ヘルマン・フィッシャーが、ペプチド合成法を確立して、タンパク質は、アミノ酸のポリマーであるという考えが出て、そんなに年月も経ていない。人間にとって、必要な栄養が何かということも、分子レベルで十分理解されていなかったので、食糧を化学的に合成する可能性を想像したとしても、実際に何を合成すべきか明らかではなかった。

1916年に、以下のような論文が出ていて、1910年代には、(主に動物実験によって)いくつかのアミノ酸が、成長や生存に必須であるという考え方は存在していたらしい。

cf) THE AMINO-ACID MINIMUM FOR MAINTENANCE AND GROWTH, AS EXEMPLIFIED BY FURTHER EXPERIMENTS WITH LYSINE AND TRYPTOPHANE87509-3)

cf) Experiments That Changed Nutritional Thinking

タンパク質を構成するアミノ酸20種が全部単離されたのは、1936年にスレオニン(アメリカのWilliam Roseによる)が発見された時で、スレオニン必須アミノ酸の一つである。1930年代には、必須脂肪酸があるということも、徐々に認められつつあった。以下の文献を見る限り、少なくとも、1947年には、タンパク質を構成するアミノ酸が20種類であること、必須アミノ酸が9種類あることなどは、確立してたようだ。

The Amino Acid Requirements of Man
https://doi.org/10.1016/S0065-3233(08)60081-9

また、1930年代には、ビタミンCの化学合成(1933年、Tadeus Reichstein)、ビタミンB1の化学合成(1935年、Robert R. Williams)が報告され、Hermann O.L. FischerとBaerは、1936年に、ジヒドロキシアセトンとグリセルアルデヒドの2つのC3糖から、フルクトース(とソルボース)の合成を報告した。

cf)Synthese von d‐Fructose und d‐Sorbose aus d‐Glycerinaldehyd, bzw. aus d‐Glycerinaldehyd und Dioxyaceton; über Aceton‐glycerinaldehyd III

このグルコースの合成は、生体内の糖新生と解糖系の反応、フルクトース-1,6ビスリン酸<->グリセルアルデヒド-3-リン酸+ジヒドロキシアセトンリン酸に似ていて、解糖系のエムデン・マイヤーホフ経路に名前が残っているGustav Emdenは、1932年に、解糖系の仮説的な過程を提案したそうだから、Fischer&Baerの研究も、それに触発されたのかもしれない。

どうでもいいけど、有機化学には、色んなフィッシャーさんがいる(英語で、フィッシャーというと、Fisherだと思うけど、ドイツでは、みんなFischerとなるっぽい?)。1902年にノーベル化学賞を受賞したヘルマン・エミール・フィッシャー(1852〜1919)は、一番有名なフィッシャー。次に、フィッシャー・トロプシュ法で知られるフィッシャーは、フランツ・フィッシャー(1877〜1947)。そして、グルコース合成を行った(恐らく一番無名の)このFischerは、また別の人っぽい。

1930〜40年代は、栄養の化学的基礎が概ね明らかになった時代と言える。

20世紀後半

食糧合成の検討が本格的に始まったのは1950年代になってからのようである。最初に挙げた「合成食糧と2人の先達」という文献では、

私たちは赤堀先生を中心として昭和27年,合成食糧の総合研究班を結成し,文部省より機関研究費を得て,まず従来の文献をたずねて1,500件の関係文献を集め,食品となり得るあらゆるアミノ酸,有機酸,アルコール類の化学的合成法と,微生物による前記諸化合物の生合成法を調べ,合成食糧研究資料を編纂し,さらにいっそう有効な新合成法の研究に努力したのである.それらの結果,赤堀先生,村上増雄教授らによって新しい各種アミノ酸の合成法が発見され,それらの新旧合成法のいくつかは直ちに工業生産に移され,今日のアミノ酸合成工業に発達したのである.

と、1952年(昭和27年)に食糧合成研究を開始したという記述がある。

アミノ酸発酵技術の系統化調査(PDF)によると、味の素では、1950年代から、アミノ酸の化学合成法の研究を開始したそうで、その後、以下のようにある。

アクリロニトリル一酸化炭素とシアン化水素を結合させるストレッカー反応を応用した方法を完成し、同社の東海工場で工業生産が行われた。この技術は、当時は無尽蔵と言われた石油製品から、食品であるグルタミン酸を作ると言う画期的な技術として称賛され、日本化学会技術賞(1964)、大河内記念生産賞(1965)を受賞した。 しかしながら、短時間の内に消費者の意識は大きく変わり、「食品を化学合成法で作る」というコンセプトは受け入れられない時代になった。ほぼ同時にスタートした発酵法の進展もあって、化学合成法によるMSGの合成工場は1973年に閉鎖された。

アミノ酸ビジネスと技術開発(味の素グループの100年史、第7章2節)には、次のように書いてある。

補足するなら、合成法のあらゆるメリットをもってしても、どうにもならない現実として残ったのは、6番目の環境要因にほかならない。1960年代前半には高い評価を得ていた技術が、わずか10年余りのうちに一転して受容されにくい技術になった。その背景には、化学に対する消費者の劇的な意識変化があった。化学合成技術を最先端技術としてもてはやす時代から、公害の元凶として排撃する時代に変わったのであれば、食品を化学合成で作るというコンセプトは受け入れられない

日本国内で四大公害裁判が始まったのが1967年あたりで、そのへんの出来事を指してるのだろう。

ちなみに、現在は、遺伝子組み換え細菌の利用によって生産効率の向上が図られているっぽい。2009年に開催された「第308回食品安全委員会会合」の議事録

第308食品安全委員会議事概要
http://www.fsc.go.jp/iinkai/i-dai308/dai308kai-gijigaiyou.html

に"遺伝子組換え食品等「GLU−No.2株を利用して生産されたL−グルタミン酸ナトリウム」に係る食品健康影響評価について"という記述が見られ、これは、「味の素」が開発・申請したものらしい。ベースになってるのは、Corynebacterium glutamicumという細菌っぽい。生物種は、安全性審査の手続を経た遺伝子組換え食品及び添加物一覧 (平成25年10月4日)の表を見ると分かる。

元々、この細菌は、協和醱酵工業株式会社の研究者によって、1956年に発見されたものっぽい(論文は1957年)。これは、上の引用文で、「発酵法」と書かれている方法。

Studies on the amino acid fermentation. Production of L-glutamic acid by various microorganism
https://doi.org/10.2323/jgam.3.193

GLU-No.2株というのは、遺伝子組み換え技術によって、生産効率を増大させたものなんだろう。

他に、

アミノ酸の製造について(1962年)
https://doi.org/10.5059/yukigoseikyokaishi.20.676

には、

また構造の簡単なアミノ酸であるグリシン ・DL-アラニンは合成によって製造され、タンパク質加水分解物から分離されるロイシンを主とした中性アミノ酸混合物と共に,合成酒用の用途がひらかれた。戦時中医薬用途の開発されたメチオニンはDL-態で合成利用され,さらに必須アミノ酸を主としたアミノ酸の混合水溶液に輸血代用の効果が認められて,1955年頃より市販が開始された。

のように書かれていて、1950年代には、いくつかのアミノ酸の化学合成が工業的に行われていたようである。メチオニンは、現在でも、家畜飼料用途としての需要が高いらしく、2019年の住友化学のプレスリリースでも、生産体制の強化を行う旨が書かれている。

飼料添加物メチオニン事業の競争力強化について
https://www.sumitomo-chem.co.jp/news/detail/20191001.html

コスト的な観点からすると、化学合成の場合は、炭素源として原油を利用することになるので、原油価格が高くなれば、化学合成は不利になる。化学合成は、原料価格以外に、精製コストの高さで、発酵法より不利になりがちなんだろうけど、実際の精製コストが、どんなものなのか詳細は知らない。

発酵法の場合、炭素源となるのは、遡れば、農作物に由来するだろう。酵母エキスとか使ってたとしても、酵母の培養には、食品から抽出した成分を含む培養液(サトウキビとか使うらしい)を使うものと思われる。なので、現時点で発酵法が安価だとしても、普遍的な話ではなく、食品価格が高騰することがあれば、化学合成法の方が低コストになるということは考えうる。発酵法の場合、人間が食べられない植物を利用する可能性はあるが、大規模に行われてる事例が実際にあるのかは不明。

別に、発酵法と化学合成法を併用していけない理由もなく、例えば、アミノ酸ではなく核酸だけど、

新規イノシン-グアノシンキナーゼを用いたイノシン及びグアノシンのリン酸化による核酸系調味料の製造法
https://ci.nii.ac.jp/naid/500000230297/

には、『(核酸系調味料の製造について)数量面で 、現在(2001年)主流となっている方法は 、イノシン酸の製造においても、グアニル酸の製造においても、発酵生産したヌクレオシドをPOCl3を用いてリン酸化する方法である』と書いてある。

環境調和型オリゴヌクレオチド合成を指向するリン酸とアルコールの触媒的脱水縮合反応の開発研究
https://ueharazaidan.yoshida-p.net/houkokushu/Vol.22/category/pharmacy_03.html

では、2008年の文章だけど、以下のように書かれている。

リン酸モノエステルの合成法は炭素や窒素の化学と比べると合成法の種類が限られており,優れた合成プロセスがないのが現状である.現在,リン酸モノエステルを合成する場合,リン酸化剤として塩化ホスホリルを用いてアルコールと縮合させる方法が汎用されている.しかし,塩化ホスホリルは反応性が高いため,等モル量のアルコールと反応させるとリン酸ジエステルやリン酸トリエステルが副生してしまうという問題がある

生物で、リン酸化反応が果たす重要性を考えると、合成法が限られてるのは意外な感じもする。生物では、特定の生成物だけが欲しいということはない点で、工業化学とは違ってて、生命誕生時には、リンが沢山あって、片っ端から反応したのだろうけど。

グルコースの非生物的・非酵素的合成は、学術研究としては当然あるが、産業利用で検討されたことは、あまりないっぽい。

エネルギー源と炭素源

エネルギー源

1950〜60年代の食糧合成では、エネルギー源も炭素源も、原油が想定されていたが、現在は、 (1)原油がいつ枯渇するのか不明なので、今後も、エネルギー源として原油を利用し続けられるかは不透明である (2)二酸化炭素の排出量を問題視する風潮(本当に問題なのかは別として)があって、原油から食糧合成した場合でも、最終的に体内で二酸化炭素になって放出されることになるので良くないかもしれない という2つの問題がある。

エネルギー源に関しては、太陽ですら、いつかは燃え尽きる(と考えられている)ので、枯渇しない資源はないと思うけど、太陽光が一番豊富な資源なのは間違いないだろう。五年とか十年程度の短期的なスパンでのことは知らないけど、地球人口が現在の何倍〜何十倍にもなるという状況を想定するなら、結局は太陽光発電で何とかするしかない状況が発生すると思われる。

そして、太陽光発電が、農業と比較して効率的なのは、もう確認したので、いいだろう。

炭素固定

炭素源として(原油であれ原油以外であれ)化石燃料を用いて食糧を合成した場合、地球温暖化を心配する人は、燃料にする場合と同様の懸念を持つことになる。地球温暖化を心配しない人も、枯渇時期を検討しておく必要はある。化石燃料の生成速度について、現時点で確実なことが分からないので、問題が顕在化するのが数十年後か数百年後か数万年後か全然分からないけど、不確実な事項が複数ある中で、ブラックボックスにしたまま消費し続けるより、制御可能な技術を開発した方が話は単純になる。

炭素源の候補として、農業残渣を利用するという方法も考えられるけど、食糧に含まれる炭素の数倍程度なので、そこまで多いわけではない。将来的には、現在は未知の技術によって安価に、元素を生成できることも起きるかもしれないけど、現時点では、何も言えない。

そんなわけで、長期的に利用可能な炭素源として、空気中の二酸化炭素を炭素固定する効率的な方法を確立しておくのは望ましいと考えられる。炭素源が空気中の二酸化炭素であれば、それを食糧として消費した後、二酸化炭素を放出しても、単に、二酸化炭素が循環するだけである。

炭素固定には、色んな反応が利用できるだろうけど、メタン生成菌は、水素ガスと二酸化炭素から、メタンを生成し、これによって得られるエネルギーを利用して、ATP合成を行う(資化できる物質は、他にも色々あるっぽいが、最も広く見られる反応は、これらしい)。収支だけ見れば、サバティエ反応と同じ反応っぽいけど、複数の酵素が関与しており、当然、素反応は異なる。

メタン生成菌の生理と利用
https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.30.537

メタン生成菌では、メタンは副産物であって、メタンから複雑な有機化合物を合成しているわけではないっぽいが、工業的には、メタンは、有機合成の出発点として単純であり有用である。とはいえ、メタンを分解する微生物もいないとメタンが蓄積していくばかりになる。メタンを主要な炭素源として利用しているメタン酸化古細菌もいるようであるが、代謝経路の詳細は、未だよく分かってないっぽい。

メタン生成と嫌気メタン酸化の酵素化学
https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu.52.307

同じく、水素ガスと二酸化炭素から酢酸を作れる酢酸生成菌も、割と色んなとこにいるらしい(エタノールと酸素から酢酸を作る発酵とは全く別)。こっちも炭素固定兼エネルギー生成経路になってるようだ。酢酸の非酵素的/非生物的合成法としては、メタノール一酸化炭素から合成するものが工業的に使われることがあるそうだ。

人間にとってメタンは食べれないけど酢酸は食べれるという点で異なるものの、水素ガスと二酸化炭素から、メタンを生合成するのも、酢酸を生合成するのも、途中過程が割と似てるということで、どっちもWood–Ljungdah経路と呼ばれてたりする(狭義には、酢酸生成経路のみを指すっぽい)。メタンを生成するのは、古細菌に多く、酢酸を生成するのは、真正細菌に多いらしい。これらの代謝経路は、LUCA(現生生物の最も新しい共通祖先)が出現した時には既に存在していたという推測もある。

Beating the acetyl coenzyme A-pathway to the origin of life
https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rstb.2012.0258

窒素固定考

メタン生成菌や酢酸生成菌が、炭素固定を行うだけでなく、(エネルギーを消費するどころか)ATPを作り出せる理由は、水素ガスのおかげ。深海熱水中では、水素ガスが豊富に存在するという報告もあり、水素は、光合成より前の時代におけるエネルギー源だったのかもしれない。人間が、この反応を利用して炭素固定を行う場合、水素ガスを、どこから持ってくるかが当然問題となる。現代日本人なら、誰でも思いつく方法は、水の電気分解。けど、当然ながら、そんな方法で炭素固定しても、日本のように火力発電がメインの国では、天然ガス由来のメタンにコストで勝てない。

現在、産業の窒素源となっているハーバー・ボッシュ法でも、似たようなことはある。

アンモニア製造プラントの原料原単位
http://comtecquest.com/RD/rd011.html

では、水の電気分解で、水素ガスを生成した場合に、ハーバー・ボッシュ法で消費されるエネルギー量が書いてある。投入エネルギーの大部分(ここの計算では、94〜95%)は、水素ガスを作るのに使われてるっぽい。アンモニアの冷却・分離コストを無視すると、全体では、22(GJ/ton-NH3)=374(kJ/mol)相当という計算になってる。kJ/molと書いてるのは、アンモニア1モルを製造するのに、374kJのエネルギー消費ということ。

考慮されているのは、水の電気分解による水素生成エネルギー、深冷分離によって空気から窒素を分離するエネルギー、窒素と水素を高圧に圧縮するエネルギー。なんか微妙に途中計算の単位が奇妙(間違っているわけではないものの)だし、あと、水素と窒素の温度をあげる分のエネルギーが入ってない気もする。

後者について、現在のプラントは、摂氏500度くらいで運転してるそうなので、アンモニア1モルの製造について、窒素分子0.5モルと水素分子1.5モルを500度ほど加熱するエネルギーが必要になる。これは、気体定数をRとして、500R=4.157(kJ/mol)の7倍程度のオーダー(二原子分子気体の定圧モル熱容量は、並進、回転、振動自由度を考慮すれば、"高温"で約3.5R)で、ざっくり30(kJ/mol)くらいだろう。

更に、反応が一瞬で終わるのでない限り、反応が終わるまで、温度と圧力を維持する必要があるが、このために必要なエネルギーは、反応速度以外の条件にも依存するので一概には決められない(プラント内が冷える速度は、体積:表面積比で決まるだろう)。あと、これに、アンモニアの冷却・分離コストが加わると書いてある。

生物学的窒素固定では、アンモニア1分子を生成するのに、ATP8分子を使うようである。ATPの加水分解エネルギーを50(kJ/mol)とする単純計算だと、生物学的窒素固定は、400(kJ/mol)程度で機能してることになる。ATP加水分解の自由エネルギー変化50(kJ/mol)は、ヒトの細胞内環境の数値だと思う(標準Gibbs自由エネルギーは31kJ/mol)ので、窒素固定細菌の細胞内環境では、多少値が変わるかもしれないけど、生物の窒素固定は、水の電気分解によるハーバー・ボッシュ法の限界効率と同水準を達成しているのかもしれない。

日本では、メタンなどの炭化水素と水蒸気を反応させて、水素を作る方法(水蒸気改質。フィッシャー・トロプシュ法の逆の反応)が、よく使われてるらしい。この場合、副産物として、二酸化炭素が生じて、この二酸化炭素アンモニアと反応させて尿素が製造できるので、アンモニア製造と尿素製造を一体化できるっぽい。現在、アンモニアのかなりの部分は、尿素合成に使われるようなので、一緒にやってしまうと都合がいいということだろう。

エネルギー的にも、水蒸気改質(多分、高温の水蒸気を作るのにエネルギーの大部分を消費すると思われる)は、水の電気分解より、大分有利なようである。火力発電が主流な現在の日本では、水の電気分解による水素製造は、水蒸気改質による水素製造より経済的にも不利だけど、他の発電方式が主流な場合は、無条件に、水蒸気改質が有利とは言えない。

以下のスライドTABLE12には、現在のハーバー・ボッシュ法で、水素の生成法に応じて、80.5(g/kWh)〜127(g/kWh)程度の効率を実現しているとある(冷却・分離精製コストを含んでるのかは不明)。アンモニアの分子量17(g/mol)と、1kWh=3600kJから、480~760(kJ/mol)程度の範囲にあるという計算。

地球環境にやさしい社会のために、化石燃料から再生可能エネルギー
http://web.tuat.ac.jp/~doce/yumenabi.pdf

差分の280(kJ/mol)は、水の電気分解で水素1.5モルを製造するのに必要なエネルギーと、水蒸気改質で水素1.5モルを製造するのに必要なエネルギーの差に由来すると思われる。上の計算と違って、水の電気分解によって水素を生成する場合でも、水素の生成エネルギーは、半分未満ということになる。何にエネルギーを消費してるのか内訳までは書かれてない。

"経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編"を眺めると、近年のアンモニア国内販売価格は、6万円/t=1.02(円/mol)前後を、うろうろしてる。スライドの生成コストを信用すると、水蒸気改質による場合、エネルギー単価が、7.65(円/kWh)未満でないと利益が出ない計算。例えば、2010年代の日本のLNGとLPGの価格が、おおまかに50(円/kg)で、単純に発熱量が50(kJ/g)とすれば(メタン、エタン、プロパンの燃焼熱がこんなもの)、3.6(円/kWh)で辻褄は合ってそう(火力発電で、エネルギー変換効率が60%なら、燃料費は、6円/kWh)

水蒸気改質の場合、これとは別に、材料としても天然ガスが必要で、材料費は別計上。これも計算しておく。仮に、天然ガスが100%メタンである(LNGの90%以上はメタンらしい)とすれば、理想的なメタンの水蒸気改質では、メタン1モルあたり水素3モルが生成するから、アンモニア1モル当たりメタン0.5モルが材料として要求される。エネルギー源としては天然ガスを使わなくてもいいが、同じ天然ガスを使うとした場合、メタンの燃焼熱は、890(kJ/mol)なので、アンモニア1モルの製造にメタン0.54モルの燃焼が必要で、加えて材料として0.5モルのメタンが必要なので、合計1.04モルのメタンが要求される。従って、100%メタンの天然ガスを使う場合、50(円/kg)=0.8(円/CH4-mol)で、アンモニア1モル当たり0.83(円/mol)が製造にかかる費用となる。

プロパン100%と仮定して計算するなら、50(円/kg)=2.2(円/C3H8-mol)ということになるけど、燃焼熱2200(kJ/mol)で、プロパン1モルから水蒸気改質で7モルの水素が作れる。従って、メタンの計算で使った数値を流用すると、プロパン100%の天然ガスを使う場合、アンモニア1モルの製造に、プロパン0.43モルが必要な計算になり、アンモニア1モルの製造価格は、0.94(円/mol)となる。メタン100%、プロパン100%のいずれの場合でも、アンモニア国内販売価格を下回ってはいる。これに、人件費や装置の保守費、減価償却費などが上乗せされるはず。

水の電気分解によって、水素1.5モルを製造する場合、「アンモニア製造プラントの原料原単位」の数値を使うと、356kJのエネルギーが必要で、これが、メタンの水蒸気改質による水素1.5モルの材料費用0.4円(製造費用は、水の加熱が必要なので、もう少し高いが、簡単のため材料費を使う)を下回るためには、電力価格が4.04(円/kWh)未満になる必要がある。国内の業務用電力単価が10〜20(円/kWh)なので、現時点で、日本では水蒸気改質の方が圧倒的に有利だということになる。

電気料金の国際比較-2019年までのアップデート-
https://criepi.denken.or.jp/jp/serc/discussion/20010.html

の図2を見ると、産業用電気料金が(為替レートにも依存するが)4円/kWhを達成している国はないようである。アメリカの一部地域は電力価格も安いが、天然ガス価格も安いので、水蒸気改質が圧倒的に有利なのは変わらないだろう。

電力会社から電気を買わず、自社で原子力発電施設を構築できるなら、4円/kWhを下回ることはできるかもしれないが、なんか色々(法律的と技術的な)問題がありそうである。水蒸気改質の方は、天然ガスの採掘、冷却と輸送に掛かる費用が必須で、こっちも安くなる可能性はあるが、考え出すとキリがないのでpass。しかし、水素ガス製造について、水の電気分解のほうがコスト的に不利なのは、物理的な制約によるものではないので、将来的に、コストが逆転する可能性がないわけではない。

いつかは、水の電気分解による水素ガスを用いたハーバー・ボッシュ法が経済的に有利という時代が来るのかもしれない。それくらいになれば、炭素固定によるメタン生成も、視野に入ってくると予想される。窒素に比べると、大気中の二酸化炭素濃度は低いけど、それが、どの程度の問題になるのかは、よく分からない。

メタンや酢酸以外の有機物(メタノールやギ酸)をターゲットにした炭素固定も色々検討されてはいる。二酸化炭素アンモニア尿素を生成する反応も炭素固定と言えなくもないけど、そういう言い方をしないのは、尿素有機合成の出発点としては便利じゃないせいだろう。

窒素固定の時も、ハーバー・ボッシュ法以前に、Franck-Caro法という石灰窒素製造法が主流だった時代がある(日本でも、1908年に日本窒素肥料が特許実施権を購入)し、窒素と酸素を反応させて、硝酸を得るBirkeland–Eyde法というものも、1903年に特許が取られ、ノルウェーの会社で、暫くは使われていたっぽい。ちょっと面白い話として、「稲妻」は雷が豊作に結び付いてることから来る呼称だという話があるけど、自然界では、雷によって、この反応に基づく窒素固定が起こってて、豊作に結び付いてるのかもしれない。

炭素固定でも、暫くは、複数の方法が競合する時代が暫く続くのかもしれない。

高分子の合成

水と空気と太陽光から、グルコースアミノ酸を合成したとして、それだけでは、まだパンは作れない。パン生地やうどん生地の素になるらしいグルテンは、名前は聞いたことあるけど、実体は、グルテニンとグリアジンという名前のタンパク質らしい。

Glutenin
https://www.uniprot.org/uniprot/P08488

alpha-gliadin
https://www.uniprot.org/uniprot/Q9ZP09

配列を見ると、(タンパク質としては標準的だけど)結構でかい。これを、化学的手法でアミノ酸を繋げて合成するのは、コストが高く付きすぎる。将来的には、DNAの鋳型から転写、翻訳をin vitroで安価に行う系が作れる可能性もあるかもしれないけど、現時点では、生物に合成させるのが手っ取り早そう。

グルテンフリーのパンでは、片栗粉や米粉を使うらしい。片栗粉の実体は、デンプンで、これは、グルコースのポリマーである。"でんぷんうどん"というものも存在するらしいので、デンプンで、グルテンの代わりができるのかもしれない(ベトナム料理のフォーは、米粉から作るそうだし)。やったことないので本当に片栗粉オンリーでパンが作れるのか定かではないけど、検索すると、卵白、砂糖、片栗粉のみでパンを作ったという人もいる。砂糖は原理的には合成できるし、味付けのためで無くてもいいだろう(料理としては、マズイだろうが)。卵白は、多分、空気を含ませてフワフワした食感を作るためのものじゃないかと思うので、何かで代替はできるだろう。

卵白を含まない起泡性組成物、メレンゲ様起泡物及び食品
https://patents.google.com/patent/JP2011147357A/ja

とかを見ると、セルロースのある種の誘導体が代替として利用できるのかもしれない。用途に応じて、増粘剤、安定剤、ゲル化剤などと表記されるらしい。セルロースなので、多分消化できないと思うけど、食品としては、食物繊維と同系統だろう。

cf)加熱するとゲル,冷却するとゾル溶液となるメトローズⓇ
https://doi.org/10.5458/bag.6.1_64

グルコースポリマーには、セルロース、グリコーゲン、デンプン(アミロースとアミロペクチンの混合物)などあって、異なる性質を持つ。種類が色々あるせいで、樹脂のように化学合成するのは、一般に容易ではなさそうだが、酵素合成はできるかもしれない。

セルロースは、(フッ化β-D-セロビオシルという分子を重合することで)in vitroで酵素合成ができてるっぽい

Novel method for polysaccharide synthesis using an enzyme: the first in vitro synthesis of cellulose via a nonbiosynthetic path utilizing cellulase as catalyst
https://doi.org/10.1021/ja00008a042

酵素触媒重合によるセルロース・セロオリゴ糖の合成 糖鎖工学の新しい側面:糖鎖工学の新しい側面
https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.31.385

また、江崎グリコ株式会社は、アミロースとグリコーゲンの酵素合成技術を持っているっぽい。

グリコーゲンの製造方法(特願2006-537787)
https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-2006-035848/6ED54827558E11EA130EBA8777161A32BC4C3148B82AAAD8B4FB2FDCBFA00E98/19/ja

ジメチルスルホキシド中でのアミロース合成(特願2008-121691)
https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-2009-270012/61BCFD7D7AF23E382A6EB81CC3996BE94340E2C769A24B152F821763828605C6/11/ja

デンプンの酵素合成と利用
https://doi.org/10.3136/nskkk.56.551

調べて初めて知ったけど、社名のグリコは、グリコーゲンに由来するそうで、「グ・リ・コ・ゲ・ー・ン」「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」「チ・ョ・コ・レ・ー・ト」なら、全部6文字で平等だったということになる。創業当初は、カキから抽出してたそう。

アミロース酵素合成は1986年には論文があったっぽいけど、いずれにしろ、意外と新しい技術ということになる。

The enzymic utilization of sucrose in the synthesis of amylose and derivatives of amylose, using phosphorylases
https://doi.org/10.1016/0008-6215(86)85078-9

アミロペクチン酵素合成は、調べたけど見つからないので、ないっぽい(?)。有用性の有無に関わらず、試そうと考えなかったとは思えないので、なにか難しいことがあるのかもしれない。

駿河屋のHPの和菓子技術者になるための必須知識を見ると、デンプンを、どの植物から抽出するにしろ、アミロペクチンの含量が多い(最も少ない小麦で70%がアミロスペクチンとなっている)。

澱粉に水を加えて熱すると、全体が一様にコロイド状態となる」ことを糊化(α化)と呼ぶそうだが、アミロースは直鎖状で、アミロースだけでは糊化しないだろう(やったことないので推測だけど)。そうすると、デンプンでパン生地が作れるとしても、アミロペクチン含量の高いデンプンが必要そうで、現時点では、グルコースアミノ酸から、パンを合成するのは難しいかもしれない。

味の作り方

アミノ酸の味 with 食レポ

アミノ酸単体の味

現在の人類には、パンを化学合成する力はないという結論になってしまった。高分子の合成は大変だけど、そもそも、高分子自体には、一般的に味がないので、食感を作り出すためにしか寄与していない(分解産物は、味にも栄養にも寄与するけど)。デンプンだって、分解しなければ、別に甘味とかない。そんな高分子を作るのは無駄な気もする。

肉や魚を熟成させるのも、タンパク質を分解してアミノ酸にするためという説明は、よく見る。しかし、糖と違って、殆どのアミノ酸は、単体で摂取しても、あんまり美味しくない。味が殆ど感じられないアミノ酸も多い。逆に、アルギニンは、とても苦い上に、特有の臭いがある。アルギニン粉末を直に熱すると、臭いが拡散して、酷いことになる。グリシンは甘味があるが、砂糖ほど美味しい感じでもない。

参考までに、私の主観で、アミノ酸粉末を舐めて感じた味を、以下に記録しておく。主観なので、信用はできない。タンパク質を構成するアミノ酸20種類全部をコンプできなかった。D-アミノ酸に至っては、全く確認できてない。

甘味 旨味 苦味 酸味 塩味
グリシン +
DL-アラニ + +
L-グルタミン酸 +
L-アルギニン ++
L-プロリン + +
L-スレオニン +?
L-ヒスチジン +?
L-リジン +? +?
L-グルタミン +?
β-アラニ +?
タウリン
  • L-α-アラニンは入手できなかったので、DL-アラニンしか評価できなかった
  • β-アラニンは、α-アラニンの構造異性体
  • "+?"とあるのは、ほぼ無味に近く、微かに感じた味を記した
  • タウリンは、ほんとに完全に無味な気がする

以下の論文によると、マウスとヒトの旨味受容体は、アミノ酸選択性が全然違うらしい。

機能解析技術が明らかにした味覚受容体と食物成分のかかわり味の感じ方は生き物それぞれ
https://katosei.jsbba.or.jp/view_html.php?aid=1108

ヒトでは、グルタミン酸が一番強く結合し、アスパラギン酸も他のアミノ酸より強く結合する傾向があるが、それに比べると、残りのアミノ酸は、ほぼ横並びっぽい。一応、ヒトでも、どのアミノ酸も、旨味応答を示すっぽいので、全く旨味がないわけではないのかもしれない。私が旨味を感じなかったものは、旨味が非常に弱いか、他の味が強いかのどちらかかもしれない。

犬猫にも食べさせてみたいけど、飼ってないので試せていない。

ヒトの甘味受容体は、T1R2とT1R3という2つのタンパク質のヘテロ二量体らしい。2002年の論文

An amino-acid taste receptor
https://doi.org/10.1038/nature726

には、マウスのT1R2+T1R3受容体の、いくつかのアミノ酸への応答の強さが計測されている(Figure1(b))。ヒトT1R2+T1R3で、網羅的に、同様の計測をしたデータは発見できなかった。

Human receptors for sweet and umami taste
https://doi.org/10.1073/pnas.072090199

には、複数の物質に対するヒト甘味受容体の応答を計測したデータが載っており、グリシンは、弱い応答を示すようである(Figure2B)。また、ヒトの場合、D-トリプトファンは、とても強い甘味応答を示すようである。データを信じるなら、グルコース、フルクトース、スクロースよりも甘味が強いらしい。D-トリプトファンは、食品添加物としては販売されてなくて、簡単に入手できそうにないので、味を確認できていない。

タンパク質は、L-アミノ酸のみから構成されていることから予想される通り、一般的に、食品のD-アミノ酸含有量は多くないっぽい。マウスの場合、いくつかのD体アミノ酸が甘味応答を示し、L-体のアミノ酸の甘味応答は、極めて弱いらしい。ところで、ヒトである私がL-プロリンを舐めると、甘味と苦味があると感じられる。L-プロリンがヒトT1R2+T1R3受容体に結合するのか、他にも、甘味受容体が存在するのかは不明。

ズワイガニ風溶液の調整

味を決めるアミノ酸(生物工学基礎講座-バイオよもやま話-)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10517786

には、『グリシンやアラニンは,甘味が主体であるが弱いうま味も呈し ,ヌクレオチドとうま味の相乗効果も示す.アルギニン自体は弱い苦味を呈するアミノ酸であるが,ズワイガニでは “こく”と表現されるような複雑な感覚に関わっている.』とあり、他の物質と混ぜることが重要らしい。

このPDFの表2に、ズワイガニ脚肉エキスの成分含量というのがある。この成分はオミッションテストで特定されたと書いてあるが、この表を参考に、以下の成分を混ぜて、味を見た。甲殻類アレルギーの人でも大丈夫なはず(甲殻類アレルギーの原因は「トロポミオシン」タンパクのことが多いらしい)。本物のカニと違って、ボトルに入れて、数日間、室温放置しても腐ったり劣化した形跡はなかった。多分、微生物が繁殖するには栄養が不足しているのだろう。

成分 分量
ミネラルウォータ(SUNTORY天然水) 2000g
グリシン 12.43g
DL-アラニ 3.74g
グルタミン酸ナトリウム 0.44g
L-アルギニン 11.58g
核酸調味料 0.18g
食塩  5.18g
塩化カリウム 7.51g
重曹 (食品添加物) 6.51g
85%リン酸 3.1ml(5.2g)

重曹は、ナトリウムイオン濃度の調整とリン酸の中和という2つの役割を兼ねている。ミネラルウォータは製品によっては、高い濃度で、ナトリウムイオンやカリウムイオンを含んでいることがあり、成分バランスを大きく変化させる場合があるので注意が必要。

PDFの表によると、核酸で重要な成分とされているのは、AMPとGMPであるが、残念ながら、AMPは入手できなかった。GMPも単体では入手できなかったので核酸調味料で代用するしかなかった。核酸調味料は、通常、5'-IMPと5'-GMPのナトリウム塩らしいが、比率などは不明で、100g肉中に含まれるIMPとGMPは合計9mgなので、合計重量で調整した

リン酸は、完全に電離するわけでもなく、1価や2価のイオンとして存在するものも多いはずで、3価のリン酸イオンが重要なのだとしたら、もっと量を増やすべきなのかもしれない。しかし、計算が面倒なので、3価リン酸イオンに含まれるリン原子量を再現すればいいという方針で、85%リン酸の分量を決めている。

少し別の視点での試算も行っておく。ヒトのリン元素重量比は、体重の1%とされ、その85%は骨に存在するそうなので、骨以外の組織に存在するリン原子は、体重の0.1%程度の重量しか占めない。カニでも同水準と仮定して、肉100gに対して、リン原子が100mgくらいあると推測する。316mgのH3PO4に含まれるリン原子の質量は約100mgである。核酸調味料を無視すれば、水2000gに対して、7.4gの85%リン酸を加えることで、肉100gに対してリン原子が100mgという存在比と同等の配分が実現する計算。上記リン酸量は、それより少なめだが、許容範囲内ではあるだろう。

肝心の味に関して、カニなのかどうかは、よく分からなかった。カニだと言われて飲めば、そんな気もしたが、AMPが含まれてないので、カニとは微妙に違うのかもしれない。少なくとも、何も教えられずに摂取して、何の味か問われたとしても、カニと答えるのは難しいように思えた。上記スープを加熱して、ポン酢を加えて飲むと、カニの味だという感じがずっと強まった。どうやら、私の脳内では、カニの味は、ポン酢とセットで記憶されているらしい。

(ポン酢なしで飲んで)美味しいかどうかで言うと、私の味覚は全く当てにはならないが、不味くはないと言っていいと思う。ほぼ無臭なので、物足りなさがあるとすれば、それが理由かもしれない。ごま油と米のみで雑炊にしても美味しい。このスープが何だろうと、多量のアルギニンが含まれているにも関わらず、不味くないのは意外だった。

粉末を舐めた時は気付かなかったけど、アルギニン10gを水100ccに溶かして飲むと、苦いけど、飲み込んだ後、エビやカニっぽい後味が残る。そういや、カニ味噌も苦みがあるけど、あれはアルギニンの味なんだろうか。水100ccにアルギニン1gを混ぜた場合、苦味も薄まるけど、エビ・カニっぽさも減るので、上記分量は、カニらしさを感じるには、少ないのかもしれない。いずれにせよ、グルタミン酸核酸などの旨味物質をドバドバ入れればいいというものではないということらしい。

味とは直接関係ないけど、エビやカニが茹でると赤くなるのは、アスタキサンチンが遊離するためだそうだ。アスタキサンチンは、β-カロテンと非常に似た構造をしていて、吸収されると、βカロテンと同じく、一部はビタミンAに変化するらしい。β-カロテンは、赤い人参の主要色素だと言われている。植物は、複数の色素を持つことが一般的らしく、人参の赤とエビやカニの色が微妙に違うとすれば、そのへんの差に由来するのだろう。赤くない緑黄色野菜にもβカロテンは含まれてて、紫蘇なんかは人参より含有量が多いようなのだけど、アントシアニン色素(ぶどう、紫人参や紫キャベツなどに含まれる。pHによって色が変わるそうなので、食べられるpH指示薬として利用できるかもしれない)によって紫色に見えてるらしい。これらの色素に味があるのかは知らない。

日本食品標準成分表にあるズワイガニアミノ酸成分は、上記脚肉エキスと異なっている。多分、脚肉エキスの成分は、熱水抽出液で、日本食品標準成分表は、タンパク質の加水分解を行っているようなので、脚肉エキス成分は、主に遊離アミノ酸の量を表しているのだろう。実際の料理の味に近いのは、脚肉エキスの成分で、一方、日本食品標準成分表は、味より栄養を評価したものと考えられる。燻製などにすれば、(タンパクの分解が進んで)全体の成分量は、日本食品標準成分表に近付くのかもしれない

特に意図したわけではなかったけど、グリシン、アラニン、アルギニン、グルタミン酸(ナトリウム塩)は、アミノ酸の中では、個人レベルでも、比較的安価に入手できる。現在のところ、1kg当たり1000〜3000円くらいで買える(核酸調味料も1kg3000円程度で入手できる)。タンパク質のアトウォーター係数4kcal/gで概算すると、0.25〜0.75円/kcal相当。一日の摂取カロリーが2000kcalで、食費1500円とした場合、0.75円/kcalなので、一般的な食費と同水準と言っていいだろう。そういうわけで、上記カニ風エキスを作るのに一番金がかかる材料は、水になる。

かつお出汁風溶液の調整

マグロ粉末も作りたいと思ったが、上記のように、味の重要成分が特定されているケースは少ないようで、探しても見つからなかった。1973年の論説

魚貝類の味
https://doi.org/10.3136/nskkk1962.20.432

には、

魚類については,呈味に関係ありそうな個々の成分の分析はかなりよく行なわれているが,前述の無脊椎動物のように,多数の成分を詳しく分析して呈味との関連を解析した例がほとんどないようである。 と書いてあり、50年近く経った現在でも、この状況に大きな変化はないのかもしれない。

食品会社が、データを公開せずに持っているという可能性はないわけではないが、マグロについては、あまり情報がない。かつおは、マグロに近い種だが、かつお出汁について調べた報告が多数ある。上記報告でも、また、1989年に書かれた

かつお節のエキス成分
https://doi.org/10.3136/nskkk1962.36.67

でも、かつお節の遊離アミノ酸は殆どヒスチジンのみで、核酸ではIMPが主だと書いてあって、更に、この報告は、冒頭で

かつお節だし中に多量含まれる遊離ヒスチジンの呈味効果については,ほとんど効果が認められないという報告があるが,同じく遊離ヒスチジンを著量含む赤身魚の肉の味には深い関係をもつと推測する報告もあり,いまだ明解な結論は得られていない.

と述べている。omission testをやる予定と書いてあるが、続報は存在してない。

仕方ないので、重要成分を推理してみる。

まず、ズワイガニ脚肉エキスと比較すると、IMP量が際立って多く、AMPもズワイガニと同水準で存在している。また、ナトリウム、カリウム、塩素イオン濃度も高く、塩味もズワイガニ脚肉エキスに比べて、強そうである。グルタミン酸量は、ズワイガニ脚肉エキスと同水準なので、旨味には寄与して可能性が高い。IMPの量を勘案すれば、旨味もズワイガニより強いのかもしれない。グリシンズワイガニ脚肉エキスより顕著に少なく、数%しかないが、アラニンはズワイガニ脚肉エキスの1/3ほど存在しているので、弱いが甘味に関与してると推測される。

ヒスチジンは、わずかに苦味がある気がするので、大量にあれば、苦味に一定の貢献をしている可能性はある。マグネシムイオンも、そこそこあり、塩化マグネシウムは、にがりの主成分だから、これも苦味に寄与してるかもしれない。また、かつお出汁は、乳酸量が多い。かつお節を煮詰めすぎると、酸味が出るというのは、よく知られたことらしい。逆に、カニにポン酢を合わせるのは、足りない酸味を補っているのかもしれない。

通常、かつお出汁のpHは、5〜6程度らしい(自分で測定したわけではないが)。発酵調味料である味噌や醤油は、乳酸菌が産生した乳酸を含んでおり、pHは5.0を若干下回るそうだ。かつお出汁の酸味は、強いというほどでもないらしい。

ズワイガニ脚肉エキスでは、リン酸イオンが重要成分として挙げられているけど、その影響は不明。リン酸自体は、強い酸味を持つが、それは水素イオンの効果で、リン酸イオンの方に味があるのかは分からない。他に陽イオン成分として存在すると考えられ、栄養上も重要である鉄や亜鉛などは測定されてないが、これらの含有量は、ほぼすべての食品で、100g中10mg未満なので、ナトリウムやカリウムイオンなどに比べれば、相当に少ない量しか存在しないと予想される。

総合的に見ると、かつお出汁は、ズワイガニ脚肉エキスに比べて、旨味と塩味が強く、甘味と苦味は弱めで、酸味もあるというバランスだと推測される。

上の報告中のかつお節エキス成分には、100g中乳酸量が3.415gと書かれているが、水100gに乳酸3.415gを混ぜると、とても酸っぱい。計算上のpHは、2.1強になる。しかし、仮に、乳酸の味への寄与が、酸味のみだとすれば、乳酸の量は、酸味が殆ど感じられなくなる程度まで減らしてもいいだろうと予想される。

以上の推測のもと、以下の溶液を調整した。市販の乳酸には、二量体の無水乳酸が結構含まれてるそうだけど、もし、無水乳酸が全く含まれてなければ、以下の分量で、pHが6くらいになるはず(計算が間違ってなければ)。 | 成分 | 分量 | |:--------------------------:|:------------------:| | ミネラルウォータ | 550g | | DL-アラニン | 0.28g | | グルタミン酸ナトリウム | 0.13g | | L-ヒスチジン | 11.0g | | 核酸調味料 | 2.6g | | 食塩 | 6.1g | | 塩化カリウム | 7.2g | | にがり | 2.7g | | 90%乳酸 | 3.3g |

雑炊を作ったところ、美味しかった(雑炊ベンチマーク)。海産物感はあったけど、かつお出汁なのかは不明。そもそも、昆布出汁とセットでお出しされるのが一般的な気がするので、かつお出汁単体で摂取した経験が自分にあるのか分からない。世の中には、「にんべん 液体かつお節だし」という商品があるようで、これと比較すればよさそうだけど、1L単位で販売されてて、使いきれる気がしないので、未購入。

この溶液は、塩分と核酸調味料が比較的多く、塩水とは違うのは明らかだけど、単純に、核酸調味料の味なんじゃないかという疑惑はある。それを調べるために、上記分量比率を固定して、以下の成分のみを含む溶液も作った。

(1)水+核酸調味料のみ

(2)水+核酸調味料+グルタミン酸ナトリウム

(3)水+核酸調味料+グルタミン酸ナトリウム+L-ヒスチジン

(1)(2)(3)のいずれも、味が薄くて、出汁と言うより味の付いた水という感じだった。かつお出汁風溶液の味は、核酸調味料のみで再現できるものではなく、塩味は重要らしい。L-ヒスチジンは、現在のところ、比較的高価な方のアミノ酸なので、不要なら使わずに済ませたいところだが、(2)と(3)には、味の違いがあるように感じられた。

L-ヒスチジンが高価なので、現時点では、かつお節から出汁を取るほうが、上記溶液より安価だと思う。

自作合成醤油

Wikipediaによると、第二次大戦中には、既に代用醤油というのが製造されていて、人毛醤油も検討されたとか書いてある。

実験室でのアミノ酸醤油の作り方
http://www.eiyotoryoris.jp/archive/ER10_06_/ER10_06_010.jpg

は1944年の資料だそうだが、18%塩酸でタンパク質を加水分解しと後、重曹でpHを調整する的なことが書いてある。アミノ酸の比率は、あんまり関係ないのかもしれない。異世界転生して醤油が欲しくなった時には、有用な可能性もある。

醤油の組成も、Wikipediaに詳しい。アミノ酸では、グルタミン酸が多い。また、無機イオンでは、ナトリウムが突出している。これは、塩分の濃さを考えれば当然。醤油の色は、メイラード反応によるものと書いてあるが、本当かどうかは分からない。Wikipediaには、核酸の組成が記述されていない。

市販加工醤油の分析
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010690655

の表3を見ると、昆布醤油という名称の商品では、イノシン酸グアニル酸は殆ど含まれていない。昆布醤油は、砂糖やぶどう糖も比較的少ない。

昆布醤油が成分的に一番意外性があったので、これを模倣することにして、以下の溶液を調整した。

成分 分量
ミネラルウォータ 100ml
食塩 14g
砂糖 3g
90%乳酸 1.1g
グルタミン酸ナトリウム 0.7g
グリシン 0.3g
DL-アラニ 0.3g
L-アルギニン 0.5g
L-プロリン 0.5g

混ぜながら、これただの塩水だろと思ったけど、完成品の味は、意外と、醤油感があった。検索すると、「もろみ」の食塩濃度は、16〜19%くらいに調整されると書いてあるので、食塩濃度は、こんなものでいいっぽい。

無色透明の醤油というのは、食欲が削がれるので、色を付けたいと思って、上記溶液で、メイラード反応が起きんかと、100度程度で10分ほど加熱したけど、色は付かなかった。

料理を科学する!~至高の食を目指して~
http://www.hikonehg-h.shiga-ec.ed.jp/blog/wp-content/uploads/2020/08/0765daf40c7ddb7dbe631260fa600100-2.pdf

を見ると、90〜95度では、スクロースグリシンorリジンと混合して、加熱しても着色しなかったとある。メイラード反応で着色するなら、グルコースでもリジンでも、フルクトースが一番いいようだ。pHは、塩基性条件下で反応が速かったとあり、酸性条件下では全然ダメっぽいので、乳酸は、着色後に追加する方がよさそう。いずれ、気が向いたら試してみようと思う。

メイラードの原論文は電子化されてないのか見つけられなかったけど、以下の論文に、メイラードがやったことが多少書かれている。

アミノーカルボニル反応のLouis Camille Maillard (1878~1936)
https://doi.org/10.1271/nogeikagaku1924.56.1199

スクロースグリシンは短時間加熱しても着色しないが、3時間加熱すると(恐らくスクロース加水分解されて)着色が始まるそうだ。また、キシロースは、ヘキソースよりも反応しやすいと書いてある。

戦時中のアミノ酸醤油は、カラメルで色を付けていたそうで、スクロースでやるなら、その方が簡単だろう。

醤油の香味成分HEMF
https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.101.151

によると、香気成分は無数にあるが、酵母が生合成するHEMFという物質とエタノールが混ざると、醤油様の香りがすると書いてある。HEMF単体では、甘い香りがすると書いてある。

HEMFは、構造的には、フラネオールと呼ばれる物質に似ていて、フラオネールには、ストロベリーフラノンという呼称もある通り、苺の匂いを呈するのだと思われる。HEMFをフラオネールで代用できるかは分からない。

HEMFは、化学的な名称は、4-ヒドロキシ-2-エチル-5-メチル-3(2H)-フラノンで、ストロベリーフラノンは、4-ヒドロキシ-2,5-ジメチル-3(2H)-フラノンで、一箇所、エチル基かメチル基かという違い。

食肉

海産物は、出汁(熱水抽出液)の分析が多いけど、牛、豚、鶏なんかでは、ミンチにして、肉の遊離アミノ酸分析がされている。

食肉の遊離アミノ酸
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010721305

では、2%スルホサリチル酸を加え、ホモゲナイズしたと書いてるので、ミンチにしてるっぽい。

ズワイガニ脚肉エキスに比べると、全体的に遊離アミノ酸量が少ない。その中では、牛、豚、鶏共に、グルタミンとタウリンが多い。牛ではグルタミンの方が多く、鶏ではタウリンの方が多い。豚は、その中間で、重量比で、ほぼ同量。ただ、グルタミンもタウリンも、単体では、殆ど味がないので、かつお節のヒスチジンと同じく、あんまり意味はないかもしれない。

アンセリンカルノシンのようなジペプチドも多いが、味に影響してるのかは分からない。牛や豚には、結構な量の尿素が含まれるが、鶏にはない。これも理由不明。

異なる品種間の鶏肉における遊離アミノ酸、ジペプチド、イノシン酸
http://www.naro.affrc.go.jp/org/tarc/to-noken/DB/DATA/063/063-073.pdf

でも、鶏肉をミンチにして分析したと書いてある。ズワイガニ脚肉エキスと比べると、アミノ酸量が少ないのは変わらないが、IMP量も測定されていて、これは、ズワイガニに比べて、とても多いが、かつお出汁よりは少ない。グルタミン酸量は、かつお節出汁やズワイガニエキスより少し多い(しかし、これは前者の報告では、もっと少なくなっている)。鶏肉の味は、ほとんど旨味なのかもしれない。なんか海産物に比べて、面白みがない。そして、牛肉、豚肉、チキンの味の差が何に起因してるのかも、よく分からない。そもそも、これらの肉の(匂いや食感を除いた)"純粋な味"に本当に差はあるのだろうか。

もっと多くの食材で、味の重要成分を特定してもらいたいものである。人肉の味とか化学的に作れれば面白いと思う。アミノ酸や無機イオンの定量分析は、高価な機械なしでも、比較的容易に家で実施できると思うので、自分でやるべきかもしれない。

全体的に、一発勝負で混合しただけの割には、そこそこの物ができたので、味を特徴付ける成分というのは、意外と少なく、味を作るのは、それほど難しくないのかもしれない。マッポーの世では、カチグミ・サラリマンが、"天然物は香りが違う"とドヤるのかもしれない。

アミノ酸以外の味

核酸単体の味については、1968年の古い報告

ヌクレオチド系呈味成分と調理
https://doi.org/10.11402/cookeryscience1968.1.1_12

によると、美味しさでは、5'-IMPと5'-GMP、5'-XMPが強いらしい。ATPの重要性を考えると、5'-AMPは、もっと美味しくてもいい気もするけど、単体では、それほどでもないらしい。ただ、前述のカニのように、食品の味を特徴付ける重要な成分としては、カウントされていることもある。

味の評価に於いて脂質の影響は考慮されてないことが多い。1970年に書かれた

油脂の味
https://doi.org/10.5650/jos1956.19.612

を見ても、油脂は、基本的には無味無臭だとか書いてある。

トリアシルグリセロールを分解するリパーゼは、ヒトの唾液にも含まれているらしく、そうすると脂肪酸が遊離することになる。教科書的には、リパーゼは、胃液や膵液での記述が中心なので、昔は、知られてなかったのかもしれない。炭素数の少ない脂肪酸は、水に溶けて酸味成分となり、また揮発しやすく、香りの元でもある(小さい例は酢酸で、場合によっては、臭い)。

脂肪酸の炭素数が増えるにつれて、揮発しなくなり、水にも溶けにくくなる。長鎖脂肪酸は、水に不溶とされている。21世紀に入って、(長鎖)脂肪酸が基本味だという報告もされている。

脂肪酸の美味しさ不味さの生体メカニズムの解明へ向けて
https://doi.org/10.5650/oleoscience.21.261

Free fatty acid receptor 1 (Mus musculus)
https://www.uniprot.org/uniprot/Q76JU9

Free fatty acid receptor 4 (Mus musculus)
https://www.uniprot.org/uniprot/Q7TMA4

Free fatty acid receptor 1 (Homo sapiens)
https://www.uniprot.org/uniprot/O14842

Free fatty acid receptor 4 (Homo sapiens)
https://www.uniprot.org/uniprot/Q5NUL3

マウスでは、FFAR1とFFAR4が、直接の受容体として機能しているそうだが、それぞれのアナログがヒトにも存在する。ヒトFFAR4は脂肪酸受容体として機能してるらしいが、ヒトFFAR1も脂肪酸受容体として機能してるかは分からない(そもそも、舌で発言してるかも)。Wikipediaによると、唾液中のリパーゼの至適pHは5前後であり、弱酸性食品だと、口内での脂肪酸分解が促進され、脂肪味も感じやすくなるかもしれない(つまり、ココアはpH5にして飲むべき?)

高度不飽和脂肪酸と鶏肉とのおいしさの関連性の解明(1)
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010831952

は、鶏もも肉の遊離アミノ酸含有量と脂肪酸含有量を調べている。遊離アミノ酸の量やIMPの量に関しては、既に見た他の報告と同じ傾向にある。そして、意外でもないけど、脂肪酸組成は、中華調味料の鶏油とよく似ている。

匂いは、微量の揮発成分に由来し、アミノ酸脂肪酸の分解、糖とアミノ酸の反応などによって生じるものと思われる。未調理状態での匂いは、良いものばかりでもなく、例えば、肉や魚は、それぞれ特有の生臭さがある。こうした匂い成分も、それなりに特定されているようだ。

魚の生臭さとその抑臭
https://doi.org/10.5650/jos1956.29.469

揮発性成分を指標としたベニズワイの品質評価(第3報)
https://tiit.or.jp/userfiles/report2014/yanohara.pdf

では、63種類の揮発成分が列挙されている。中には、食品添加物として利用されてる成分もある。カニで揮発成分の一つとして挙げられているヘキサナールは、豆臭の主成分とされ、大豆に於いては、リノール酸が、酵素的に分解されて生じるという報告もある。ヘキサナールは、リノール酸が自然に酸化する過程でも、ある程度は生じると思われ、酵素的に作られるのが、どれくらい一般的かは知らない。他の揮発成分も、自然に生成したものも含まれてるだろう。

食べるためだけに高分子を合成する意味は、あまりないが、高分子を含まない食事を、何世代も続けていると、"進化"によって消化能力を失うかもしれない。尤も、その頃には、遺伝子改変技術も進歩してるだろうから、そうなったとしても、問題ない可能性もある。