牛乳有害論

牛乳有害論というのがあるらしい。日本に於ける主要な出所は以下の2冊の本っぽい

乳がんと牛乳──がん細胞はなぜ消えたのか
http://www.amazon.co.jp/dp/4770502001

葬られた「第二のマクガバン報告」(原題:The China Study)
http://www.amazon.co.jp/dp/4901423142

著者は、経歴的には、どっちもまともな人っぽいので、読んでみた。どっちも突っ込みどころが多いけど、推論の根拠として、査読付き論文を沢山あげているのは、よい点だと思う。


(1)乳がんと牛乳
基本的な主張は、牛乳が、乳がんの主要な原因であるというもの。書いてあることは、ほとんどの部分で比較的まとも(読む価値があるほどとは思わないけど)で、4章以外は大きな問題はない。4章は、牛乳が何故乳がんの危険因子になるかという説明をしている。要旨は「牛乳中にはウシIGF-1が含まれ、それはカゼインで保護されることによって、消化管から直接吸収されることで、血中のウシIGF-1濃度をあげ、ウシIGF-1とヒトIGF-1は相同性が高いので、ウシIGF-1の作用によって、乳がんの増殖が促進される」という感じ。


IGF-1が乳がんを増殖させるのは、IGF-1に限らず成長因子は細胞表面に受容体があれば、細胞を成長させる方向に働くもので、がん細胞も例外でないし、これが若い人の癌は進行が早い理由でもある。牛乳摂取量と血中IGF-1濃度に相関があるというデータも出ている。例えば
Milk consumption and circulating insulin-like growth factor-I level: a systematic literature review
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19746296
そういうわけで、牛乳をよく摂取する人の血中IGF-1濃度が高くて、乳がんの成長がより促進されるということは、既存の他の研究と矛盾するような話ではない

#著者はIGF-1とタバコを対比しているけども、IGF-1そのものが、癌を発生させているわけでないと思うので、この対比は不適切。IGF-1は加齢マーカーに使われるとおり、若い時ほど多いので、IGF-1が癌を発生させるなら、老齢になって癌が増える理由を説明しないといけない。一般に、疫学調査では、癌ある程度成長してから見えるので、癌の発生と進行のどちらに関与しているか区別できない場合が多い


けど、牛乳摂取量と血中IGF-1濃度の相関が、直接牛乳からウシIGF-1が吸収されるからとするのは無理がある(ヒトIGF-1とウシ-IGF1の配列は確かにほぼ同一)。第一に、カゼインIGF-1を保護して消化分解を免れると書いてるけど、カゼイン自体も分解されるので、そんなことはないはず。第二に、仮に消化を免れても、通常粘膜から吸収できる分子量の上限は部位にもよるけど、せいぜい1000程度だといわれていて(当然分子量以外にも色々な要因が関与するけども)、分子量7000のIGF-1は吸収されるには大きすぎる。もし、こんな巨大なタンパクが、どんな理由であれ、直接腸から高効率で吸収されるなら、普通に医学にとって革命的なことだと思う


#この件について、著者が引用している論文は、以下の2本であるけども、IGF-1が、そのまま吸収されるという話ではない
Degradation of IGF-I in the adult rat gastrointestinal tract is limited by a specific antiserum or the dietary protein casein.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/7561632
Gastrointestinal absorption of epidermal growth factor in suckling rats.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/6607683


#これに関して、以下の『消化管から吸収される分子の大きさは?』という記事に、面白いことが書いてある
http://www2.incl.ne.jp/~horikosi/No65.html


#最近、インスリンの経鼻スプレーがアルツハイマー病の予防に有効であるという話が出ている。インスリンは分子量6000程度で、同様粘膜から吸収されるとは考えにくいけど、鼻の奥から脳脊髄液に移行すると考えられているらしい。従って、糖尿病治療などの目的には、相変わらず注射により、経鼻スプレーは使えない。一応、経口投与可能なインスリン錠剤というのも開発中らしいけども、実用には至っていない


また、167ページには、牛乳からのカルシウム摂取が骨粗しょう症の予防に役に立つのは嘘っぱちだということが書いてある。実際
Milk, Dietary Calcium, and Bone Fractures in Women: A 12-Year Prospective Study
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9224182
では、沢山牛乳飲んでも骨粗しょう症の予防効果はないという結論が出された(疫学調査では、結論が割れるということはよくあるので、単一の調査だけでは何ともいえないと思う)。ところで、IGF-1は骨の分化・成長に関わっていることも知られている。そもそも、カルシウムの摂取量が年齢に依存するとは思えない一方、骨粗しょう症は老齢にならないと発症しないことを考えれば、老化に伴う各種成長因子の不足(その中でIGF-1の占める重要度はわからないけど)が骨粗しょう症の直接的な原因だと考えられる。牛乳を飲んで乳がんに大きな影響が出るほどIGF-1が増えるなら、骨粗しょう症の予防効果が見えてもよいけれど、その可能性については何も触れられていない。IGF-1が骨粗しょう症を予防する可能性については、例えば
Bone: Modulation of IGF-1 might prevent osteoporosis
http://www.nature.com/nrrheum/journal/v8/n8/full/nrrheum.2012.112.html


#カルシウム源は別に牛乳だけでないけど、牛乳でなくカルシウム単体の摂取による骨粗しょう症予防効果については、例えば
ランダム化比較試験によるカルシウムの骨粗鬆症予防効果の解明
http://www.j-milk.jp/publicities/9fgd1p0000022nlp-att/9fgd1p0000022nrg.pdf
これによれば、日本人のカルシウム摂取量は欧米人と比べて、かなり少ないので、欧米人ではカルシウム摂取による骨粗しょう症の予防効果は見えないが、日本人では有効である可能性を議論している(調査結果も有効だとなっている)。牛乳摂取による(日本人での)骨粗しょう症予防効果を肯定する調査結果も、上記の"Milk, Dietary Calcium, and ..."以降も出されている


牛乳を悪者にする別の論理として、132ページには、成人になると乳糖が分解できなくなる乳糖不耐症は「間違ったものを飲んでいる」という自然からの教えだと述べている。最近、海苔を分解する細菌は日本人の腸にしかいないという話があったけども、それと同様これは単に適応の問題に過ぎない



この本の内容と関連する日本人を対象とした疫学調査を国立癌研究センターがいくつか行っている
乳製品、飽和脂肪酸、カルシウム摂取量と前立腺がんとの関連について
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/317.html

大豆製品・イソフラボン摂取量と前立腺がんとの関連について
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/298.html

血中イソフラボン濃度と前立腺がん罹患との関連について
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/336.html

大豆・イソフラボン摂取と乳がん発生率との関係について
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/258.html

血中イソフラボン濃度と乳がん罹患との関係について
http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/315.html


乳製品と乳癌の関連性に関する調査結果はない模様。大雑把には、乳製品が前立腺癌のリスクを上昇させる一方、大豆食品摂取は乳がんと限局性前立腺がんのリスクを低下させ、かつ血中イソフラボン濃度が高い人では乳がん・限局前立腺がんのリスクは低いという結果になってる。但し、乳製品による影響はカルシウムや飽和脂肪酸を疑い、IGF-1レベル増加などは特に触れられていない(欧米で行われた過去の関連研究も同じような感じなので、それに従ったものと思われる)。


Webの方には、どの程度の牛乳・乳製品摂取量であったか具体的な数値は出ていないけど、論文の方を見ると、最も多い人で牛乳摂取量は600mL/day程度だと書いてある。一方、欧米の研究では、1L/day以上/以下の摂取量を区切りとする研究がごく普通のようで、2L/day以上とかいうカテゴリーも出てくるので、摂取量は桁が違う。牛乳飲んでるのに背が大きくならないという子は毎日2Lくらい飲めばまた違うのかもしれない。とりあえずまあ、比較的摂取量の少ない日本でも、牛乳や乳製品をよく摂る人では、前立腺がんのリスクが高くなる傾向が見えるという報告。


#食品からのイソフラボン摂取で問題が起きることは、ほぼないようであるけれども、サプリメントからの摂取は過剰摂取に陥る場合があるとされる
http://www.nikkeibp.co.jp/archives/421/421862.html



(2)The China Study
この本の主張は、ベジタリアンになれば健康的な生活が約束される(肉・乳製品・魚介類など全てNG)というもので、まあ悪い情報を集めてくれば、何でも悪く見えるという話でしかない。実際には、魚介類のどれかが悪いという証拠は一つも挙げられていない。原題を見れば分かるとおり、多分これは直接的には、マクガバン報告と関係ない(下巻ではマクガバン報告のことも触れられている)。マクガバン報告というのは、この手の話が好きな人たちによく引用されるので、そういう層へのウケを狙ったタイトルなんだろうと思う。マクガバン報告については
http://blackshadow.seesaa.net/article/84550458.html
http://d.hatena.ne.jp/machida77/20090808/p1


殆んどの部分は読むだけ無駄だけれども、特に牛乳に触れているのは3章と8,9,10章の一部で、8~10章は、概ね(1)と同じようなことが書いてある。3章には、毒性の高いアフラトキシンB1と蛋白源としてカゼインを含む食事を同時にratに与えた時、カゼインの割合が一定量を超えると、癌の発生率が大きく上がるということが書いてある。アフラトキシンB1を、わざわざ与えるという、特殊な状況での実験(といっても、普通に待っていては、なかなか癌は発生しないので癌研究としては常套手段の部類ではある)ではあるけど、内容は面白い。


この本の著者は、どういうメカニズムに拠るのか触れてないけど、カゼインは牛乳に大量に含まれるタンパクで、(1)に述べられたのとは別のメカニズムによってカゼイン乳がんの成長に寄与するということも可能性としては考えられる。ところで、カゼインを食事に与えると、ratの血漿IGF-1濃度及び肝臓でのIGF-1 mRNA量が増加するという報告がある
Effect of dietary proteins on insulin-like growth factor-1 (IGF-1) messenger ribonucleic acid content in rat liver
http://journals.cambridge.org/action/displayAbstract?fromPage=online&aid=870596


あくまで、ratでの実験ではあるけど、牛乳を飲むと血中IGF-1濃度が増加するという話とconsistentではある。今回の場合、実験の主要な観察対象は肝臓がんであり、この本の159ページに書かれているように、カゼイン摂取量の低下により、アフラトキシンB1の代謝速度が低下し、より危険なアフラトキシン代謝産物の生成が抑制されるという実験も考慮に入れると、カゼイン摂取は、何らかの形で肝細胞自体の細胞活動を亢進するのかもしれない(肝細胞の活動を亢進するなら、酒の飲みすぎで弱った肝臓によいという可能性もあるけど、さて?)。可能性としては、カゼイン分解時に生じる生理活性ペプチドの一つ(ないし複数)が、そのような活性を持っているということが考えられる。牛乳由来の生理活性ペプチドは1950年以来沢山知られている
http://lin.alic.go.jp/alic/month/dome/2006/sep/chousa-1.htm


#乳がんに対しては、IGF-1以外にも、(1)の本145ページの訳者注にもある通り、牛乳に含まれる女性ホルモンも、乳がん促進作用を持つと考えられる

#食品由来の生理活性ペプチドは、コラーゲン由来のPro-Hypや海苔由来のAKYSYなどがある。前者は明治製菓が系統的に調べている。絶大な効果があるとは到底いえないけども、通常食物由来の外来性生理活性ペプチドの活性はかなり低いということを考えれば、こんなものではないかと思う
http://www.meiji.co.jp/corporate/r_d/report/collagen/
後者については、白子のりが色々調べている
http://www.shirako-nori.co.jp/material/society.php


この本の著者の主張は「全ての食品は体に良いか悪いかのどっちかだ」という信念を認めない限り受け入れられない。実際に説明されている牛乳のリスクは、いくつかの癌、骨粗しょう症1型糖尿病で、骨粗しょう症は、最悪でも何の効果もないというだけでリスクではない。1型糖尿病への影響については、専門家の間でコンセンサスはないけど、書いてあることが全部正しくても、リスクは乳幼児に限定され、成長期の子供や大人にはリスクでない。まあ賛否ある以上乳幼児へ牛乳を与えるのは避けたほうがいいのかもしれない。というわけで問題になるのは癌だけど、牛乳そのものが、癌の発生要因であるというわけではない。進行を促進すると言っても、強力な発がん性物質を意図的に与えるという、かなり極端な状況下でratの実験なので、人間の牛乳摂取のリスクを評価することは難しい


まぁ、IGF-1にしろ、個々の食品にしろ、一概に、体によい/悪いという発想をすること自体間違いなのだと思う。人生の目的が、ただ乳がんを防ぐことのみであるなら、牛乳は悪いと言い切ってよいのかもしれないけど、そんな人は、あまりいないだろう。病気になった場合の食事療法はありえると思うので、癌になった場合に牛乳を避けるというのは、有効かもしれないけど(IGF-1受容体を発現しなかったり女性ホルモンが作用しない癌もあるはずなので、その場合は意味がないと思う)、定量的に、どれくらい効果があるかは分からない